妻と共にがんと闘った追憶の日々
君を夏の日にたとえようか 第26回
架矢 恭一郎さん(歯科医師)
顕と昂へ
君を夏の日にたとえようか。
いや、君の方がずっと美しく、おだやかだ。
――ウィリアム・シェイクスピア
第七章 エピローグ
17.葬儀
そのとき、私が恭子にすがりついて声をあげて泣いていれば、その場の雰囲気はもっと違ったものになっていただろうが、私は泣かなかった。意図的にそうしたわけではないが……。
「浅間先生に最期を看取っていただいて家内も喜んでいると思います。有難うございました」とお礼を申し上げた。先生は黙って軽く会釈をされた。それから、おもむろに恭子の顔や手を撫でながら「よく頑張ったね」と、声を掛けてやった。穏やかな綺麗な顔をしていた。両親は、「恭子!」と言って絶句した。
「これ! まだ温かい」と、母親が恭子の手に触れながらいう。
「恭子、よう頑張ったのう」と、父親が悲しげにいった。
母親のことを長男に知らせるように次男に頼んだ。
「覚悟はできていたので、悔いはない、翌日、一番の新幹線で戻る」とのことだった。まず家に寄って、もう1台車があったほうが何かと都合がいいだろうから、車に乗って病院に来ると、冷静に長男らしい配慮のことばを述べた。
そうか、喪主になったのか
例の看護師さんが、それはそれは丁寧に恭子の体を拭き清めて、死化粧をしてくださった、相当に長い時間を掛けて。「口があかないようにしていただけますか」とお願いすると、心得ておいでだった。丸めたタオルを下顎の下にあてがってくれたのだ。
「何かお着せになられたい服装がありますか?」と尋ねられたので、「はい。家から取って来ます」と私は答えた。入院の最初の日に看護師さんから説明を受けていたので、合唱団の演奏会で身に着けるブラウスと巻きスカート、コサージュ、それにウィッグと恭子の愛用の靴を準備してあった。
看護師さんが申し訳なさそうに、「5時の退院でお願いしたいのですが……」という。悲しんでいる暇もなく、私たちは慌ただしく退院の準備に取り掛かった。長男に退院の時刻を知らせた、退院までには間に合わないだろうから。
私たちに、別の意味での厳しく消耗する数日間が始まろうとしていた。
母親が、「お婆ちゃんのときに、お通夜と葬儀までに日にちがなくて大慌てで大変だった」という。「じっくり時間があるほうが準備もできる」と。水曜の夜中、もう木曜といってもよい時刻に恭子は他界したので、「土曜日にお通夜、日曜の午前に葬儀でどうだろうか」と葬儀社の担当者に相談したら、「いいと思いますが、奥さんが頑張ってくれるかどうかということはあります」という。どういうことかと詳しく尋ねたら、「この暑さですから、お顔やなんかがが少し変わることがあります。ドライアイスとクーラーで冷やして、あとは奥さんの頑張り次第です。決定は喪主さんがしてください」という。
そうか、私は喪主さんになったのか、と思った。
ひと悶着あったが、恭子の遺志だからと押し通して香典は一切いただかないことにした。「香典返しも大変だからねえ」と、両親は私の考えとは違った受け止め方をした。私は遠路高い交通費を払って駆けつけてくださる方々もあるから、もうそれ以上の出費をしていただかなくてもいいのではないか、という単純な気持ちからしたことだった。
後日、ご会葬いただいた方々にだけでなく、お花をいただいた方、弔電をいただいた方、お手紙をいただいた方、お見舞いに来ていただいた方などに、私は香典返しの手間暇以上を掛けてできる限りの感謝の気持ちをいろいろなかたちで伝えたつもりでいる。恭子のためだから、なんということはない。
「綺麗よ、恭子さん。本当に綺麗……」
お陰で恭子と私は2晩、一緒に苦労して築いてきたわが家の同じ部屋で寝ることができることになった。退院にばたばたして一睡もしていなかった私のところに葬儀社の担当者が来られて、通夜や葬儀の打合せを長々としなくてはならなかった。方々から電話やなんかも入ってくるから、木曜の夕刻には私は幽鬼のようになって、ふらふらでくたびれ果てていた。22℃の寒い部屋で、何キロものドライアイスのブロックを胸の上や体の周りに積まれている恭子のことを思えば、倒れたら倒れたときだと開き直っていた。夕飯に酒が入って、やっと緊張が少し取れた。
