乳がんとの「闘い」の6年間を支えた「生きる意志力」 エッセイスト田原節子が遺したがん患者たちへの遺言

がんサポート編集人:深見輝明
発行:2004年10月
更新:2013年9月

節子さんが最も信頼した主治医

中村清吾
聖路加国際病院外科医長
中村清吾

最初、田原さんにお会いしたときは、術後の傷がなかなか治らず、この先自分の病気がどうなるのか、先が見えない不安、恐れを強く抱いておられました。こんがらがった糸を解きほぐすのに時間をかけました。自分の病気のことばかりに目が向いていましたので、もっと外に目を向け、がんと上手につきあっていくことの大切さをお話したのを覚えています。
最初に受けられた抗がん剤治療に対してもトラウマがありました。生活の質を脅かすような治療は二度と受けたくないという気持ちでしたね。

しかし、再発してからの抗がん剤治療は、そういうものではないですよとお話しました。抗がん剤のために自分の生活や仕事ができなくなるようなやり方はしない。がんと上手につきあっていくために、がんが頭をもたげてきたら、少し叩いて引っ込める、そしてその状態をできるだけ長く続くようにするのが今の抗がん剤治療ですと。

田原さんにとって、この抗がん剤治療を受け入れたのが、一つの転機だったように思います。がんは引きこもって治る病気ではないというのがぼくの持論です。寝て点滴を打ち、おいしいものを食べてよくなるわけではなく、これまでどおりの自分の生活をして、病院に来たときだけがんのことを考える。そういう気持ちの持ち方をしたほうが、がんと上手につきあえます。

抗がん剤を受けてからの田原さんは、このぼくが思っている、理想的ながんとのつきあい方をされていたように思います。 また、ご自分のがん体験を通して、医療のことが深くわかるようになったのでしょう。ご自身患者さんであると同時に、もう一人の自分がいて、自分の病気の様子を冷静に見ている、もっというと、目線が自分の病気にだけ向くのではなく、その背景のがん医療全体に向いている、それも温かい眼差しで。そういう生き方を貫いた方でした。

節子さんを暗闇から救い出した医師

青木正美
青木クリニック院長
青木正美

節子さんが炎症性乳がんで手術をされたのは99年3月だった。私は当時節子さんと同じマンションに住んでいて、節子さんが退院して間もなく、偶然に田原夫妻と一緒になった。容態をお尋ねすると、手術の傷が芳しくないという。その晩、傷口を拝診し正直、仰天した。節子さんの胸と腋には、ゴルフボール大の縫合不全の穴がぽっかり空いていた。その日から傷口の消毒のため、出勤前後の往診が日課となった。完全に傷口が塞がったのは、翌年の10月だった。

こうした経緯もあって親交を結ばせて頂き、初期の女性解放運動の話など先輩女性としてもいろいろ教えて頂いた。この雑誌の連載対談にも呼んで頂いた。

医術というものは本や先輩医師から習うものでは決してない。目の前に居る患者さんこそが、生きた教科書であり最高の教師であると私は思っている。その意味で田原節子さんという方は、私という医者を最も育てて下さった患者さんであり、どんなに医療技術が進もうとも、一番大切なものは患者と医者の信頼関係である、それを改めて教えて下さった方だった。

がん友になって旧交を深めた

俵 萠子
評論家・陶芸家
俵萠子

彼女が日本テレビのアナウンサーだったころ、番組に呼ばれ出演したのが私と田原さんの初めての出会い。その後、彼女が女性を年齢や容姿で不当配属するなという裁判を起こした。当時ウーマンリブの急先鋒として活躍していた彼女の問題提起に、大変共感したのを覚えている。そして再び相見えたのが、お互いが、がんに罹患してからの雑誌での対談。この日以来、私たちは親交を深め、「がん友」になった。

ながいながい、お付き合いの中で何よりも強く心に残っているのは、先日江戸東京博物館で行ったトークショーのこと。
骨への転移で歩行はもとより、座位さえも取れなかった彼女が、本番になるとしゃきっと腰掛け、見事に役割を果たした。あの日の彼女の出演とトークの内容は、皆に感銘を与え、私にとっても素晴らしい思い出となった。少しでも多くの方に聞いて頂きたく、私はこのトークショーを「1・2の3で温泉に入る会」から、小さな冊子にまとめて出版することを決めた。

