私はがんとともに生きる道を選んだ
発病から23年、病気は自分の影のようなもの・高出昌洋さん
高出昌洋さん
(版画家、「いずみの会」事務局長、62歳)
たかいで まさひろ
1941年生まれ。版画家。
1980年、胃がんにより胃の4分の3を切除。
1980年から木版画の制作を始める。
1999年、第1回飛騨高山現代木版画ビエンナーレ入選。
兵庫県立美術館美術講座木版画コース講師。創作版画協会会員。兵庫県民芸協会会員。
「いずみの会」事務局長。
入院、そして手術。多忙な教師生活が一転
彫刻刀を握る手にグッと力が入る。刃先を滑らせるように板をゆっくり彫っていく。額にうっすらと汗がにじんでくる。静謐な時間がゆったりと流れていく――。
版画家の高出昌洋さんは、週の前半を3年前につくったアトリエで過ごすことが多い。毎週土曜日には兵庫県立美術館で開かれる木版画講座の講師を務める。その他に月1回、自ら主宰する版画教室でも教えている。今は版画が生活の中心だ。
「版画と出会ったことで私の人生は大きく変わりました」
と、高出さんはいう。
その版画との出会いのきっかけをつくったのが、がん体験である。
1980年夏、高出さんは激しい腹痛に襲われた。その1年半ほど前には十二指腸潰瘍で約2カ月、入院したことがある。そのときは投薬での治療で快復し、手術はせずにすんだ。だがこのときは我慢しきれないほどの痛みになり、診察を受けた医師から「今、切らなくても10年後には切らないといけなくなる」といわれたこともあり、手術することに同意した。このとき主治医から告げられた病名は、胃潰瘍だった。
手術を受ける2年前(1978年)。
神港学園にて
今年の3月に退職するまで、高出さんは神戸市にある神港学園高校の社会科教諭を務めていた。担当科目の社会科を教えるだけでなく担任のクラスを持ち、バスケット部の顧問もしていたため、その頃の高出さんは毎日多忙を極めていたという。同校のバスケット部は兵庫県代表としてインターハイにも出場したことのある強豪で、平日はもとより日祭日や夏休み、冬休みなどにも練習や試合のスケジュールがびっしり詰まっていたからだ。しかも高出さんはアルコールが好きで、この頃は深夜まで飲むこともよくあったという。社会科教諭としての仕事とクラス担任としての仕事に加え、バスケット部顧問としての仕事までこなしていたのだから肉体的にも精神的にも疲労が蓄積し、ストレスも相当たまっていたであろうことは容易に想像がつく。
1学期の終業式の翌日、高出さんは神戸市内の河野胃腸科外科医院に入院。1週間後に手術を受けた。
「胃を4分の3、切除しました。河野先生には胃潰瘍と聞いていましたし、のんびりした性格なので、がんかもしれないとはあまり考えませんでした。がんでも潰瘍でもいい、とにかく悪いところを取り除けばよくなるだろうと考えていましたね」
版画との出会いに導いた闘病体験
イギリスの作家、アネット・ムレーとの
コラボレーションで制作中
手術後の経過は順調で、約45日間の入院で無事退院となった。だが退院後、高出さんは食が進まず急激にやせていった。1カ月もしないうちに体重は20キロも減り、座っているだけでも尻が痛くなってしまうほどだった。このときはさすがに高出さんも、鏡で自分の顔を見るのが怖いほどだったという。しかし、だからといって特に不安だったわけでもなかったらしい。
「胃を切ったのだから食べられないのもやせるのも仕方ないと思っていました。たまに、もしかしたらがんと違うかなと思ったこともありましたが、妻を問いつめるようなことはしませんでした。ただ、大変な状態だということは感じていましたね」
体重は病院で点滴を受けることで10キロほど戻ったが、体力はなかなか回復せず、結局学校を半年間も休むことになった。高出さんの激やせぶりを知った親しい人の間では、「あいつ死ぬんじゃないか」という噂も流れていたほどだ。版画と出会ったのは、ちょうどその頃のことである。
「自宅で療養しているとき、たまたまテレビを見たら版画に関する番組を放送していて、面白そうだな、時間があったらやってみようと思ったんです。何をどうしたらいいのかも分からない状態で、まったく一から始めたわけですが、もともと絵を描くのは嫌いではありませんでしたし、年賀状などで版画をしたこともありましたから、比較的スムーズに入っていけました。時間はたっぷりあったのでその頃は版画三昧の生活でしたよ。不安を紛らわすとかそういうことではなく、やっていると楽しいので集中しましたね」 以来20年以上にわたって高出さんは版画制作を続けている。
もう一つ、その頃に始めて今もなお続けていることがある。がん患者を中心にした「いずみの会」の活動である。
23年間続けている患者組織の世話役
高出さんの木版画の作品 上『詩仙堂』 下『晩来』
高出さんの主治医は、河野胃腸科外科医院の河野博臣院長。今年の8月に亡くなられたが、日本の終末期医療や在宅ホスピスケアの先駆者として知られた人だ。その河野医師は、胃腸友の会という患者組織をつくっていた。河野胃腸科外科医院で手術を受けた患者のアフターケアのために、座禅や腹式呼吸の方法、イメージ療法などを教えるのが主な活動だった。高出さんも退院後、この会の会員になっていた。
「がんであってもなくても、切ってすぐに治るような病気ではなさそうだという意識はありましたから、自分も当然、胃腸友の会には入るものだと思っていました。後で考えると、この会に入り、河野先生の話を聞いたり指導を受けたことで病気のことを軽視せず、無茶をせずにすんだのがよかったのかもしれません」
胃腸友の会は河野医師が司会進行役を務めていた。しかし河野医師は患者自身が運営し、患者同士で励まし合い支えあう組織の必要性をかねてから唱えていた。そしてあるとき高出さんは河野医師から、胃腸友の会をベースにがん患者の組織を新しくつくるので、世話役をしてほしいと頼まれた。
「がんかもしれないということは薄々感じていましたが、先生からは胃潰瘍といわれていましたので、がん患者でもない自分が何で世話役をせないかんのやと心の中では思っていました。だから、忙しくなるのはかないませんと逃げていたのですが、最後はとうとう逃げ切れませんでした」
こうして1982年4月に発足したのが、がん患者の自助組織「いずみの会」である。高出さんは会の立ち上げに携わっただけでなく、事務局長も引き受けることになった。対外的には河野医師が代表になっていたが、会長は置かず、実質的な責任者は高出さんであった。発足から21年が経過したが、現在もなお高出さんは事務局長を務めている。
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