妻と共にがんと闘った追憶の日々
君を夏の日にたとえようか 第30回 最終回
架矢 恭一郎さん(歯科医師)
顕と昂へ
君を夏の日にたとえようか。
いや、君の方がずっと美しく、おだやかだ。
――ウィリアム・シェイクスピア
第八章 告白
恭子と私の2年間に及ぶ転移性乳がんとの闘病のあいだに、恭子が何度か言ったことがあります。「パパ、もし私が死んだら、私のことを小説に書いたらいいよ」と。「そんなことがあるもんか」と否定しながら、私は恭子と過ごしてきました。なぜ、小説ということばが飛び出してきたのかは私たち家庭の個人的な脈絡ですから、さて置いて。
私は恭子の勧めに従って、この文章を書き連ねてきました。この文章がこの国の医学の現状を著したドキュメンタリーだとは考えていません。それにしては、私はあまりにも専門的な医学の知識を欠いていますし、一時代の治療のガイドラインなり薬なりは、日進月歩。新しい治療法や薬剤が登場してくる現代の医療において、数年もすれば古い〝昔の治療〟になりかねません。そのようなことを、素人がうんぬんしてもなんの意味もないことだと思います。
これは、恭子と私が治らないがんに向き合った、患者と配偶者という限定された立場の視点から闘病を眺めた、先入観の強い文章であると考えています。
視点と記憶はあくまで患者とその配偶者によっていますので、2人の子どもたちや恭子の両親から見れば、また、私たちを支えてくださった多くの友人、知人の方々から見れば、事実はまた違って見えていて何ら不思議ではありません。子どもたちが言った、両親が言ったという記述すらが、事実とは異なることだってあると思います。
恭子が人間としての生を終え、別の在りように姿を移して逝ったその日から、3年という時がもう経過しようとしています。窓の外、生い茂った庭の木々では早朝から蝉しぐれがやかましい。
恭子の闘病記録と手帳に書き残された文章によって、呼び覚まされた私の曖昧な記憶を辿りながら、恭子が繰り返し「疲れる」「疲れた」と言っているのは、闘病記録のなかの記述が主であって、共に暮らしていた私に対してすら滅多に「疲れた」ということばを吐くことはありませんでした。いつも笑顔を絶やすことのなかった恭子は、こんなにもどんより、どろーんとつらい抗がん薬治療や最期の髄膜播種の症状に耐えていたのです。
喜びと幸福をからだ全体で
「疲れは、納得できない今を生きるところにつきまとう感情なのだろう」と、どなたかが書かれていますが、まさにそのとおり。恭子は自分の命を奪おうとして苦しみを与え続けるがんという病気の不条理に、納得がいかないままに苦しい生を生きていたのでしょう。
恭子の人生がきらきらと美しく輝いていたのは紛れもない事実ですが、私にさえあまり口には出さずとも、もやもやとした倦怠と苦悶に満ちた闘病の日々をおくっていたこともまた事実だったのです。それは、闘いながら長く生き続けさせるにはつらすぎるほどの苦悩であったといって過言ではないと思っています。
それでも、信じていただきたい。恭子の青春時代から結婚ののち、2人の子の母となったのち、とりわけ人としての生を全うするまでの終盤に2人で過ごした日々も、恭子は喜びと至福に満ちた充実した人生を過ごしていたのです。最後の3年間の2つのがんとのつらい闘病に明け暮れた日々でさえ、満ち足りた人生の幸福を全身全霊で周囲にも振りまいてくれて、爽やかな風をすれ違うすべての人々に届け続けてくれていたのです。
恭子の人生はけして不運で暗くつらい人生などではなく、明るく穏やかで満ち足りたものだったのです。その証拠に他界する3カ月ばかり前のある日に私が撮影した写真、あの両手を大きく広げて満面の笑みで生きている喜びと幸福と充足をからだ全体で表現した写真を残してくれたのです。
あとに残った者の淋しくつらく煩わしい思いを恭子には味合わせたくありませんから、順番はこれでよかったのだと思っています。勿論、早過ぎますが、しかし、病気で苦しみながらそれに耐えて、人間としての生を永らえさせるのも酷でも可哀想でもあります。
2度目の恋のただなかに
私は、人生2度目の恋のただなかにいます。後にも先にもたった2度の恋愛の経験しかない甲斐性のない男です。恭子が生を全うしたのちの3カ月ほど経った日に、私はやるせない2度目の恋に落ちていったのです。しかも、同じ女性、恭子に。
