渡辺亨チームが医療サポートする:炎症性乳がん編
サポート医師・渡辺亨
医療法人圭友会
浜松オンコロジーセンター長
わたなべ とおる
1955年生まれ。
80年、北海道大学医学部卒業。
同大学第1内科、国立がん研究センター中央病院腫瘍内科、米国テネシー州、ヴァンダービルト大学内科フェローなどを経て、90年、国立がん研究センター中央病院内科医長。
2003年、山王メディカルプラザ・オンコロジーセンター長、国際医療福祉大学教授。
現在、医療法人圭友会 浜松オンコロジーセンター長。
腫瘍内科学、がん治療の臨床試験の体制と方法論、腫瘍内分泌学、腫瘍増殖因子をターゲットにした治療開発を研究。日本乳癌学会理事
「乳腺炎」と診断された左胸の腫れは、炎症性乳がんだった
大橋真由美さんの経過 | |
2004年 10月初旬 | 左乳首付近に小さな発赤を発見。数日中に左乳房全体が腫れる |
10月13日 | 産婦人科で乳腺炎と診断。抗生物質処方 |
10月18日 | 乳腺外科で炎症性乳がんの疑いを指摘 |
10月21日 | 炎症性乳がんと確定診断
|
松川市に住む38歳で2児の母である大橋真由美さんは、左乳房に、赤く腫れている部分があることに入浴中に気づいた。
しかし、放置しているうちに、それがまたたく間のうちに乳房全体が腫れるのを目の当たりにした。
近所のクリニックで「乳腺炎」と診断されたが、症状は改善しない。
ついに乳腺外科に駆け込むと、「手術できない炎症性乳がん」と診断されたのだった。
左乳房が赤く腫れ上がった
2004年10月初め、南関東の松川市に3歳年上の夫の武夫さん、小学2年生の長女・渚ちゃん、幼稚園児の長男・勇君と住む主婦・大橋真由美さん(38歳)は、入浴中、左乳首の左横に小指の頭くらいの範囲で赤くなったものに触れる。「なんだろう?」とちょっと気になったが、かゆくも痛くもない。「虫に刺されたのだろう」と思っていた。
2、3日して何となく左乳房がほてるような感じを覚えて、服を脱いで鏡を見ると左乳房の左半分が赤く熱を持って腫れている。少し痛みを伴ってきたようだ。
「いやだわ。ばい菌が入って化膿したのかしら」
そう考えたが、「そのうち自然に治るだろう」と、引き続き様子をみることにした。なにしろ毎日家事と育児だけでも手いっぱい。「そんな“できもの”なんかにかまっていられない」という思いだったのである。
ところが、そのうち左胸だけがずんずん赤く腫れ上がっていった。2週間もかからないうちに左乳房は右乳房の2倍の大きさになってしまっている。このとき初めて夫に相談する気になった。
「ねえ、あなた。これ見てよ」
子どもたちが寝たあと、居間にいる武夫さんに、真由美さんは胸をはだけて見せた。武夫さんは一瞬ギョッとした顔をする。
「なんだよ、それ。ずいぶんと、赤く腫れているなあ。どこかにぶつけたりしたのか?」
「そんなことはないわ。気づいたら、こんなになっていたの。なんか、おっぱい全体が熱をもっているみたいだわ」
「明日、病院に行ったほうがいいだろう」
「そうね。明日、安田先生のところに行ってみる」
「ああ、勇を出産したところだな。早いほうがいいだろう。俺も一緒に行こうか?」
「いいわよ。あなた、来週出張でしょ。ひとりで大丈夫よ」
産婦人科で「乳腺炎」の診断
10月13日の朝、真由美さんは2人の子どもを送り出したあと、最寄の私鉄線駅前にある安田産婦人科クリニックに駆けつけた。「乳腺科のある病院がいいかな」という気もしたが、電車に乗って出かけなければならず、大きな病院は混んでいて子どもたちが帰ってくるまでに、家に戻れないかもしれない。何よりも、安田院長はなじみがあるという安心感もあったのだ。受付で、診察券を渡すと、なじみの助産師が、部屋の奥から、ニコニコ笑いながら、出てきた。
「大橋さん、ずいぶん久しぶりね。どうかしたの」
「ええ、左のお乳が腫れちゃって、先生に診てもらおうと思って……」
