肺がん患者に有用な薬。しかし、副作用のない夢の薬ではない
イレッサの真実
肺がんに対する大きな効果を期待され、夢の新薬といわれながらも、発売後、副作用の間質性肺炎による死亡が相次ぎ問題となった「イレッサ」。
2004年末、英国のアストラゼネカ株式会社が「イレッサに延命効果はなかった」と発表し、関係者に激震が走った。
国内の副作用による死亡者数は2004年12月時点で588名。
遺族により国と製薬メーカーを相手に訴訟も起こされた。
しかし、イレッサにはスーパーレスポンダーと呼ばれる劇的に奏効する患者がいることも確認されている。
イレッサの真実について専門家に聞いた。
多発した副作用死
イレッサ訴訟原告の近澤昭雄さん
副作用の間質性肺炎で死亡した近澤三津子さんの遺影
「つらい地獄のような抗がん剤の治療もすべて終わり、三津子は耐えてくれました。しかし、もうこの先、治療も薬もありません。ただ自宅で暮らしながら祈るのみなのです。何か方法はないのだろうか、他にも治療があるのではないだろうかと、がんについてさまざまな情報を集めていたそんなときでした。平成14年7月の半ば、インターネットでイレッサのことが書かれているサイトを見つけました。『夢のような新薬』『副作用が少なく自宅でも手軽に服用できる画期的な肺がん治療薬』などの文字が輝いて見えました……」
法廷の中央に設けられている証人席で、近澤昭雄さんは淡々と、しかし決然とした口調で語り続けた。
2005年2月16日。東京地方裁判所で薬害イレッサ損害賠償請求事件(イレッサ東京訴訟)の第1回公判が行われた。その冒頭で行われた原告、近澤昭雄さんの陳述である。近澤さんは平成15年7月、次女三津子さんをイレッサによる肺がん治療を始めた2週間後、いったんは腫瘍が3分の1にまで縮小した後に亡くしている。死因は間質性肺炎だった。
肺がん治療薬イレッサ(一般名ゲフィチニブ)の是非をめぐる論議が社会的な問題にまで発展している。そして、その過程でこの治療薬に関するさまざまな疑問が噴出している。なぜ、多数の患者が薬の副作用で命を落とすことになったのか、副作用はどのような機序で起こるのか、そして何より、イレッサは効くのか効かないのか。
それらの疑問を検証する前に、まずはこの治療薬を取り巻く問題について、これまでの経緯を見直しておくことにしよう。
イレッサのがん治療薬としての治験が始まったのは平成11年のことだった。日本と欧米が共同して実施した第2相試験で18.4パーセントの奏効率が認められ、平成15年1月に承認申請が行われる。そして同じ年の7月、半年という異例のスピードで、世界に先駆けてがん治療薬として承認されているのである。
承認前から「副作用の少ない分子標的薬」としてマスコミなどで注目を集めていたことに加えて、経口薬という使いやすさも手伝ってか、イレッサは肺がんの治療現場に急速に浸透する。しかし、スーパーレスポンダーと呼ばれる劇的な治療効果を得た患者たちについての報告が相次ぐ反面、副作用で命を落とす人たちも現れ始めた。発売3カ月後には26名の患者に間質性肺炎が起こり、うち13名が死亡したことが報告される。死亡者の数はその後、数カ月の間に急増し、2004年12月時点では588名に及んでいる。
そんななかで昨年には大阪で国および、この治療薬の発売元であるアストラゼネカ株式会社を相手に訴訟が開始され、この2月には東京でも近澤さんを原告とする訴訟の第1回公判が行われている。さらに3月には大阪で、02年にイレッサを利用して亡くなった遺族が訴えを起こしている。
これらの訴訟に加え、がん患者をさらに混乱させているのが、この治療薬をめぐる海外の動向だ。世界のがん患者を対象に実施した試験では、イレッサには延命効果がないとアストラゼネカが報告、肺がん治療薬としての承認申請を取り下げたのだ。もっとも、同じ報告では東洋人に限っては延命効果が示唆されてもいる。
このように情報が錯綜するなか、厚生労働省では混乱を収拾するために3月10日から24日にかけて、3回にわたって識者、専門家を集めて「ゲフィチニブ検討会」を開催した。しかし、本当のところはどうなのか。私たちはイレッサという治療薬にどのように相対すればいいのだろうか。
欧米人と東洋人で異なる奏効率
28カ国、210施設で1692例を登録
[ISEL試験における
東洋人および東洋人以外のイレッサの奏効率]
奏効例/奏効率評価 可能症例 (イレッサ群) | 奏効率 (95%信頼区間) | |
---|---|---|
東洋人 | 26/209 | 12.4%(8.3、17.7) |
