神宮寺 「いのちの現場」に身を置く住職が目指す、温泉場でのホスピス運営
世界で見てきたホスピタリティを生まれ故郷にフィードバック
山門が365日閉じられることがない
古刹・神宮寺
自分らしさを保ったまま生きていくことは、大病に罹患した人にとって重要なテーマである。
そんななか世間の耳目を集めているのが、生老病死を支える「コミュニティケア」だ。
長野県松本市にある神宮寺の高橋卓志住職は、生まれ故郷の温泉街にホスピスを作ろうと、奮闘する日々を送っている。
「もてなし」の場を再利用したケアタウン
JR松本駅から車で約15分、長野県松本市の浅間温泉は1300年もの歴史を誇り、松本城の奥座敷として古くから栄えてきた湯の町である。
この北アルプスの山々が美しい土地で市民主導の「コミュニティケア」を実践しようとしている人がいる。温泉街にある神宮寺の住職・高橋卓志さんがその人で、観光客の減少で活気を失った故郷を傍観していられなかったのだ。
「ぼくが小さかったころは、団体客の歓迎で毎日のように花火が打ち上げられ、番頭さんたちがのぼりを持って並ぶにぎやかな温泉地だったんです。でも、これからの時代は観光客の大幅アップは期待できません。観光からケアの町への大転換は、街づくりの戦略でもあるんです」
高橋さんの構想が実際に動きはじめるきっかけになったのが2001年、老舗旅館「御殿の湯」の主から「旅館をやめようと思うんです。何かに利用できませんか」と打ち明けられたときだった。
その後、高橋さんは、有志とともに何度もプロジェクト会議を開催。2年後にNPO法人(特定非営利活動法人)「ケアタウン浅間温泉」を立ち上げ、「御殿の湯」をお年寄りたちのデイサービス拠点に変身させた。
「旅館で使っていた食器類や、素晴らしい源泉を活かさない手はありません。4000万円を借り入れてお風呂などの改装を行いましたが、銀行がNPO法人にこれだけの金額を貸したのは、全国でもはじめてだと思います」
施設の利用者はデイサービスというより温泉に行く感覚で、16人の定員はすぐにいっぱいになった。2005年には隣接する「東御殿の湯」も借り、訪問介護ステーションなどの拠点にした。次なる目標は、在宅をベースとしたホスピスだ。
「在宅型ホスピスと、もう1つはデイホスピスを作りたいんです。ホスピスというとターミナルの患者さんだけが入る印象があると思いますが、痛みの緩和ができれば普段どおりの生活ができます。温泉に浸かって、絵を描くアートセラピーでも楽しめるものにしたい……」
旅館やホテルは「もてなし」の場。廃業した宿を有効利用しない手はないし、元気な旅館やホテルも「出張介護サービス」を行うなど、新たな温泉街づくりを提案している。
「ゆくゆくは仲居さんや芸者さんにもヘルパーの資格をとってもらい、建物をバリアフリーにするだけじゃない真のケアタウンにするのが夢なんです」
世界中を飛びまわる“とび職”
かつて、寺の『住職』を『十職』と書いた時期があったという。
「つまり坊さんの仕事はいまのように葬儀や法要などのセレモニーだけではなかったんです」
あの聖徳太子が建立した「四天王寺」といえば、悲田院、施薬院、療病院、敬田院の4院。悲田院はいまの福祉施設(救護施設)、施薬院と療病院は医療施設、そこに仏教の教学を学ぶ場である敬田院を加えたものが「寺」だといわれる。
「身寄りのない人やお年寄りなどのお世話や、寺子屋のような教育、悩み事相談や能や歌舞伎といった芸能の紹介、さらには土木工学の設計者や施工者としての技量もあったというのが『十職』の由来と聞いています」
この『十職』を実践するのが高橋さん。そのため寺を留守にすることも多く、先輩住職から「住職でなく“とび職”だ」と名づけられた。
というのも、高橋さんは1991年からの6年間でチェルノブイリへ計36往復した。単純計算で2カ月に1度行ったことになる。松本から約34時間かけての最初の訪問は、同い年で旧友の鎌田實さんと一緒だった。往復書簡スタイルで2人が著した『生き方のコツ死に方の選択』(集英社文庫)には、鎌田さんの言葉がこう記されている。
《ベラルーシ共和国のゴメリ州にある、ゴメリ州立病院の白血病棟にぼくら二人は茫然と佇んでいます。例の和尚の大きなギョロッとした瞳から大粒の涙がポロポロと落ちていたのをぼくは忘れません》
世界中を恐怖に陥れたチェルノブイリ原発事故が起こったのは1986年。旧ソ連の情報開示の遅れで被曝者は200万人とも300万人に及ぶともいわれる。高橋さんらはチェルノブイリから170キロ風下にあたる汚染地帯のベラルーシ共和国を訪れ、白血病や甲状腺がんに苦しむ子供たちの惨状を見て涙した。そして帰国後には、日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)を立ち上げ、地元の信州大学医学部の医師らと連携し、医療支援などを行ってきた。
海外支援は1国にとどまらない。1997年にタイを訪れたあとは「アクセス21」を設立し、エイズ患者の救援や、地域自立の活動も続けている。 「タイのホーリン寺というお寺の住職がHIVやエイズに苦しむ人たちのため、寺の一部に作業所を設置し、縫製や造花などの職業支援を行っていたんです。偏見が多い病気なのでタイ仏教のお坊さんも積極的なかかわりを持つ人は少ないのですが、寺を開放していた住職の姿勢に打たれました」
高橋さんらは、寺の普段着「作務衣」を約40名の患者と地域の支援者を雇用する形で作ってもらい、それを日本国内で販売している。