進行前立腺がんとの闘い がんとの闘いから学んだこころの持ち方の大切さ

山田康之さん 京都大学名誉教授・元奈良先端科学技術大学院大学長
発行:2008年2月
更新:2013年9月

  

前立腺がん市民フォーラム
基調講演「15年にわたる進行前立腺がん体験を通して」

山田康之さん
京都大学名誉教授・
元奈良先端科学技術大学院
大学長の
山田康之さん

やまだ やすゆき
1931年生まれ。
57年京都大学農学部卒業。
59年同大大学院農学研究科修士課程修了。
62年米国ミシガン州立大学農学部フルブライト奨学研究員。
82年京都大学農学部教授。
97年奈良先端科学技術大学院大学長。
99年文化功労者。
01年ミシガン州立大学名誉理学博士。
植物細胞培養により医薬品などを効率よく生産する技術を確立。米国国立アカデミー外国人会員。日本学士院会員。日本学士院賞受賞。
93年に前立腺がん発見以来、5回入院、3回手術

 

 

京都大学名誉教授で文化功労者である山田康之さんが、前立腺がんの宣告を受けたのは、平成5年、京都大学教授時代のことだった。
以来15年、入退院5回、手術3回、更なる手術治療を拒否する山田さんは今、尿道拡大の処置を毎月受けつつ充実した日々を送っている。
山田さんががんとの闘いから学んだことは、こころの持ち方の大切さだと言う。
山田さんの前立腺がん市民フォーラムでの基調講演を再録する。

失禁症状の診察で前立腺がんの診断

私は前立腺がん患者として、いろいろな治療を受けてきました。平成5年にがんが見つかって以来、15年になります。その間、5回ほど入退院を繰り返してきましたが、本日は闘病の経緯、病気を通して感じたこと、医療に対する希望などをお話しさせていただきます。

本年、平成19年の1月から3月まで、3回目の手術をして入院していました。その手術のときに、担当の先生から「入院サマリー」というものをいただきました。私の病歴を紹介するのにちょうどいいと思い、本日持ってきました。カルテのようなものですから、専門的な用語も多く、私にもよくはわからない部分もありますが、これに基づいて私の闘病の経緯を紹介させていただきます。

私は1931年(昭和6年)生まれで、現在76歳です。京都大学に勤務していた平成4年当時、私は主任教授で多忙を極め、病院に行く暇もない状態でした。その年の12月に尿を我慢できない、失禁(urgent incontinance)症状が出てきました。

平成5年12月20日に京大病院泌尿器科の初診を受け、同24日に生検を受けたところ、前立腺がんが発見されました。そのときのGS(グリソンスコア)は「3+4」でした(GSとは、前立腺がんの悪性度を分類する指標のこと。GSは数字が高いほど前立腺がんの悪性度が高いことを示す。一般的にGS2~4は悪性度が弱く、GS7~10となると悪性度が強いといわれている)。そしてPSA(前立腺特異的抗原)の値が118あり、リンパ節への転移が2カ所認められるという状況でした。

年が明け、平成6年になると、「すぐに入院してください」と言われました。しかし、主任教授として学生の就職など仕事がいっぱいあり、「とてもできない」と言って、しばらく待ってもらい、ホルモン療法を始めました。私の場合、プロスタールLはあまり効かなかったのですが、リュープリンは効きました。

京大病院で初めての70グレイの放射線治療

その後、平成7年9月からオダインの投与を開始しました。オダインは胃を悪くするということで、胃の薬も併用しました。これによって症状は小康状態を保ち、勤務も続けていました。この間、関西学術研究都市に新設された奈良先端科学技術大学院大学に、京都大学から誰か派遣しなくてはならなくなり、私が京都大学をやめて同大学に行きました。その後選挙で同大学の学長に選ばれました。

私は前立腺がんの治療中ですから、学長を受けるべきか悩み、京大病院の筧善行講師(現在香川大学教授)に相談したところ、「やりなさい。気持ちに張りがあることは大事なことですよ」と言われまして、学長を受けることにしました。