東洋人以外 | 51/750 | 6.8%(5.1、8.8) |
当たり前のことだが、抗がん剤に限らず薬剤の価値はベネフィット(効果)とリスク(副作用)を天秤にかけて測られる。ではイレッサの治療薬としての価値はどんなものなのだろう。その前にまずイレッサとはどんな治療薬なのか。
発売前からイレッサは「未来型抗がん剤」として大きな注目と期待を集めていた。それはこの治療薬が、肺がん治療薬では初めての分子標的薬であることに由来する。分子標的薬というのは、がん増殖の過程で現れるたんぱく質などを対象に、がん細胞に特異的に働きかける治療薬のことを指している。
「がん細胞の代謝にはEGFレセプター(EGFR)という受容体が不可欠で、とくに肺がんの場合には、がんが増殖する際にEGFレセプターも急増します。イレッサはこの受容体を抑えることで、がんの増殖に歯止めをかけようと開発されているのです」
こう語るのは、国立がん研究センター東病院院長でゲフィチニブ検討会委員でもある吉田茂昭さんである。
とはいえ現実のイレッサの効用のプロセスはさらに複雑な要素が絡んでいると考えられている。というのは、イレッサは肺がんのなかでもっともEGFレセプターの発現が著しい扁平上皮がんよりも腺がんにきわだった効果をもたらしているからだ。つまるところ正確な作用機序は現段階ではまだわかっていない。
ベネフィットという点はどうか。前に述べたようにイレッサは日本と欧米が共同で行ったIDEAL1と呼ばれる第2相の臨床試験で18.4パーセントという奏効率を示したことが承認の根拠となっている。しかし日本での肺がん治療薬としての承認後、アストラゼネカが日本、アメリカを除く世界28カ国、1692人の非小細胞肺がん患者を対象にした「ISEL試験」では「延命効果なし」と結論づけながらも、サブグループによる調査結果として、東洋人患者に限っては「延命の可能性あり」と報告されているのだ。一般的にこうした調査研究では主目的とは別個にサブグループの調査結果だけが評価されることはない。私たちはこの報告をどう受け止めればいいのだろうか。同じ薬剤で東洋人にだけ高い効果が得られるということがあるのだろうか。
実はイレッサが欧米人よりも日本人に有効に作用することは、その前に行われた「IDEAL1」でも確認されていた。前にいったように日本人(51人)と欧米人(52人)の肺がん患者を対象にしたこの治験の奏効率は全体で18.4パーセントというものだった。
しかし日本人と欧米人を個別に見た場合の奏効率はまったく違っている。欧米人を対象にした場合のそれが9.7パーセントにとどまっているのに対し、日本人患者の奏効率は27.5パーセントにも達しているのだ。ちなみに奏効率とは腫瘍が50パーセント以下に縮小した患者の割合を指している。また、この治験では病勢コントロール率も調べているが、その点でも大きな格差が生じている。欧米人のそれが38.5パーセントにとどまっているのに対し、日本人のそれは70.6パーセントにも達しているのだ。そのことも合わせて考えると、「ISEL試験」の結果にもある程度は納得がいくのではないだろうか。
全体での奏効率は250mg群で18.4%、500mg群で19.0%だった。日本人ではさらに奏効率は高い値を示した
では、なぜイレッサは東洋人に限って高い確率で効果が得られるのか。現在ではこの疑問も概ね解消されてきている。その理由はこの治療薬の作用の対象であるEGFレセプター遺伝子の突然変異にあった。
「がん患者さんの中には発がんと同時にEGFレセプターの遺伝子構造に突然変異が生じてがん増殖のプロセスでこの受容体がより大きな役割を果たすようになることがある。その場合にはEGFレセプターを抑えることによる抗がん効果は飛躍的に高まります。東洋人はこのEGFレセプターの遺伝子変異が欧米人に比べて、ずっと高頻度で起こることがわかっているのです」(吉田さん)
ちなみに昨年9月、ポルトガルで開催された世界肺がん学会では、アメリカ、オーストラリアの非喫煙腺がん患者のEGFレセプター遺伝子の変異率が20~30パーセント台なのに対して、台湾、日本、香港ではいずれも60パーセント以上の高率を示している。現在では、イレッサは「女性」、「非喫煙者」、「腺がん患者」により効果があがりやすいことがわかっているが、それもEGFレセプター遺伝子の変異率の高さによるものだ。もっともなぜ、遺伝子変異が起こるのかはまったくわかっていない。
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