西洋医学の限界をカバーし、症状を緩和する 国立がんセンター緩和ケア科の鍼灸治療
化学療法によるしびれの緩和効果も

麻酔・緩和科推進対策室長の
下山直人さん
下山さんは、横川さんと同じく千葉大医学部出身。大学では電気生理学の観点から鍼灸の基礎研究をしたこともあり、「鍼の効果はちゃんと科学的に証明されています。東洋の不思議な力という感覚はないです」と語る。
がん患者の痛みをコントロールする専門家として、他の療法と連携した全体的な緩和ケアの中に鍼灸治療を位置づけている。「横川先生が言うように、薬だけで痛みに対処するのは、限界があるんです。その西洋医学の限界を、鍼灸はかなりカバーしてくれていると思いますね」
がんの痛みの緩和には、普通、薬物療法をする。麻酔科などでは、神経ブロックも行う。「そういう方法で患者さんの痛みは、8割から9割はとれるとされています。問題は残りの2割から1割です。鎮痛剤やモルヒネなどオピオイド系の薬物に反応しにくい人、症状でいうとしびれ、浮腫、長くベッドに寝ていて腰が痛いなどの筋肉痛、全く感覚がないなど。こういう人に鍼や灸をすると、薬よりも効く場合があるんです」
さらに、鍼灸には、がんの化学療法に伴う副作用を軽減する効果があるという。例えば、タキソール(一般名パクリタキセル)などの抗がん剤を使用するとかなりの頻度で手足のしびれが出現する。「こういうしびれには、一般には、抗てんかん薬などの補助薬を処方します。しかし、お年寄りなどだと、抗てんかん薬で眠気やふらつきなどが出やすい。そういう人には、早い段階から鍼をしてみましょうか、となります」
抗がん剤とその他の療法を組み合わせ、副作用やつらさを軽減すると、治療をやめないで継続できる。その際、副作用の治療で副作用が出るのでは、良質な治療とは言えない。鍼灸には合併症や副作用がほとんどなく、安心して使えるという。
「ぼくらは患者さんの苦痛を除くために、チームで対応しています。看護師、鍼灸師、理学療法士、心理療法士、栄養士、ソーシャルワーカー……。患者さんのために、いいと言われることなら、全部やりたいです」と下山さんは語る。
気血の流通のバ���ンスを整えて治療

鍼灸師の柳沢比佐子さん
鍼灸による痛みのケアは、なにか特別のツボに鍼や灸をするのだろうか。1970年代に世界に鍼灸ブームをもたらすきっかっけになった中国の鍼麻酔では、手の甲の、親指と人差し指の骨が交わるあたりの合谷というツボに鍼を刺入し、強い刺激を加えて鎮痛作用を発生させ、抜歯や開腹手術などをする。同様な方法があるのかと、治療室の鍼灸師、柳沢さんに聴いてみた。
「いえ、そんなことないです。患者さんの状態に合わせて普通に治療するだけですよ」と柳沢さんは笑った。最年長の70代の柳沢さんと横川さん、鈴木さんは、ともに日本の伝統鍼灸の主流である経絡治療の一派、東方会の会員だ。鍼灸医学は、人体には経脈と呼ばれる12のエネルギーの通路が回流し、それが滞ると病気になると考えている。経絡治療は、その経脈の変動を手首の脈で診断し、ツボを選んで刺鍼して病んだ経脈を整える技法で、1930年代に日本でシステム化された。
「人間は、大宇宙に対応して生きている小宇宙です。宇宙の気の交流の中で、気血のバランスが整っていてこそ健康でいられる。バランスが崩れると病気になる。その人のバランスがどこで崩れているかを判断し、それをいかに整えるかを考えて治療をするのが鍼灸なんです」と柳沢さん。
痛みを止めることだけを目的にするのではない。患者の経脈を通じさせ、気血の流れを改善すれば、全身がバランスを回復して健康な状態になり、結果として痛みから解放されるというわけだ。

