渡辺亨チームが医療サポートする:緩和ケア編

取材・文:林義人
発行:2007年12月
更新:2019年7月

末期患者が苦しむ様々な症状に、手厚いケア

 森田稔さんの経過
2007年
1月5日
吐血し、ホームドクターを受診
6日 内視鏡検査の結果、要精密検査
2月11日 2度目の吐血
13日 K市立病院を受診、精密検査
20日 4期スキルス胃がん
3月1日 TS-1の服用開始
4月10日 伊豆・箱根方面へ旅行
7月1日 入院
7月18日 退院し、北海道旅行へ
8月4日 再入院
8月25日 在宅療養
10月15日 再々入院
10月31日 永眠

北海道から戻った森田さんは、真夏の暑さや旅の疲れもあって、全身倦怠感と痛みを覚えるようになり、8月4日、再び入院生活に入った。が、1週間もすると、安静のおかげで体が楽になってきた。

「俺はこのままモルヒネ漬けになって、ここから動けなくなるのではないか(*1モルヒネに対する誤解)。もう1回家へ帰ることができるんだろうか」

早速、久子さんは受け持ちの看護師に相談すると、30分後に緩和ケアチームの上村看護師がやってきた。

「モルヒネのことでご心配なさっているようですね」

森田さんは驚いた。ちょうど自分が聞きたいと思っていたことに答えてくれる人物が現れたからだ。

「このままでは薬漬けで動けなくなってしまうのではないかと思って。これまで私の親戚や知り合いががんで死ぬときはみんなものすごく痛みに苦しんだり、錯乱したりするのを見てきましたからね」

「実は、医療者にも今の森田さんみたいに考える人が結構いるんですよ。だから、医療用麻薬があまり上手に使われていないんです。でも、数カ月、数年間モルヒネを使い続けてちゃんと痛みのない生活をしている患者さんも大勢いるんです。普通に生活をしている人も珍しくないし、仕事を続けている方もいらっしゃいます。またモルヒネ以外にもフェンタニル(商品名デュロテップ)という貼り薬の医療用麻薬もあり、飲むのがつらい方にはお勧めです(*2医療用麻薬の剤形)」

森田さんは安堵した。薬は経口のモルヒネ薬から貼り薬のフェンタニルに替えた。飲��薬が減るだけでもかなり楽になり、便秘も改善した。

「がんになってもまだ人生が終わったわけではない。家に戻って生活ができるようになるかもしれない」と、もう1度希望を持つことができた。

上村看護師は森田さんの在宅療養の手配も進めた(*3在宅ケア)。医療相談室に紹介し、医療ソーシャルワーカーから介護保険の利用方法を教えてもらい、その申請を行っている。また、地域の訪問看護ステーションから訪問看護師*4)のケアが受けられるように手配してもらってもいる。こうして8月25日、森田さんは医療用麻薬の貼り薬と緊急な痛みのためのレスキュー剤(速効製剤)を持って退院、自宅療養に入った。

お腹に腹水、下肢にリンパ浮腫

在宅療養に移った森田さんは、以前のようには身体が思うように動かない日が増えてきた。そんな日曜日、長男・愼一さんが会社の後輩だという若い女性を自宅に連れてきた。森田さんに、「彼女と結婚しようと思っている」と紹介したのである。どこか妻・久子さんと似たところがあるのを見つけ、森田さんはちょっとうれしかった。自分が久子さんを初めて両親に紹介した日のことを、つい昨日のことのように思い出していた。

1カ月を過ぎる頃から両下肢にむくみが出始めてきた。お腹も膨れ、絶えず圧迫感を覚えた。10月7日に森田さんは、愼一さんの運転でK市立病院に連れて行ってもらい、消化器内科の外来を訪れる。山口医師は森田さんのむくみを見て「お腹に腹水*5)が溜まり、下肢にはリンパ浮腫が起こっています」と説明した。

10月15日、森田さんはK市立病院消化器内科に再び入院した。今回は個室である。病室には主治医の山口医師よりも、緩和ケアチームの本多医師や上村看護師が森田さんの様子をうかがうために頻繁に訪れるようになっていた。

