ようこそ!!がん哲学カフェへ 14
「あいまいなことはあいまいに」❷

山に登ろうとがんの夫に誘われた

樋野興夫 順天堂大学医学部病理・腫瘍学教授
取材・文●常蔭純一
発行:2015年1月
更新:2015年4月

  

登山が趣味だった夫が腎がんを患いました。手術で切除したものの、その後、骨転移が見つかりました。現在は予断が許されない状態で、主治医の先生からはそう長くはないかもしれないと告げられています。もっとも夫自身は前向きで気丈にリハビリを続けています。

少し前に、「また一緒に八ヶ岳に登ろう」と夫から誘われました。どうやら先生から、「元気になってまた山に登れるといいですね」と励まされたようなのです。

私自身も登山が好きで、夫と出会ったのも八ヶ岳でのことでした。でも、現在の状態では夫に登山などできるわけがありません。それで、そのときは「そう、また一緒に行けたらいいね」と言葉を濁すことしかできませんでした。でも、それからも夫は登山のことを話し続け、最近ではそのための計画づくりまで進めています。

夫がどんな気持ちで私を誘っているのかはわかりません。ただ「あなたはもう登山などできないのよ」とはっきりいうのは残酷な気もします。だからといって嘘をつくのも気がとがめます。私は夫に何といえばいいのでしょうか。

(A・Tさん、主婦52歳)

生存率の確率はあくまでも確率でしかない

ひの おきお 1954年島根県生まれ。順天堂大医学部病理学教授、医学博士。(財)癌研究会癌研究所病理部、米国アインシュタイン医科大学肝臓研究センター、米国フォクスチェースがんセンター、(財)癌研究会癌研究所実験病理部部長を経て現職。2008年より「がん哲学外来」を開設し、全国に「がん哲学カフェ」を広めている。現在32カ所の「がん哲学カフェ」での対話をはじめ、全国で講演活動を行っている

A・Tさんのような例はがん哲学カフェでも、しばしば見受けられます。患者さんとご家族、とくに配偶者との間での意思の疎通が不十分で、そのために夫婦のどちらか、もしくは双方が困惑しているというケースです。

そうした場合は、実は病気が見つかる前から、夫婦の間での相互理解に問題があることが少なくありません。とくに日本の場合は、男性が仕事や職場のことばかり考えていて、家庭を顧みないことから、知らないうちにわだかまりが募っていることも多いものです。夫婦がともに元気なうちはいいのですが、どちらかが病気になると、そのわだかまりが一気に表面化するわけです。そこから夫婦仲が険悪になっていくことも決して珍しくはありません。

もっともA・Tさんの場合は、質問からも夫婦が互いに労いたわり合おうとしている姿勢が伝わってきます。こうした場合の対応法は簡単明瞭です。A・Tさんはご主人の言葉をそのまま、受け止めてあげればいい。ご主人が「一緒に山に登ろう」と誘うのであれば、「そうね、一緒に行こう」と受け止め、そのための計画を立てているのであれば、一緒にその計画を考えてあげればいいのです。

もちろんご主人が登山などできる状態ではないかもしれない。しかし、そのことはあいまいなままにしておいてかまわない。それよりも夫婦間で意思が疎通し、互いに理解し合うことのほうがずっと重要です。がん患者さんとの関係づくりでは「正論より配慮」が求められることが往々にしてあるのです。そうして夫婦がともに、喜びを分かち合うことが何よりも大切なことではないでしょうか。

ご主人の言葉をまるごと受け止めてあげて

もっともこの質問を少し深読みすると、A・Tさんのご主人も自分はもう登山ができる状態ではないと悟っているようにも考えられます。

がんが見つかるまでのご主人がどんな人だったかはわかりません。ただひとつ言えるのは、人間はその人をめぐる状況変化の中で、その人自身も変わっていくということです。とくに死を意識すると、こどものように素直になり、周囲の人たちに対して優しく、思いやりを見せるようになることが少なくないものです。私が主宰するカフェでも、がん患者さんの優しさを知って、パートナーが落涙されるケースも決して少なくありません。

A・Tさんのご主人の「一緒に山に登ろう」という言葉も、あるいはそうした優しさや思いやりから出ているのかもしれません。自分はもう登山ができる体ではない、しかし、人生最期のひとときをパートナーと同じ希望を持って過ごしたい、そうしてパートナーに幸せな思い出を残してあげたい……そんな願いから生じた言葉のようにも私には思えます。その意味でもA・Tさんには、ご主人の言葉を丸ごと受け止めてあげていただきたいものです。

そうして2人がともに希望を持って過ごしていくうちに、思いがけない変化が起こることだって考えられないわけではありません。

A・Tさんはご主人の容態について悲観的ですが、それはあくまでも生存率など、確率をもとにした見方を前提にしてのことでしょう。

現実にご主人の状態がこれからどう変わって行くかは、実はあいまいな状態に置かれているのです。ひょっとすると、一時的にでも容態が回復することも考えられないわけではありません。かけがえのない人とともに希望を持って生き続けていれば、そうした変化が起こることだってまったく考えられないわけではありません。

そのときには車椅子を使ってでも実際に2人で思い出の地を訪ねればいい。そうして2人の願いを現実に置き換える。そのことによって何物にも代え難い大切な思い出がつくられる。それはA・Tさん自身が新たな人生を切り開いていくうえでも大きな力になってくれることでしょう。その力を獲得するためにも、しっかりとご主人の言葉を受け止めてあげてもらいたいと願います。

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