精神的苦痛に苛まれる患者さんとご家族へ
がんに伴う不安や落ち込みへの対処法
精神腫瘍科医長の
吉川栄省さん
よしかわ えいしょう
精神科医。
1993年日本医科大学医学部卒業。
95年同医大精神医学教室入局、日本医科大学付属第一病院精神神経科勤務。
2002年国立がん研究センター研究所支所精神腫瘍学研究部勤務2006年より現職。
専門はサイコオンコロジー。趣味は合気道
がんの患者さんがうつ状態になる割合は?
2~4割が、日常生活に影響するほど落ち込む
がんを体験して、不安や落ち込みを感じた方もいらっしゃることでしょう。
静岡がんセンター・精神腫瘍科で、毎日患者さんの心と向き合っている医長の吉川栄省さんは、こう話します。
「当科では、昨年度、新規の患者さんが400名程度受診しています。ご自身から受診する方もいらっしゃいますが、他科の医師からの紹介で受診される患者さんが多いですね。
実際には、がんを患うことによる不安や落ち込みなどの精神的な苦痛を抱えておられる方はもっと多いと思われます。がんのように体に重大な病気がある人は、日常生活に影響するほど気持ちが落ち込む『うつ状態』(注1)になりやすいといわれています。がんとうつ状態の関係についてはさまざまな研究報告があり、調査によって数値にばらつきがありますが、精神科医が、がんの患者さんに直接面接した調査では、20~40パーセントがうつ状態を経験すると報告されています。うつ状態になることでQOL(生活の質)が低くなり、さらには自殺に関係することもあります」
がんに伴って心の苦痛を感じている方は決して少なくなく、なかには深刻な事態に至るケースもあるのです。
注1) 医学的には、重い落ち込みを「うつ病」、中軽度の落ち込みを「適応障害」と呼んでいる
落ち込みのきっかけや心理的プロセスは?
心の揺れ方や経過、再出発までの期間は千差万別
がんと診断された後、患者さんは「ショック」「落ち込み」「再出発」という3つの心理的プロセスをたどるといわれています(注2)が、実際はどうでしょう。
「最初に、強い衝撃を受け、頭が真っ白になった、何かの間違いだ、と感じたり、絶望感に襲われたりする『ショック、混乱の時期』。次に、これからどうなるのかという不安感や、周囲の人と自分だけが違うような孤立感、疎外感を感じる『不安、落ち込み』の時期。3番目に、人間が本来持っている適応力が働き始め、ストレスになんとか対処して『新たな生活へ出発』する時期。このようなプロセスを経て、通常は2週間(または1カ月)で3番目の段階に到達するといわれていますね。ただ、実際に臨床に携わっていると、非常に個人差があると感じます。一般的に、3つのパターンをたどる人が多いといえるかもしれませんが、落ち込みの時期や度合い、気持ちの揺れ方や立ち直るまでの期間については千差万別です。がんの種類、病期、その方の置かれた状況によって違ってくるのが自然なことでしょう」(グラフ参照)
落ち込みを感じるきっかけについても、「病名を知った後」だけでなく、「あらゆる場面」であり得るそうです。
「たとえば、手術がうまく行くかどうか悩んだり、手術後、何も治療をしなくても大丈夫だろうかと不安になったり、その他、化学療法の前後、再発したときなどさまざまです。
また、治療の効果が思わしくないとき、積極的な治療が難しくなったとき、痛みが増した、吐き気が続くというようなときなど、病気そのものや治療に関することで落ち込む場合もあれば、収入が途絶える、医療費が高額になるといった経済的な心配をきっかけに落ち込む場合などもあります。トイレなど身の回りのことが自分でできなくなった、家族のなかでトラブルが起こったといったことも要因になります。
このほか、治療後に社会復帰するときなど、がん以外にも多くの心労を抱えていて落ち込まれる方もいます」
がんという病気に人生のいろいろな苦悩が重なって、うつ状態になることも多いようです。
注2) このほかキューブラー・ロス女史の5段階などもある
患者さんの生の声は?