「ああ、そうなの。乳腺炎(*1)でも起こしたのかしらね。じゃあ、すぐに先生に診てもらいましょうね。診察室のドアからはいってちょうだい」
診察室にはいると、久しぶりに会った安田院長は優しい表情に変わりはなかったが、すっかり白髪が増えて老け込んでいるように見えた。真由美さんは、「確か70歳を過ぎていたはずね」などと考えている。
「どうされましたか?」
安田院長は、めがねをかけながら、穏やかに言いながら、大橋さんのほうに向き直った。
「ええ、ちょっとお乳が腫れていて気になっているものですから」
「じゃあ、診察しますから、そちらで支度してください」
こう言って安田院長は、背後のカーテンの中で下着を取るよう指示した。
「うーん、炎症(*2)の所見が強いですね」
そう言いながら、安田院長はそっと乳房を触診した。腫れ上がった乳房は、風が吹いただけでも痛く感じる。
「単なる炎症ではないですね、これは。脇の下のリンパ腺もグリグリと腫れていますね。いつごろから、こうなりましたか」
「2週間ぐらい前だったと思います。最初は、ちょっと赤くなっていただけだったんですが、急にお乳全体が腫れて、熱を持つようになったんです」
「わかりました。服を着てください」
安田院長は、そういうと、カルテに所見を書きながら言った。
「とりあえず、抗生物質を出しておきますから、来週の月曜日に、もう1度来てください」
家に帰った真由美さんに、心配そうに武夫さんが尋ねる。
「どうだった? 安田先生、何だって?」
「うん、炎症だっておっしゃるのよね。ただ、単なる炎症ではない、とも言ってた。それで、お薬、抗生物質って言ってたけど、それが出たわ。来週月曜日に、また、来るようにって」
「あ、そうか。来週の月曜日、俺、出張だけど、大丈夫だよな」
「うん、炎症だって言うからね」
炎症性疾患 | |
---|---|
急性乳腺炎 | 授乳開始の2~3週間後によく見られる。授乳の際に傷ができ、そこへ細菌が感染したり、乳管が閉塞したりして生じる。乳房が赤く腫れ、痛みが出る。授乳期以外でも起こる |
乳輪下膿瘍 | 乳腺組織の壊死が起こり、それが乳管に溜まって炎症が起こったり、膿瘍が溜まったりする |
慢性乳腺炎 | 授乳異常の病歴のある30代後半の女性に多い。乳汁がうっ滞して起こる炎症が特徴 |
乳管拡張症 | 日本人には少ない。閉経期前後の女性で乳管が拡張し、そこに乳管中の分泌物が溜まる |
炎症性乳がん | 乳房が赤く腫れ、外見は乳腺炎に酷似。乳房の皮膚のすぐ下にあるリンパ管にがんが浸潤すると、皮下のリンパの流れが妨げられ、乳房の皮膚にむくみが起こる。このため、乳房の毛穴のへこみが目立ち、皮膚がオレンジの皮のようになる |
乳がん専門クリニックへ行ってください
翌週の月曜日、真由美さんは再び安田産婦人科を訪れた。抗生物質を内服したが、乳房の腫れはいっこうに改善しない。それどころかその色は真っ赤だったのが、オレンジの皮のようにでこぼこした感じになって、いっそう恐ろしげな様相を見せている。
「先生、全然よくなりません。抗生物質が効かなかったのでしょうか?」
診察室に入るなり、真由美さんは聞いた。安田院長の表情が、急にキリッとしたように見えた。
「ああ。炎症所見が拡がっていますね。すぐに外科で診てもらうほうがよいでしょう。I町の神川先生のところへ行ってください。電話をしておきますから」
真由美さんは乳腺クリニック神川外科へタクシーを走らせる。神川院長は、地元の医療センターで乳腺外科医として勤務していたと聞くが、3年前にクリニックを開設している。受付で安田院長から電話をしてもらっているはずであることを話した。すぐに診察室へ呼ばれる。
「安田先生から、ご連絡いただいています。すぐに拝見しましょう」と、真由美さんに胸を開くように促す。
「う~ん、これは、炎症性乳がん(*3)というがんの可能性が高いと思いますね」
患部を見た神川院長が、いきなり驚くような病名を口にした。真由美さんは言葉に詰まる。何をどう考えていいのかわからなかった。
