ようこそ!!がん哲学カフェへ 5

「お母さんはいつも怒っている」

樋野興夫 順天堂大学医学部病理・腫瘍学教授
発行:2014年3月
更新:2014年7月

  

昨年夏、定期検診で乳がんが見つかり手術を受けました。リンパ節や他の部位への転移もなく、今はホルモン治療を継続しています。3 カ月前からは仕事にも復帰し、ようやく以前と同じ暮らしを取り戻したと思っていたのですが、そううまくはいきませんでした。手術を受ければ体調はすぐに元に戻ると思っていたのですが、快調にはほど遠い状態です。

ところが現実はシビアそのもの。仕事は残業続きで、家に帰ると疲労困憊して家事も思うようにできません。加えて小学生の2 人の子どもたちも何かと手がかかります。夫に相談しようとしても、なかなか話を聞いてくれません。

そんな暮らしの中でイライラが募っているのでしょう。少し前に長女から「お母さんはいつも怒っている」といわれてショックを受けました。もう少し、肩の力を抜くことができれば、子どもたちにも優しくなれるとはわかっています。でも自分の置かれている状況を考えると、ついつい焦りが出てしまうのです。どうすればもっとゆったり生きることができるでしょうか。

(S・Yさん 女性 37歳 パート勤務)

人は暇げな人に心を開く

ひの おきお 1954年島根県生まれ。順天堂大医学部病理学教授、医学博士。(財)癌研究会癌研究所病理部、米国アインシュタイン医科大学肝臓研究センター、米国フォクスチェースがんセンター、(財)癌研究会癌研究所実験病理部部長を経て現職。2008年より「がん哲学外来」を開設し、全国に「がん哲学カフェ」を広めている。現在32カ所の「がん哲学カフェ」での対話をはじめ、全国で講演活動を行っている

がん哲学外来で相対する患者さんの中には、治療がひと段落した後、すぐに、生活を以前と同じペースに戻そうとしたり、あるいは病気になったことによる遅れを取り戻そうと、遮二無二働こうとして、逆に行き詰まっている人が少なくありません。

S・Yさんの場合も同じようなケースと言えるでしょう。治療後、間もなく、体力も十分に回復していないのに100%を求めるために焦りが出て、子どもたちに恐れられてしまっているのです。

子どもたちとの良好な関係を取り戻すには、S・Yさん自身が言っているように、まず、自分がゆったりとした気持ちにならなくてはなりません。では、そのためにはどうすればいいのでしょうか。

まず考えたいことは、今の自分の暮らしをじっくりと見つめ直してみることでしょう。そして自分にとって、本当に大切なことは何かということを考えてみる。それは日々の暮らしの中の1つひとつの営みに優先順位をつけることでもあります。

そうして考えると、まず、頭に浮かぶのは、子どもたちをどう支えていくかということでしょう。とすれば、少なくとも当面はそのことに全力を注ぐようにすればいい。後のことはすべて人任せにしてもいい、と考えるようにすればいいのです。

がんを患っているかどうかは別にして、私たちは、日々の暮らしの中で絶えず、様々な事柄に向き合い続けています。仕事、家事、育児、ご近所や親戚、友人たちとの付き合いにも時間をとられます。そして、そうした暮らしの中でああでもない、こうでもないと、つまらないことにやきもきし続けているのです。

でも、そこでちょっと考えてみて下さい。それらの中で、本当に必要なことは、どの程度あるかということを。おそらく、その比率は1割程度のものでしょう。それ以外の9割の事柄は後回しにしてもいい、あるいは自分がやらなくてもいい、不要不急の付随的な事柄で占められているのではないでしょうか。その中には自分本位で人の行動に干渉する「不要なおせっかい」もあることでしょう。

そうした、本当は、行う必要のない余分な事柄に振り回される結果、多くの人がいたずらに消耗を続けているのです。これは人の目を気にしたり、隣りの芝の青さに目を奪われていることに原因しているのでしょう。他の人たちに後れをとってはいけないという無意味な強迫観念が、その人を余計な行動に駆り立てているのです。

ゆったりとした気持ちで生きるには、まずは不要な事柄を思い切って切り捨ててみてはどうでしょう。そうして本当に大切なことだけに全力を傾ける。

S・Yさんの場合なら、子どもたちのサポートにエネルギーを注ぐようにする。そうすることで体力的にも、精神的にも余裕が生まれ、子どもたちに以前と同じ優しい笑顔を見せることができるようになるのではないでしょうか。そうして、生活が軌道に乗ってくれば、また少しずつ、大切なことの幅を広げていけばいいのです。

新たな夫婦の関係を構築する

そうはいっても、実際に9割の事柄を切り捨てることはそう簡単にはできません。

というのは、そのためには自らの生き方に自信を持っている必要があるからです。しかし、これがなかなかに難しい。そのためには何より、「それでいいのだよ」と、自分を優しく肯定してくれる誰かが必要でしょう。かくいう私自身も、毎朝、出勤する前に、必ず蔵書をひも解いて、新渡戸稲造先生をはじめとする4人の「心の師」に、その日の行動予定や所信を告げ、それでいいかどうか、お伺いを立てています。そうして心の中で、「それでいい」という彼らの声を聞き取ることで、1日をスタートさせているのです。

S・Yさんの場合は、その誰かはおそらくご主人ということになるのでしょう。ところがそのご主人もまた仕事に追われ、他の誰よりも大切な存在である奥さんの話に耳を傾けられないでいる。S・Yさんがイライラを募らせているのも、突き詰めると、そこに原因があるのかもしれません。

一度、ご主人が休みの日にでも、機会を作って、腹蔵なく話をしてみてはどうでしょうか。ひょっとするとご主人も、S・Yさんとの心の通じ合う対話を求めているかもしれません。そうして互いを認め合うことで、これまでとは異なる、より深みのある新たな夫婦関係を構築することも可能でしょう。そして、それができれば互いに自信を持って、暇げな表情で悠々と生きていくことができるでしょう。

私は、よくがんの罹患は新たな人生を切り開く分岐点になるといっていますが、夫婦関係もまた、その例外ではないのです。

新渡戸稲造=農学者・教育者。著書 Bushido:The Soul of Japan(『武士道』)」。

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