患者よ!がんサバイバーになろう
サバイバー・アンケートから 私はサバイバーをこう考える
質問
1. あなたにとってサバイバーの意味、イメージはどのようなものですか。
2. がん告知やインフォームド・コンセントが進んでも、会社や地域でなかなか「がん患者」と言い出せない状況があります。みなさんは、友人・知人など周りの人に自分の状況を話していますか。それについて相手の方はどのように接してくれていますか。
3. 今後、どのような活動をしていきたいと思っていますか。
自然体で生きていきたい
高出昌洋さん(版画家、「いずみの会」事務局長)
高出昌洋さん
たかで まさひろ
1941年生まれ。80年胃がんにより胃の4分の3を切除。がん体験をきっかけに版画家の道に進む。
創作版画協会会員。兵庫県民芸協会会員。がん患者の自助グループ「いずみの会」事務局長
1. 不勉強で申し訳ないのですが、貴誌の取材を受けるまで「サバイバー」という言葉を意識して使ったこともなければ、人からそのように言われたこともありませんでした。
一昨年1月、ある講演会の話を頼まれたときに、主催者の女性が「がんという病気になっても、あきらめずに生きている人がたくさんいること」を広く知らせるのが自分の使命だと信じているとおっしゃいました。この女性は4年前に乳がんを手術、医者は「余命は長くて2年でしょう」と告げたと言います。それで年1回、がんが見つかった1月に講演会を開くことを死ぬまで続けるのが自分の生きる意味だと言います。そして、私が1980年に手術したことを知って「わあっ、すごい。そんなに長く生きている人がいるんだ」と驚いていました。
そう言われてみると、「リンパに飛んでいるので、再発もある」状況(これは後で知ったことですが)の中で、幸運にも1日1日を生かされて、20数年になることに感慨を覚えます。
2. 会社や地域で「がん患者」と言い出せない状況があることは、私の周りでもよく耳にしますが、私の場合は誰にでも話しますし、多くの人がいたわりの言葉をかけてくれたり、仕事の面でも無理をさせない心遣いをしてくれています。ありがたいことだと思っています。
3. 手術をしたときに、捨てられるものは出来るだけ捨てて、シンプルに生きたいと考えました。しかし、手術前には考えもしなかった興味が次々と湧いてきて、捨てることの難しさを感じています。
1982年に立ち上げたがん患者の自助組織「いずみの会」では、例会などを通して新しい出会いが生まれています。「いずみの会」で出来ることの可能性を求めて、この会の活動は続けていこうと思います。
また、手術後から始めた木版画は自分の制作だけではなく、海外の作家との共同制作や普及の仕事へと発展して、私の生活の重要な部分を占めています。版画を通して得た人との出会いや興味も生活を豊かにしてくれていると実感しています。
シンプルな生き方ではないなと自省しながら、受け止められるものは、出来るだけ自然体で受け止めて生きたいと思っています。
がん体験はすでに私の日常
中島陽子さん(「医をめぐる勉強会」代表)
中島陽子さん
なかじま ようこ
1955年生まれ。96年乳がんのため左乳房切除手術を受ける。退院後「医をめぐる勉強会」を立ち上げ、患者と医療者がお互いを知ることで温かな医療になることを目指す
1. その人にとっての「危機」と思われる体験から目をそらさずにそれでもなお、それだからこそなお、より良く生きようと願う人々。
2. がん体験を隠してはいません。それまでに近しい人達は「がんになったから」ということで変化はしていないと思います。ただ、私の側の変化にとまどうことはあるかもしれません。すでにがん体験者であることは私の日常になってしまったので、それだけを切り離して考えることはできなくなっています。
3. 今していること「医をめぐる勉強会」「pd-rml」(患者と医療者の話し合いの場となるメーリングリスト)「ひだまりサロン(乳がん患者さんへの相談ボランティア)」「体験から学んだことをお話する」をできる範囲で無理なく続けていければと思っています。その先に出てくるものを楽しみにしています。乳がんという出発点に立って歩き始め、その向こう、向こうへと歩いてきたように感じます。その区切りとして今、この8年の体験を踏まえた本を書き始めています。書くことは私の昔からの夢でしたから、その1冊を、こころを込めて素直に書いていこうと思っています。できることなら、「書く」ことを通じて想いを伝えられるようになれば望外の幸せというところでしょうか。
伝えたいことは「人は変われる、自分のなりたい自分になってゆくことができる、自分が望むならば」ということです。
中島陽子さんのホームページ
「がんと生きる」中島陽子さんの記事へ
限りある命の時間を慈しむ
種川とみ子さん(画家)
種川とみ子さん
たねかわ とみこ
1944年生まれ。学生時代は油絵を専攻。30歳のときに子宮頸がん、37歳のときに胃がんを発症。その後再び絵筆を取り、現在どこの団体にも所属せずに画家としての活動を続けている
1. 己の命を勝ち取ること。がんからの生還者。
2. 私の場合、自分の病気の状態を把握し、家族の協力の元、知人、友人にも話し、前向きになにごとにもプラス志向で、今日までやってきました。人と人との繋がりや、今日ある生に感謝し、明るく生きていけることによって、周りの人たちもがんは決してそんなに恐い病でなく、早期に適切な対処をすれば心配ないと思っております。
