「左手が頭脳、右手は職人」 集中力で難手術をコントロール
ラガーマンが選んだ頭頸部専門医の道
その後、その技術を請われていくつかの大病院に勤め、国立がんセンター東病院に勤務していた1999年に、東京医科歯科大学から「日本で初めての頭頸部外科を創設するので協力してほしい」との要請があり、いよいよ頭頸部外科の第一人者となった。
そこで取り組んだのが、集学的治療の体制作りだ。頭頸部の手術は大がかりになることが多く、形成外科、脳神経外科などとチームで対応しなければならない。そのためのチーム医療体制を築いた。その統率力にはラグビーでの経験が生かされた。
「お互いの良い所を認め合って、役割をきちんと発揮していくことがチーム医療には大切です。少しはラグビーの経験も役立っているのかな? 自分1人よりも力を結集したほうがレベルの高いことができるのは当然です」


「閃き」が大切。メスを持つ右手は肉体労働で、左手は頭脳労働
「頭頸部の手術で大切なのは、閃きです。内臓の腫瘍と違うのは、腫瘍が周囲にくっついているのか、どれくらいの硬さなのかは感触でしかわからない点です。正常な組織と腫瘍の違いは感触でしかわかりません。探りながら、正常なところから次第に絞っていって最後に切除します」
そこに、頭頸部の治療に40年を費やしてきた岸本さんの「凄腕」がある。「私は右利きなのですが、左手がすごく重要です。左手で腫瘍を持って、引っ張ったり押したりしながら、進路を決めていきます。一般的にはメスを握る右手が大切と思われますが、私は左手の動きを重視します。例えるならば、メスを持つ右手は肉体労働で、左手は頭脳労働という感じでしょうか」
岸本さんは、左手の感覚で切除範囲を判断する。「若い医師は、最初は切るのに精一杯で左手が遊んでいます。左手の重要性が分かるまで、10年はかかります」
そして、岸本さんの特徴は、手術中の体の軸が動くことなく一定なことだ。「気をつけているのは、頭を動かさないということです。集中力とも言えます。ヘッドライトの光がぶれないようにします。医師の中には頻繁に横を向く方もいますが、私は絶対に顔を動かしません。ポジションを見つけたら動かないということなので、そのセッティングが重要となります。いかに手術をやりやすくするか。術者の姿勢維持は大切です。かがみ込むようではいけない。いつも同じ姿勢で見つめることがポイントです」
進むか止まるか。奥の深い頭頸部がん手術――20時間の大手術も
そして、定型通りには進まない頭頸部手術の難しさについて語った。「手術が進行するポイントごとに、進むか、止めるか、切るべきかなど、1つひとつ判断しなければなりません。そのときの判断力が大事です。猪突猛進型は危ないですね。逆に、判断できないでその場に留まって進まない医師もいけない。右か左か、切るか切らないか。頭頸部がんは奥が深いのです」
とくに難しいのが頭蓋底腫瘍など脳神経外科との密な連携が必要となるケースだという。顔を開き、頭を開いて、すべての腫瘍を取り出す。
「全国的にも頭蓋底腫瘍の手術を行っている施設はあまりありません。形成外科も加わって20時間ほどに及ぶ手術もしばしばです。難しさの点でいうと、小児がんもあります。専門的に扱う医療機関が少ないので私のところに紹介されてきます。横紋筋肉腫などで、手術では顔面から頭の中に入っていきます。極力顔に傷がつかないように配慮するのは当然のことです」
若い医師に伝えたい「凄腕」の極意
岸本さんは、若い医師と手術をともにする機会を増やしている。カンファレンスでも、積極的に意見を求める。「CT画像などを見ながら、シミュレーションをします。カンファレンスを通して十分準備した上で手術に臨みます」
後輩医師への指導ポイントは。「やはり、左手をうまく使うことですね。左手で判断すること。そして、乱暴には進めない。慎重に、先を読む――ということでしょうか。手と頭をうまくコーディネートしなくてはいけませんね」
岸本さんの悩みは、外科医を志す若い医師が減っていることだ。とくに頭頸部外科などは成り手が少ないという。「興味を持ってもらい、やりがいのある領域であることを伝えたい。頭頸部がんの治療はテーラーメイドなんです。そこに個人の判断力・技術が発揮される。若い人を多く育てたい」
ロボット手術には置き換えられない職人技を伝承
手術から1週間。耳下腺がんを摘出した80歳代の男性は、順調に回復していた。手術翌日にはすでに廊下を歩いていたという。
「頭頸部がんの手術は、職人技と言ってもいいかもしれません。腹部のがんなどで広まっている腹腔鏡手術やロボット手術などは応用が難しいでしょう。周囲の組織との癒着や硬さ、その裏に何があるのかは触ってみないとわからないものがあります。技術を発揮しなければならないだけにやりがいも大きいのです」
「引退も近い」と自身でいうが、今でも月に数度の大手術を手掛ける。職人技伝承のためには「凄腕」の力がまだまだ必要なようだ。