彼女は、最後までやりたいことをきちんとやって逝かれた。彼女はがんに負けなかった。

個人的にも交流のあった腫瘍内科医

渡辺 亨
山王メディカルプラザ・
オンコロジーセンター長
渡辺亨

田原さんは、当初、医療的には必ずしも理想的な状況にいたわけではなかった。しかし、そうした不遇の中からでも、自分でよりよい医療環境を求めていき、そして自分にとって一番いい医療というものを手にした方です。

たまたま住まいが近くということもあって、個人的にお話をする機会があったり、また私の病院にまでセカンドオピニオンを聞きに来られたこともありますが、田原さんは、常に必要な情報を、利己的ではなく、冷静にきちんと収集されていたことが想い出されます。患者さんの中には、自分のことだけを感情的に語る人もいますが、田原さんは、自分のことを題材にしながら、他人のことを語るような人でした。ご自分の経過を淡々と語りながらも、それを同じ病気で苦しむ人のために情報発信をできないかと考えていました。

NHKのテレビ出演でご一緒したときは、自分でも「末期」とおっしゃっていましたが、かなりおつらそうでした。しかし、そうした中でさえ、周囲のことを精一杯考え、気を遣っているのです。立派な方が亡くなられて、本当に残念です。

病室で、“寝たまま対談”を引き受けてくれた

佐々木 常雄
都立駒込病院 副院長
佐々木常雄

今年の6月21日 聖路加国際病院の病室で「がんサポート・シリーズ対談」のためお会いしたしました。体調が悪いにもかかわらず、約1時間半、抗がん剤治療、在宅治療などのお話をいたしました。特に治癒が困難と考えられる状況では、患者さん本人と真実を話し合い、たとえば抗がん剤治療が、本人の人生にどれだけ貢献できるか、もし残り短いかもしれない人生とすれば、これからどう過ごすかを医師と一緒に話し合うことが大切であることなどで意見が一致したと思いました。

私たち医療者は「いつも私たちはそばにいますよ、いつでも相談にのりますよ」という姿勢を分かるように示すことが必要だと考えています。対談を通じて田原さんご自身がすでにつらい状況にありながらも、他のがん患者さんのために役立ちたいという気持ちを強く感じました。

私たち医療者は「真の意味での患者中心の医療」をさらに進めていかなければならないと思います。
ご冥福をお祈りいたします。

若葉マーク患者の相談役になった

山中 登美子
映画評論家・エッセイスト
山中登美子

節子さんから電話があったのは、98年の秋だった。節子さんとは古くからの付き合いだったが、私も乳がんを体験し、乳がんに関する本も出版したことを知り、話がしたかったのだという。

病室に伺うと、「乳がんだと言われたけれど、どうも違う気がする。しこりもないし……」と、釈然としない表情だった。そのときはもちろん、炎症性乳がんで余命は半年程だろうということを、ご家族が黙っておられた、などということを私は知らなかった。

医師からどんな説明があったか尋ねると、「胸に悪いものがあると言われた」と言う。「それが、乳がんだという意味ですよ」と私はかまわずに言った。「ああ、山中さんにがん告知をされてしまった」と、彼女は笑っていた。

一度退院なさってからの節子さんは、自身の病について調べ上げ、前向きにきっちりと生きた。「元気な間に、行きたいところへは全部行ったの」と語ってもいた。 今年の6月に入院なさってからも仕事をつづけ、「人が定年を迎える頃になって売れっ子になっちゃった」といたずらっ子のように、笑った。

今まで日本では、がんになっても、「きっと元気になるから」と患者を励ましてきた。しかし、節子さんはいずれは抗がん剤が効かなくなり、死を迎えるということを、はっきりと覚悟して仕事をされていた。死を見つめながら、それでも最期の日まで、チャーミングに生きた彼女の姿は、本当に素晴らしいものだった。

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