「では、手術ということになりますか?」
やっとの思いで口にすると、神川院長は少しためらうように答えた。
「いえ、炎症性乳がんは手術できるがんではありません」
またしてもショックな告知である。真由美さんの頭の中に2人の子どもの顔が浮かぶ。
「手遅れということですか? 希望はないのでしょうか?」
真由美さんはみるみる悲壮な表情を浮かべる。神川院長が答えた。
専門医の中でも炎症性乳がんの定義が非常にあいまい
であることが示されている
[炎症性乳がんの確定診断は何でするか]
診断の定義にばらつきがあることがわかる
[炎症性乳がんの治療にはまず何を行うか]
「手遅れ、という意味ではなくて、炎症性乳がんだとすればね、まだ、100パーセント診断がついたわけではないけれど、このような形の乳がんは、一気にお乳の皮膚に広がるので、なかなか手術では取りきれないんですよ。でも、抗がん剤でたたいて、勢いが落ちたところで、手術するとか、放射線を当てるとかいう方法もあります(*4炎症性乳がんの治療)。とにかく、乳がんかどうか、確定しなくてはいけません」
真由美さんは、あっけにとられたように、神川院長の話を聞いていたが、抗がん剤、という単語だけ、かろうじて聞き取ることができた。
乳がんかどうか、確実に診断をつけるため、生検をする、と神川院長が説明してくれた。生検は直径5ミリの皮膚を、円筒形に打ち抜くような「パンチバイオプシー」という方法が取られた。
「はいっ、終わりましたよ。結果が全部でるのに1週間かかるので、来週の月曜日、午前中に、また来てください。それまで、今よりもう少し、赤みは強まるかもしれませんが、その先の治療は、大体、段取りはついていますから、焦らずに待っていてください」
がんの可能性が高い、と言われたときには、全身から汗が噴き出し、どうしようもない不安感に襲われた真由美さんだったが、神川院長の誠実そうな人柄に触れ、手際よい生検を受けているうちに、なぜか、気持ちが楽になっていた。
「自分はそんな悪い病気にかかるはずがない」と信じる気持ちのほうが強かったようである。クリニックを後に自宅へ向かう帰路、すでにとっぷりと日が暮れていた。
ところが、その3日後、夕飯の支度をしていると、電話が鳴った。真由美さんが受話器を取ると、神川院長からの電話だった。
「病理検査の結果が、今届きました(*5炎症性乳がんの鑑別診断)。やはり、炎症性乳がんで間違いないので、抗がん剤治療ということになります。松川オンコロジーセンターの玉岡先生を紹介しますから、できれば、明日、あちらへお越しいただけませんか」
「わかりました。明日、伺います」
そういって、電話を切るが、たった今がんと知らされたばかりで、まだその実感がない。そこへちょうど夫の武夫さんが帰宅した。真由美さんは何か夢でも見ているかのように、夫に伝えた。
「神川先生から電話があって、やっぱりがんだって……。明日、オンコロジーセンターの玉岡先生のところに行くことになったの。抗がん剤治療をやってくれるんだって」
夫も妻の話を聞いて何かキツネにつままれたように感じており、そのように反応する。
「玉岡先生って……。ああ、去年できたがん専門クリニックだろ。先輩の奥さんが、乳がんで診てもらって、すごくいい先生だって言ってたよ。腫瘍内科医といって、日本ではまだ少ない抗がん剤治療のエキスパートらしいよ」
がんを告知されたショックや動揺、緊張を、2人ともごまかそうとしているかのようだった。
「インターネットで調べてみよう」ということになり、「松川オンコロジークリニック」を検索する。ホームページが見つかり、そこには抗がん剤治療のことや、乳がんのことなど、かなり詳しく説明してあり、炎症性乳がんについても触れていた。そんなことにでも夢中になっていなければ、2人はもう居ても立ってもいられなかったのである。
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