楽しめない、再発や先行きが不安、生きる価値がない、などさまざ
診察室では、患者さんからどんな声が聞かれるのでしょうか。
「何をしても楽しめない、絶望的になる、落ち込んでしまう、じっとしていられない、先行き不安だ、イライラする、家族の重荷になってしまっている、自分は生きている価値がない、生きていても仕方がない、死について考えるなど、患者さんによっていろいろです。ご飯が食べられなくなってしまうとか、不安で家のことは何も手につかないなど、日常生活に支障が出ている状態の方も多くみられます」
再発や死の恐怖を強く感じて、「再発や死の不安がお面のように張り付いている」という人や、「体に不調や痛みがあると骨転移ではないか、と再発不安にとらわれる」という人もいます。
「日常生活が何とかできていても、ふとしたときに病気の不安が頭をよぎる、考えたくもないのに突然思い浮かぶといった方もいます。
詳しくお話をうかがっていくと、以前は苦でなかった食事の準備に時間がかかるようになったとか、好きだった読書が長い時間できなくなったといったように、ご本人が意識されていなくても生活に影響が出ていることもあります。
また、普段なら気にならないようなことでも、がんと結びつけてしまうことがありますね。
身体の症状が続く場合は、まずは主治医に相談して、必要なら検査などをしてもらいましょう。検査しても問題がないのに、なお心配で仕方ないといった場合には、精神腫瘍科に相談していただくのも1つの方法でしょう」
前向きに対処すると生存率がアップする?
生存率には影響なし。周りにサポートを求めて自分らしく
どのような場合にうつ状態につながりやすいか、予備知識をもっていれば、患者さんやご家族も対処しやすくなると思われます。性格や社会的なサポート不足は、関係があるのでしょうか。
「がんになって初めて強い落ち込みを経験する人は少なくありません。若年や1人暮らしの人は、うつ状態と関連があるといわれています。でも、がんになって落ち込むのは誰にでも起こり得ることで、落ち込んだからといって、性格や暮らし方がおかしいということではありません」
がんとのつき合い方と、生存率やQOLとの関係はどうでしょう。「がんと前向きにつき合うのがベスト」とよくいわれますが、それを重荷と感じる方もあるのでは?
「10年ほど前に、『積極的で前向き、楽観的な取り組み』が長期生存につながるという報告(注3)があり、前向きな気持ちと生存期間のことを、皆さん気にしていらっしゃるようですね。気持ちが落ち込むと免疫力が落ちて、早死にしてしまうから前向きにしなくてはいけない、と。このテーマで何回か調査が行われていますが、きちんと科学的な結論がでているわけではなく、現在は全体として、前向きなことと生存期間の関連性はないとされています。ですから、気にしすぎる必要はありません。どんな人でも前向きなときもあれば、落ち込むときもありますよね。常に前向きな気持ちでいるのは、考えようによっては不自然なことかもしれません。いつも前向きでいようとするよりも、自分が落ち込んでいることを認めて、恥ずかしがらずに、まわりの人の力も借りながら、落ち込みを乗り越えようとすることの方が大事なのではないでしょうか」
注3)1979年にGreerらが、がんと取り組む態度を4つのカテゴリー(前向き、絶望、否認、あきらめ)に分類。1985年にPettingaleらが早期乳がん患者を10年間追跡し、「前向き」反応を示した群は、「絶望」反応を示した群より生存期間が有意に延長したと報告したが、その後、賛否両論が続出。最近、「前向き」なことと生存期間は関連がないが、「絶望」は関連がある。また、「前向き」なことはQOLには関連するとの研究発表が注目された。
吉川さんより一言
精神腫瘍科って何?
「精神腫瘍科」は、がん患者さんとご家族の心のケアを専門とした診療科です。英語の「サイコ(精神)オンコロジー(腫瘍学)」を直訳した言葉で、精神科(精神医学)の一分野ですが、「メンタルヘルス科」と言い換えるとわかりやすくなるかもしれません。病名が告知されるようになり、心のケアの必要性から、1970年代にアメリカのがんセンターで、専門的な精神的介入を始めたことが始まりのようです。日本では1995年、国立がん研究センターに精神腫瘍学研究部が開設されたのが専門機関としてのスタートで、その後各地のがんセンターに開設されるようになりました。比較的歴史は浅いけれども、心のケアの重要性が叫ばれている今、不可欠な分野となっています。
静岡がんセンターの精神腫瘍科では、精神科の医師と臨床心理士がチームを組んで、患者さんを診療・治療・支援しています。