そのうちに再びPSAが上がってきたために、平成10年1月、放射線治療を受けることになりました。当時の放射線治療は、総線量40~50グレイ(Gray:グレイ)が普通でしたが、アメリカでは70グレイの治療が行われるようになっていました。京都大学ではまだ70グレイの放射線治療をやったことはなかったのですが、「あなた、やりますか」と聞かれ、「ぜひ、やってください」と答え、京都大学では初の70グレイの治療を受けました。当時すでに骨盤内にも転移がありましたから、骨盤内腔にも当てました。

しばらくは数値が下がっていましたが、その後また上がってきたため、平成14年8月、東海大学八王子病院でHIFU(High Intensity Focused Ultrasound:高密度式焦点超音波)治療を受けました。これは超音波プローブを肛門から入れて82~98度にて、がん細胞を焼き切る治療法です。これは最初、あまり効かなかったような気がします。平成15年2月に前立腺生検を行うと、GSは「5+4」になっていました。

そこで同年5月に、再度、HIFUを行うことになりました。そのときは担当の先生がものすごく張り切って、一生懸命当ててくださいました。2度目のHIFUをやると最終的に決めたのは私です。

しかし、HIFUを終えてカテーテルを入れたまま京都に戻りましても、なかなか良くなりません。あまりにも調子が悪いので、京大病院で診てもらい、尿道カテーテルを抜いてもらいました。すると、自尿ができなくなりました。こんな苦しいことはありません。今日もその自尿カテーテルを持ってきておりますが、その当時は自分で管を入れて出すようにしました。

排尿できないのはつらい、失禁することはありがたい

写真:講演中の山田さん
5回の入退院を繰り返したとは思えない元気さで

その後、同年6月に膀胱鏡で前立腺部尿道に壊死が発見されました。そして、その日発熱して入院し、抗生物質を点滴しましたが、微熱が続き、7月には膀胱鏡で尿道直腸瘻が確認されました。尿道直腸瘻とは膀胱と直腸の接する部分に穴が開き、小便と大便が混じってしまう状態です。5カ月寝たきりでしたが、真夏でも感染症の影響でガタガタ震えていました。

担当医師は私が障害を起こさないように、点滴とエンリッチメントの飲む食品を投与してくれました。その結果、私は栄養失調になり、96キロあった体重が76キロになってしまいました。そこで医師から、このままの状態を維持して、年に1~2回、感染症の治療を行っていくか、あるいは人工肛門にするか、どちらを選択するか、という選択を迫られました。私は迷わず人工肛門を選びました。

平成15年8月に人工肛門造設術を行った際、同時に経直腸的な閉鎖も試みましたが、閉鎖できませんでした。そして、そのまま退院となりました。ですから、排尿はほぼ肛門側から行い、排便は人工肛門で行う状態になりました。

平成16年6月、京都大学で講演を行いました。そのとき、人工肛門を付けてから初めて、1時間立ったまま話をしました。1時間の話の後、トイレに行きますと、立ったまま排尿ができました。前立腺部の壊死組織がほぼ脱落して上皮化し、瘻孔が自然に閉鎖したのです。人間の復元力がいかにすごいか、実感しました。担当医師には「信じられない」と言われました。

同年11月には、膀胱鏡で尿道直腸瘻の閉鎖が確認され、その後も定期的に狭窄部を拡張する尿道ブジーを行い、尿路感染を繰り返していました。

ところが、平成18年暮れ、自己管理していた自尿カテーテルが膀胱に入らなくなりました。担当医師に処方してもらったゼリー状の麻酔薬のようなものを付けて、2本、3本とやってみるのですが、うまくいきません。膀胱鏡で調べてもらうと、恥骨後部の尿道にたんこぶのようなものができていて、膿汁のような流出物があり、そこで点滴治療を目的に入院しました。

平成19年1月から3月まで入院し、その間、2月には尿道狭窄拡張手術を行いました。現在失禁していますが、失禁ほどありがたいことはありません。排尿できないのは本当に苦しいものです。

いま服用しているのは、LH-RHであるゾラデックスの腹部注射、抗がん剤エストラサイトなどですが、次第に効果がなくなってきていますから、そのうち違う薬を使うことになりそうです。尿道狭窄については、膀胱鏡観察とブジーを4週間に1回、行っています。


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