森田さんは1人になると病床でしみじみと、むくみのでた足を見る。これまで身内や知り合いの末期を何度か見てきたが、やはりその多くは腹水がたまっていた。日に日に自分でできることが少なくなり、QOL(生活の質)の低下を意識せざるを得なくなっていく。自分でもだんだんと訴えが増えていくのを自覚していた(*6QOLの低下とがん患者の主訴)。

旅立ちの準備を整えていく

入院後森田さんはもうあまりベッドから離れられなくなっていた。そうした事態も想定して彼は、富士山周辺や北海道の旅で撮り貯めた大量の写真をベッドに持ち込み、これを見ながら過ごそうというつもりだった。

ところが、病院ではいつも家族がそばについているわけではなく、時に1人で取り残される。そんなときふと、「自分はどうして55歳で死ななければならないのか」と落胆の気持ちに陥る。症状が進行し体の衰弱が加速するにしたがい、「自分がいなくなったら家族はどうなるのだろう」「自分のことを忘れ去られるのではないか」という思いにさいなまれたりする。食欲もなくなり、眠れない夜が続く。家族は、森田さんが日に日に精神的にも元気を失っていくのを感じずにはいられなかった(*7心の痛み)。

森田さんが抑うつ気味であることに病棟看護師も気づいていた。「よろしければ、精神科の先生に1度お話を聞いてもらいましょうか」と、緩和ケアチームの上村看護師が提案した。

森田さんと同じくらいの年齢の医師とともに現れた。(*8サイコオンコロジー)。「精神科医の黒川先生です。ご気分はどうですか」と黒川医師が話しかける。森田さんが戸惑った様子を見せると、数秒置いて、「今、一番ご心配なのは何ですか?」と聞いた。

「ああ、そうですね。息子がこの前初めて彼女を連れて来て、来年結婚するとか言っていたのですが、うまくいくかな、と思って。私に似て不器用なやつだから……」

「そうですか。それはよかったですね。きっとうまくいきますよ。森田さんはきちんとされた方のようですね。息子さんもきっとやさしい方だと思います。幸福な家庭を作っていくことができるでしょう」 「私には大学生の長女もいましてね。これがまた世間知らずのわがまま娘で……」

「きっと可愛いお嬢さんなのですね。わがままは自己主張が強いということですね。受身で生きるより幸福な人生を選択していくことができますよ、きっと」

黒川医師と話をした日から森田さんは落ち着いた態度を見せるようになった。周囲の家族や見舞いに訪れる人たちに、自分の人生を振り返るような昔のことをいろいろ語っている。

久子さんと結婚し、2人の子供が生まれ、子育てを妻に任せきりだったこと。仕事が忙しく、あまりかまってやれなかったが、2人とも大人になってきたという話。今は何もしてやれないが、幸せな人生だった……。

写真:痛みの強さに応じて薬を注入できるPCAポンプ
痛みの強さに応じて薬を注入できるPCAポンプ

やがて薬が飲めなくなり、今は痛みに応じて薬を注入できるPCA*9)ポンプと呼ばれるモルヒネの注射に変えてもらっている(。

しかし、10月28日、妻・久子さんが、「夫と会話が通じなくなった」と看護師に訴えた。森田さんに意識障害*10)が始まった 。突然「仕事に行かなくては……」などと言い出し、久子さんを悲しませたりする。本多医師が投与した薬が効いて一時的に意識が回復し、息子の結婚式のことを心配したりすることもあったが、だんだん意識障害の時間が長くなっていった。看護師たちは、できるだけそばにいて、本人に語りかけるように促した。

あるときふと久子さんをはっきり認めているような口ぶりでこう話す。

「これまでいろいろありがとう。世話になったな」

10月31日、3度目の入院をして2週間で森田さんは亡くなった。悲嘆にくれる久子さんに、医師や看護師が「長い間、ご苦労様でした」「ご主人は本当にいい方でしたね。ご家族に見守られてご本人も喜んでくれますよ」とやさしい言葉を掛ける(*11家族のケア)。久子さんは大いに救われた気持ちになった。夫が残した写真を手に取りながら、北海道の乾いた風と夫の笑顔を思い出していた。


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