3. がんはなんといっても、早期発見、早期治療に尽きると思います。2度にわたるがんを克服し、ますます限りある命の時間を慈しみ、共に生きられることに感謝し、「愛」ある人生をまっとうしたいと願っています。自分ごとに尽きますが、今後の活動は絵を通し発表し続け、描き続ける以外、私は術を知りません。生かされた時間の中から生まれた絵を、いつか1冊の画集に納めることが夢です。 今は、10回目の個展に向け絵と格闘中です。
患者をサポートする活動を続けていく
竹中文良さん(ジャパン・ウェルネス理事長、医師)
竹中文良さん
たけなか ふみよし
1931年生まれ。医学博士。日本赤十字社医療センター外科部長、日本赤十字看護大学教授を経て、同大客員教授。86年大腸がんになり、手術を受ける。01年、がん患者のメンタル・サポートを目的にジャパン・ウェルネスを設立
1. サバイバーはがんの再発、転移の可能性があるにもかかわらず、活動している人というイメージです。がん患者さんの中には、健康な人に相談してもなかなか理解してもらえないため、孤独感を抱えている人が数多くいます。そういう人こそ心のケアが必要なのです。がんと「心」は深く関連していることをもっと認識してほしいですね。
2. 勤務していた病院で大腸がんの手術をしましたから、私ががん患者であることは自然に病院の中に広まっていました。そのときの体験に基づいて『医者が癌にかかったとき』という本を出版し、幸い多くの方に読んでいただいたので、私が自分からがんだと人に話すことはなかったし、悩むこともありませんでした。
3. ジャパン・ウェルネスを長く存続させることです。アメリカのウェルネス・コミニュティーは運営資金を全額寄付でまかなっています。アメリカでは、社会貢献をした人は非常に高く評価されるという背景があります。またお金を出すだけでなく、がん患者さんたちとの交流の場にも積極的に参加しています。ところが日本には寄付の文化が育っていません。がんの患者会も数が増えてきましたが、会費制のところがほとんどで、意義のある活動にもかかわらず、運営資金は厳しいのが現実です。
ジャパン・ウェルネスの活動にも多くの方が寄付を寄せてくださいました。とてもありがたいことです。でもそのほとんどは、私のかつての患者さんです。がん患者さんには、精神的なサポートが必要だということを多くの人に知ってもらい、日本でも患者をサポートする活動を根付かせていきたいと思います。
患者も家族も納得できる医療をめざして
中島みちさん(ノンフィクション作家)
中島みちさん
なかじま みち
1931年生まれ。TBS勤務を経てノンフィクション作家に。70年、乳がんになり、右乳房を切除。『奇跡のごとくー患者よ、がんと闘おう』『がんと闘う・がんから学ぶ・がんと生きる』など多数
1. 『がんサポート』4月号が、私を「サバイバー」と呼んでくださったとき、実は「え、私が?」と驚きました。がん体験者には分かっていただけると思いますが、「私は生き残った!」などとホッとしようものなら、スルリと死が入り込んできそうで、サバイバー感覚を持たぬままに、いつのまにか、乳がんから34年経っていたのでした。それに、私より遥かに重篤ながんを奇跡的に克服した方々に、取材で次々とお目にかかり、そうした方々こそが「サバイバー」に値すると実感したからです。でも、貴誌の定義を知って、勇気を与えられました。頑張ります!
先日、貴誌を通して、ご主人を胃がんで亡くされた田上美恵子さんからお手紙を頂戴しました。主治医からご主人への余命の告知の仕方が、あまりにも納得しがたいものであったために「深い心の闇に閉じ込められて」おられたのですが、そこから健気にも立ち上がられ、亡くなっていく方の「死の質を支える」(中島は、それは結局、生の最期の瞬間まで生の質を支えることでもあると考えていますが)ために、何かご自分にできることはないかと求めておられます。この方のように、愛する人とともに、この病にまつわる修羅を体験し、克服した方もまた「サバイバー」ではないかと、感銘を受けました。
2. 病気の態様や進行度、患者の立場や職業によって、ケース・バイ・ケースの難しい問題です。30代であった私は、乳がんの発見、手術でハイテンションになり、例えば「片パイ飛行で頑張りまぁす!」などと自分から先回りして吹聴することで、術後短期間で周りとの関係を楽なものにすることができましたが……。いずれにせよ、外には、自分の病状に対する客観的な認識をベースに接し、「しかし私は乗り越える」という信念を内に秘め、どっちみち接する相手自身にしても「誰も自分の明日を知らない」わけで、「明日は明日の風が吹く」という心の余裕を持っていると、自分も周りも楽になれる場合が多いように思えます。カミング・アウトには、「せっかく『がん』になったんだから、この際、人間関係の複雑で苦労なところもじっくり勉強して、熟成のチャンスにしよう!」くらいの、タフな神経でのぞむのも良いかも。
3. 誤診による手遅れがんで逝った夫や姉。結局のところ「病理組織検査なしには、がんの確定診断はつかない」わけで、この問題をはじめ、全国バラツキなく、患者が的確な診断に基づく情報を充分に与えられた上で治療法を選べるシステムを確立したいのです。たとえ死なねばならぬとしても、診断、治療、看取りまで、出来る限りの手は尽くされたと、患者も家族も納得できる医療を目指し、引き続き、執筆を主に、運動にも頑張ります。
乳がん手術時の腋窩リンパ節切除、放射線大量照射の後遺症(鎖骨、胸骨の壊死ほか)で長年苦しんできましたが、本日、医学の進歩にあっと驚く大修繕から元気に退院。サバイブしてこそです!