孤独や不安な気持ちを支えたい
がん患者のメンタル・サポートが私の最後のライフワーク・竹中文良さん

取材・文:崎谷武彦
撮影:塚原明生
発行:2004年3月
更新:2013年4月

  
竹中文良さん
竹中文良さん
(ジャパン・ウェルネス理事長、医師)

たけなか ふみよし
1931年、和歌山県生まれ。
日本医科大学卒業。医学博士。
日本赤十字社医療センター外科部長、日本赤十字看護大学教授を経て、現在、同大客員教授。
1986年、大腸がんに罹患し、手術を受ける。そのときの経験に基づいて書いた『医者が癌にかかったとき』(文芸春秋社)は有名。
2001年、がん患者のメンタル・サポートを目的にジャパン・ウェルネスを設立し、理事長に就任した。


病気のことや悩みごとなどを自由に話し合う

写真:ホテルの一室のような東京・赤坂のJW事務所

ホテルの一室のような東京・赤坂のJW事務所。ここでがん患者たちが自由に語り合っている

「最近、ちょっと下腹に違和感があるんです。病院にいったら何でもないといわれました……。でもやっぱり気になるんですよ」

60代くらいの男性が心配げな表情で語りかける。周りにいる人々は皆、静かにうなずいている。なかには小さな声で「そうそう」といいながら共感を示す人も。

「私もそんなことがありましたよ、Aさん。でもお医者さんってそういうことにまともに取り合ってくれないんですよね」 別の男性がいうと、また一同大きくうなずく。最初に発言した男性は自分の不安な気持ちを受け入れてもらえたことが嬉しいのだろう、先ほどとはうって変わってニコニコと笑顔を浮かべている。

東京・赤坂。都内でも有数の盛り場として知られるこの街の裏通りにひっそりと建つあるマンションビルの一室では、毎日のようにこんな光景が見られる。NPO(特定非営利活動法人)のジャパン・ウェルネス(JW)が運営するサポートグループに参加した人たちだ。ここではがん患者たちが自分の病状や心配ごと、悩みごとなどについて自由に話し合うことになっている。

1グループはだいたい7~8人から10人くらい。できるだけ同じ種類のがんの人を同じグループに集めるようにしている。患者だけでなくその家族も参加できる。1回の話し合いは1時間30分から2時間程度で、2週に1回のペースで行う。とくにテーマは設けず、各自が話したいことを話す。参加者とは別に臨床心理士や看護師などが2人、ファシリテーターとして同席する。

ファシリテーターは話を誘導したり自分の意見をいったりはしない。あくまでも司会進行役だ。ただ話を聞きながら参加している人たちの様子を観察し、全然発言していない人がいると「○○さんはどうですか」と、声をかけたりはする。

がん患者の多くが孤独感を抱えている

写真:スタッフとともに、さまざまな事務処理をこなす竹中さん
スタッフとともに、さまざまな事務処理をこなす竹中さん

「同じ病気を抱えている人同士だから、分かり合えるし共感し合える。患者さんにはそれが励ましになるのです。がんのことは誰にでも相談できるようなことではありませんし、健康な人に相談してもなかなか理解してもらえません。だからがん患者の多くは孤独感を抱えています。そういう人がここへきて、最初のうちは人の話を聞いているだけでも、2回目3回目あたりからとうとうと話し出すこともあります。たまっていたものを一気に吐き出すような感じです。とにかく皆さんここへきて話したあとは元気になります。この会にくることだけが楽しみという方もいますし、大分や仙台からこられる方もいます」

2001年にJWを立ち上げ、代表を務めている竹中文良さんがいう。竹中さんは日赤医療センターの外科部長や日赤看護大学教授などを歴任した医師である。

「JWをつくるときは、医者仲間が応援してくれるだろうと思っていました。ところがほとんどの人が無関心。患者のメンタル・サポートは医者の領分ではないと思っているのでしょう。もっとも私も現役の外科医だったころは、手術がうまくいったあとの患者さんのことは、8割方頭から消えていましたけどね」

そういって竹中さんは苦笑する。ではなぜ竹中さんは、がん患者のメンタルケアに関心を持つようになったのか。それは竹中さん自身が、がんを体験したことがきっかけになっている。

“三人称のがん”と“一人称のがん”

写真:1970年にはビアフラでの救護活動に参加した

1970年にはビアフラでの救護活動に参加した(ビアフラはアフリカ、ナイジェリアの旧東部州。1967年に独立して「ビアフラ共和国」を宣言したが、内戦に敗れ70年に消滅)

1986年、夏。寝苦しい夜にふと目が覚めた竹中さんは、身体の下になっていた右手が下腹で一瞬何かに触れたように感じた。しかし確認するために何度かさわってみたが、もう触れるものは何もなかった。だがそれから2日後の深夜。今度は下腹部にしこりがあるのがはっきりと確認できた。

瞬間、頭のなかが真っ白になり、全身から汗が噴き出してきた。しかしそこは外科医である。1、2分で冷静さを取り戻すと、今度はじっくり自己診断にかかる。手に触れる腫瘍の大きさ、位置、可動性からみて大腸がんであることがほぼ確信できた。

「手術で摘出できれば最悪でも1~2年は生きられる」

というのが自己診断で竹中さんが出した結論だった。

翌日、日赤医療センターに出勤すると、自分で検査の手配をした。2日後に撮ったレントゲンで、下行結腸からS状結腸の移行部に直径3センチほどの腫瘍があることを確認。大腸がんという診断が下された。

手術が行われたのは8月19日の朝。大腸がんの進行度は「デュークスA~D」で表されるが、竹中さんのがんは病理検査の結果2番目に軽いデュークスBであることが判明した。リンパ節も含めて転移はなかった。デュークスBの大腸がんは、このころ5年生存率70パーセントとされていた。

「それまで30年近く外科医をしてきて、がんの手術もたくさんしてきましたし、死も看取ってきました。だからがんの治療はこういうものという自分なりのイメージができあがっていました。ところが自分ががんになってみると、どうもこれは違うな、という思いがありました。医者としてがん患者を見るときと、自分が患者になったときとでは明らかに違う。三人称のがんと一人称のがんでは、全然違うということにそのとき気がついたのです」

たとえばデュークスBという診断について。同僚の医師は「大丈夫、70パーセントは助かるのだからいいほうだ」と気軽にいう。客観的に見れば確かにそうだし、竹中さん自身もそれまで患者には同じようなことをいってきた。だが、自分が患者になってみると、「70パーセントに入るか30パーセントに入るか誰が決めるんだ。30パーセントに入ったとき誰が責任をとってくれるんだ」という感情がわきあがってきた。

「一番違ったのは、退院してからのことです。医者として見ているときは、入院して治療を受けている段階が一番大変なんだろうと思っていました。だから患者さんが退院すると急速に関心が薄れていったわけですが、自分が患者になって分かりました。退院して、身体も順調に快復してきて、仕事に復帰し、いろいろやり出したころ、今度は再発の不安がくるのだということを。しかも自分は医者ですから、再発したときの予後が非常に厳しいものであることも十分承知していました。そうすると死ということも考えざるを得ない。再発の不安にどう対応すればいいのか、そして再発したときには死をどう受け止めたらいいのか。がん患者は退院したあとにそんな重い問いを抱え込んでしまうのです」

デュークス分類=イギリスの腫瘍学者、カスバート・デュークスが1930年代に確立した病気分類。リンパ節転移、腫瘍の大きさ、組織への浸潤の深さを考慮してがんの進行度を分類


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