祢津加奈子の新・先端医療の現場14
がん薬物療法の新時代到来を告げるエピジェネティック治療
「エピジェネティック医薬品で患者さんのQOL維持に期待がかかります」と話す澤登雅一さん
がんは遺伝子の病気。分子標的治療薬は、がん治療に新しい時代を開いたが、今、熱い注目を集めているのが「エピジェネティック治療薬」と呼ばれる薬だ。エピジェネティックとは何か。なぜ注目を集めているのだろうか。
遺伝子発現のオン/オフを調整
今、分子標的治療薬に次ぐ新たながん治療薬として熱い注目を集めているのが、「エピジェネティック治療薬」だ。
がんは、遺伝子の病気。がんの遺伝子変異もしだいに明らかになり、これをターゲットに分子標的治療薬が開発されてきた。そのおかげで、治療成績が著しく向上したがんもある。
ところが、東海大学医学部血液・腫瘍内科教授の安藤潔さんによるとその一方で「がん抑制遺伝子では、遺伝子自身に変異はなくても、その発現がオフになることががん化に関わっている」という。がんの原因は、遺伝子変異ばかりではなかったのである。
その原因として注目を集めているのが、「エピジェネティック」である。エピジェネティックとは、遺伝子発現(*)のオン/オフを調節する機構だ。遺伝子は、活性化して発現することによって初めて働く。
たとえば、人間は60兆個といわれる細胞から構成されているが、この細胞は全て1つの受精卵から分化、増殖したものだ。だから、全ての細胞が同じ遺伝子を持っている。にもかかわらず、胃や心臓、脳とそれぞれ個性を持つ細胞になる。
これも、エピジェネティックによって、細胞が分裂増殖するときに、各遺伝子発現のオン/オフが調整され、それぞれの個性と役割を持つ細胞に成長していくからなのである。
「たとえば、性染色体も女性はXXでX染色体を2本持っています。両方発現して2倍働くと困るので、一方をエピジェネティックに抑えているのです」と安藤さんは説明する。このエピジェネティックによる遺伝子発現の調節の崩れが、がんにも深く関わることがわかってきた。
*遺伝子発現=遺伝子の情報が細胞の構造や機能に変換される過程のこと
糸巻の固さが標的
薬剤名 | 特徴 | 適応症 | 発売状況 |
アザシチジン (商品名ビダーザ) | DNAメチル化酵素 阻害剤 | 骨髄異形成症候群 | 2011年3月 |
ボリノスタット (商品名ゾリンザ) | ヒストン脱アセチル 化酵素阻害剤 | 皮膚T細胞リンパ腫 | 2011年9月 |
「今は、がんの発生には遺伝子異常とエピジェネティックの異常、2つが関わっていると考えられています」と安藤さんは言う。さまざまながんで、エピジェネティックの異常が起きていることがわかったのである。
実際には、エピジェネティック調節は化学変化によって起こる。遺伝子情報が書かれたDNAは糸のように長く、ヒストンという糸巻のようなものにグルグルと巻かれて収納されている。このDNAの巻き方がきついと遺伝子発現のスイッチがオンになりにくく、ゆるく巻いているとスイッチがオンになりやすいのだそうだ。
エピジェネティックではこのDNAの巻き方を調整して、遺伝子発現のオン/オフを行っている。その方法として知られているは3つ。
①DNAのメチル化
DNAのある部分にメチル基がくっつくと(メチル化)、遺伝子の発現が強く抑えられて、働かなくなる。ここで、このメチル化に働くのが、DNAメチル化酵素だ。
②ヒストンのアセチル化
糸巻きであるヒストンがアセチル化されるとDNAの巻き方がゆるくなり、遺伝子が働きやすくなる。逆に、アセチル化がとれて脱アセチル化されると、巻き方がきつくなって遺伝子の発現がオンになりにくくなる。
③マイクロRNA(miRNA)
遺伝子発現のオン/オフに働く特殊なRNAがあることも最近わかってきた。
今、エピジェネティック治療で標的にしているのは、この3つの機構だ。
「たとえば、DNAメチル化酵素の働きを抑えれば遺伝子が発現できるようになり、がん抑制遺伝子などが働きだします。あるいはヒストンの脱アセチル化酵素の働きを抑えれば、アセチル化されたままになることによって、同じように遺伝子が発現できるようになるのです」と安藤さんは語っている。
比較試験で大きな差
欧米では、すでに4種類ほどのエピジェネティック治療薬が認可されているが、日本では2011年3月にDNAメチル化酵素阻害剤のビダーザ(*)が骨髄異形成症候群に、7月にはヒストン脱アセチル化酵素(HDAC)阻害薬としてゾリンザ(*)が皮膚T細胞リンパ腫の治療薬として認可された。
安藤さんによると、ビダーザは50年ほど前に白血病の治療薬として作られた薬だという。
「構造の似ているシタラビン(*)と同時期に合成されていたのですが、抗がん剤としてはシタラビンのほうがずっと効果が高かったのです」
しかし、ビダーザは細胞分化に働くことがわかり、基礎研究に使われていたという。90年代になるとがんへの効果が判明。さまざまな研究が行われた末に、2009年に画期的なデータが発表された。骨髄異形成症候群の患者を対象とした臨床試験で、従来の治療に比べ、生存の中央値が15.2カ月から24.45カ月と9カ月以上延長。2年生存率は、26.2%対50.8%とほぼ倍増したのである。「いままで有効な治療薬のなかった骨髄異形成症候群に対して、これは画期的な成績です」と安藤さん。
標準化学療法、全身状態の低下した人には少量シタラビン、さらに支持療法(輸血)と、担当医の判断に基づいて患者さんをグループ分けして、そのいずれのグループにおいてもビダーザのほうが優れた効果をあげた。こうして、骨髄異形成症候群の治療薬として認可された。
*ビダーザ=一般名アザシチジン
*ゾリンザ=一般名ボリノスタット
*シタラビン(一般名)=商品名キロサイド、サイトサール