私は倒れなかった。クーラーががんがんに効いた部屋で恭子と寝ている私のことを心配して周りの者が騒いでいる。大丈夫だろうか、風邪をひきやしないだろうか、布団をもう少し厚手のものにしなくては心配だ、と。私は恭子の傍を離れるつもりはなかった。私に暖かい毛布を掛けてくれたり、両親にも感謝している。
恭子の他界した翌日の午前中に、何か虫の知らせがあって心配で病院に駆けつけてくれた合唱団の本山さんが、呆然とした顔で我が家を訪ねてくれた。一度はそのままお引き取りいただこうかと思ったけれど、考え直して、「恭子に会っていただけますか」とお願いした。
顔の覆いを取ると本山さんは恭子の顔を撫でたりつくづくながめたりしながら、「綺麗よ、恭子さん。本当に綺麗……」と言いながら、涙を流してくれた。人からのこのようなご厚情が一番胸を突かれる。私もとめどなく涙を流した。流れるままにしたかった。
さっちゃんご夫妻も会いに来てくださった。さっちゃんのご主人のお父様の1周忌と恭子の通夜、葬儀が重なってしまったので、通夜には出られないけれど、葬儀までにはとんぼ返りしてご会葬してもらえることになる。その他の弔問の客は親族が中心だったと思う。記憶が定かではない。
「奥様を愛しておられたのですね……」
葬儀の遺影を決めるとき、私のなかでは2枚の写真に絞られていた。けれど、一応両親と子どもたちにはほかの数枚の候補も見せた。結局、私の意見を尊重してもらった。葬儀社の担当者に2枚を見せた。
「これはダメですよ」といきなりの返答だった。両親もダメだと言っていた恭子と私が2人で写っている写真だった。恭子の笑顔が半端ではなく、溢れんばかりに笑みが咲きこぼれていたから、それにしたかったけれど、どうしても駄目だというので勿論諦めた。初めから断られることはわかっていた。もう1枚の笑顔も素晴らしかった。
あまり普段見たことのない、童女のような可愛らしい笑顔だった。両の腕を大きく広げて、幸福に満ち溢れた笑顔。顔を中心にしてその一部を切り取って使うという。母は帽子を被っていることを気にしていたが、担当の方が、「最近は散歩の途中の様子みたいな気取らない普段のままのご遺影も多くなってきておりますので全く問題ありません」と説明してくれて、母も胸のつかえが取れたろうと思う。
「ご香典に対するお礼が会葬御礼ですから、ご香典をいただかないのであれば会葬御礼は要らないのです」と担当者がいう。こんどは私がどうしても譲らなかった。
「いや、どうしても皆様にお伝えしたい気持ちがあるのです。ご挨拶と清め塩だけを準備してください」「わかりました。文章はお決まりですか?」
「ここにあります」と見せると、文字数を数え、「3行ほど削っていただけますか」というので、その場で私が修正して、印刷にまわしてもらうことになった。通夜や葬儀の喪主の挨拶についても入れないほうがいい内容などを教えてもらい、打合せした。
「ありがとう。よく頑張ったね、これからもずっと一緒だよ」
自分のことで人様に迷惑や面倒を掛けることを極端に嫌う人が、私の最愛の妻恭子でした。どんな人にも配慮を忘れず、誰からも好かれる優しく聡明な女性でした。しかし、子どもたちには厳しい一面をもち、彼らが良識を持ったどこに出しても恥ずかしくない立派な「普通」の青年に育ったのは恭子のお陰です。私がなんとか社会性を保った一端の社会人として生きてこられたのも恭子の力によるものです。
私が本当に恋に落ちると定められていた運命の女性、私の人生に意味を与えるために生まれてきてくれたたった1人の女性が恭子でした。このたびの病は、十二分に警戒していたのですが、不運が重なり、私たちを襲ってきました。しかし、最初から最期まで、恭子は取り乱したり絶望したり泣き叫んだりすることはありませんでした。私たちのために懸命に病魔と闘ってくれた恭子は、私より少し早く、手の届かない場所に旅立ってしまいましたが、居心地のよさそうな石に腰かけて、私がすぐに追いついて行くのを待ってくれているものと思います。
最後になってしまいましたが、生前は恭子に多大なるご厚情を賜り、深く感謝申し上げます。本日は突然の報せにもかかわらず、お忙しいご予定のなかご会葬いただき、本当にありがとうございました。
略儀ながら書状をもちまして厚く御礼を申し上げます。
葬儀社の担当の方が翌日刷り上がった「ごあいさつ」を見せてくれた。「奥様を、愛しておられたのですね……」と担当者が言われた。