足裏への知熱灸によって経脈の気のつまりを除く
柳沢さんたち東方会では、一般的な経絡治療で行う経脈上のツボに浅く刺す鍼のほか、会の創始者、故小野文恵さんが開発した刺さない接触鍼を多く使う。その中には、散気鍼と言って、面としてとらえた肌の状態に合わせて圧を調節しながら、リズミカルに鍼を接して体表の気の鬱滞を散らす方法もある。
鈴木さんも、座らせたSさんの背中を左手で探りながら、右手の鍼を断続的に触れさせていた。Sさんの背中はつやを増し、血色がよくなった。「気持ちいいですね」とSさん。続いて鈴木さんは、Sさんの足の裏の真ん中の湧泉というツボに大きなモグサを付け、火を付けてすぐに取った。知熱灸と言って、燃え切るまで据えずに、患者が熱いと感じる直前で取り去る跡の付かないお灸だ。穏やかな熱刺激で、経脈の気のつまりを除くためのものだ。
このほか、鈴木さんがSさんの肩甲骨の近くにしていたように、凝りや突っ張りの個所には灸頭鍼をする。鍼の柄に付けたモグサの輻射熱が肌を温め、さらに鍼を通して熱が奥まで伝わって、こった部分の筋肉をほぐす仕掛けだ。
このように、東方会流の経絡治療は、マイルドで繊細な治療法を特徴とする。しかし、とっておきの強い鍼もある。気だけでなく血が滞って症状を引き起こしていると診た場合、注射針でツボを刺し血を少し出す刺絡鍼法をする。下山さんが語った、抗がん剤の副作用によるしびれで活躍するのは、この鍼だ。
「西洋医学にはしびれの薬はないのですが、刺絡をするとかなり成績がいいです。すぐとれることもあれば、何回かしているうちにとれることもあります。Sさんのしびれも、とれましたね」と鈴木さん。刺す場所は、しびれる個所を走行する経脈の末端の、手足の爪の生え際が多い。そこには井穴と呼ばれるツボがある。背中や腰の毛細血管に血が停滞し糸ミミズのように見える所があれば、そこからも血を出す。
刺絡はしびれに効くだけではない。柳沢さんの記憶には、こんな患者がいる。その男性は51歳で、初診時の前年、頭部の腫瘍で手術を受けていた。主訴はこりとだるさ、食欲不振、気分の悪さだった。顔を見ると赤くのぼせた印象で、脚は冷えていた。
鍼灸は初めてというので、初回は胸やおなか、肩と背などに接触鍼をするだけにとどめ、2回目に、頭部の鬱血を取るため、目の下の四白というツボに刺絡をしたところ、貯まっていた黒い血がちょっと飛び出た。その後も週1回の治療を続けたら、体調だけでなく精神も落ち着いてきた。そして思いがけないことが起きた。手術前からあった難聴が、20回目を過ぎて軽快し、補聴器がいらなくなり、耳鳴りもなくなったのだ
痛み、便秘、浮腫、吐き気に向き合う
がんセンターにおける鍼灸治療と聞いて、鍼灸でがんを治療できるのか、と考える人も少なくないだろう。それに対して、柳沢さんは、「鍼灸でがんが治せるかどうかは分かりません」とあっさり言う。柳沢さんの現在の患者にも、乳がんの手術はしたが余命は半年で、抗がん剤や放射線治療などは無駄と主治医に宣告されたが、鍼灸治療を受け、16年間元気でいる女性がいる。だが、その例を一般化できるとは、柳沢さんは思わない。
いっぽう、柳沢さんは、鍼灸はがんやがん治療に伴う患者の苦痛を和らげることができるか、という質問には、はっきり、「できることはたくさんあります」と答える。がん患者の痛み、便秘、浮腫、吐き気、肩こり、腰痛などと長年、向き合い、一緒に克服してきた事実があるからだ。
それは、こう話す鈴木さんも同感だ。「食道がんの方でした。最後が近づき、おなかと背中がつらくなったからと頼まれ、病室で軽く接触鍼をしたんです。そうしたら、つらさがとれ、食欲が出ておにぎり1個が食べられ、ほっとした感じで亡くなられた。鍼灸は、からだの痛みとともに、精神の苦痛も和らげ、QOL(生活の質)を高める全人的医療です。末期の患者さんにも、してあげられることがあるんです」
横川さんは、雑誌『漢方と最新治療』の2004年11月15日号の論文「緩和ケア科における鍼灸治療の実践」において、「(鍼灸が)奏効を示す場合には、全身真綿に包まれ、宙に浮いているような心地にすらなる」と書いている。患者の気と鍼灸師の気が溶け合い、お灸の匂いに乗ってゆったりした時間が流れる治療室は、おのずからなるカンセリングルームでもある。
「治療しながら、朝、何を食べたの、って聞きますよ。そんなに甘い物ばかり食べてちゃ駄目よ、食べ物、運動、生活をチェックしなさいねって。病気を治すのはあなた自身、自分で治す気にならなくちゃ、治りませんよ、と言います」と柳沢さん。治療を重ねると、段々と患者も重い口を開くようになる。柳沢さんは聴く。「嫁姑のこととかね。いいよ、ここは憂さのはけ口だから、何でも言って、貯めておくのはよくないよ、ってね。我慢はそれこそ、がんの元ですからね」
こうして、身も心もほぐれ、患者の内なる自然治癒力が目覚めていく。
下山さんは言う。「緩和ケアチームは多くの病院にできていますが、鍼灸師が入っているのは、ここだけなんです」
医療界は緩和ケアにおける鍼灸師の役割を、まだ十分認識していない。千葉県成田市のクリニックで働く20代の鍼灸師、関恵子さんは、毎週月曜日、がんセンターに来て、柳沢さんの助手を務めている。「将来は、ホスピスで患者さんの鍼灸ケアをしたいです」と関さん。
関さんが、どんな病状の人にも対応できる鍼灸師として自立するころには、がんの患者がもっと自由に鍼灸治療を受けられるようになっていてほしい。
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