結婚に至るまでの10年の間、ときにもうだめかと諦めかけながら、何の取柄もない鈍感な青年であった私のことを大切に思い続けてくれたことを、突然、恭子の親友が語ってくれたのです。そんな恭子がいじらしくて、愛おしくて、ありがたくて、もったいなくて、こころの深いところから湧き上がってくる感慨に、私は胸の張り裂けるような思いでいました。
近ごろ、私は恭子が一緒にいることをごく自然に受け入れています。
当初は恭子を失った痛みや苦悩が私を襲って、精神的にも本当に不安定で、生きているのか、生き続けられるのか、まったく自信の持てない悶々とした日々を送っていました。ところが、私が間違ったことやろくでもないことを考えたり、思案したりするたびに恭子が〝それはだめだよ〟という明確なメッセージを私に送ってくれるということが重なりました。私は次第に恭子が傍にいてくれることを悟っていきました。
続いて、どうすれば恭子が私と一緒にいることを両親や子どもたちや他の人たちにきちんと伝えられるのだろうかと、こころを悩ませました。納得させるための理屈を考えあぐねました。無理なことでした。そして、無駄なことでもありました。無意味といったほうがいいでしょうか。
ぶつぶつと恭子に話しかけながら2人で過ごす毎日は、今でも恭子が中心の生活です。恭子はときにすんなりと答えてくれ、ときになかなか返事を返してくれません。おおむね、否という返事はすぐに返ってきます。
恭子の好きな飲み物とお菓子、果物を毎朝恭子の遺影と遺骨に供え、生花は絶やすまいと決めています。恭子が好むこと、恭子が喜んでくれることは、大切に守り通したいからです。
毎朝20分間の読経を絶やさず、月に1度は誰も納骨されていない墓掃除をし、盆暮れ、お彼岸には位牌堂にお供えをして、菩提寺の世話人の末席にも加わらせていただき、寺の植栽の管理などしながら暮らしているうちに、私は一端の檀信徒になっているようです。
2人の実家の共通の宗教である臨済宗妙心寺派の教えに沿って恭子の仏壇を誂え、淡々と法要などの行事をこなしながら、ねんごろに恭子の菩提を弔っているといっていいような生活をしています。
釈迦如来に頭をたれ、手を合わせ、線香を絶やさず、お経を唱えているのは、そのような方便を通じて恭子を大切にしているような気持になれるからでもあります。こころ安らぐ日課のようなものです。
読経のなかで祈る
今現在の恭子の在りようを考えれば、どの行為も本質的な慰めの得られることではないのかも知れませんが、不動の信念や強靭な精神などとはほど遠い軟弱で女々しいこころしか持たない凡夫である私のような者が、日課を繰り返すことによって、恭子と2人水入らずの安寧な日々を送られるような気がしているのです。
そして日々の敬虔な仏教徒然としたお勤めの本当の目的は、実は恭子の冥福や成仏などではなく、恭子と2人して折り入ったお願いを、本尊である釈迦如来にしているのです。
読経のなかで私たちは祈ります。
「釈迦如来。私と恭子のわがままをお聞き届けください。私と恭子は2人して共におそば近くに参ります。それまでは恭子が私と共に在りますように。私のそばを片時も離れませぬように。どうぞ私たちのわがままをお許しください。奇跡を続けさせてください」
この望みと、2人の子どもたちの安寧が、釈迦如来に敬虔に祈りを捧げる本当の理由なのです。私は仏教徒を気取りながら、実は釈迦如来に許されざる願いを日々祈り続けているのかも知れません。
現在の恭子の在りようが、私と恭子に新たなかたちの夫婦の関係をもたらしてくれて、私に深い安らぎを与えてくれるからといって、人間としての恭子をあまりにも若くして失った痛みや苦しみが癒えるということはありません。それぞれは、また別の問題なのです。
私はたくさんの恭子の写真に囲まれて毎日を暮らしていますが、ときに写真は恐ろしいものです。
28歳のあどけない新妻の幸せに満ちた表情で、異国の地に立っている恭子がいます。2人の男の子に恵まれて、幸福に輝いて子どもたちを女神のように見守る恭子がいます。自分のやりたいこと、人の役に立つことを見つけて、謙虚に輝いている恭子がいます。病に立ち向かうために髪を切った決然とした恭子がいます。歌っている恭子がいます。クスリでからだがぼろぼろになって、ウィッグをして、結婚記念日の花束を抱えた恭子がいます。死を覚悟した、神に近づいた表情の恭子がいます。死を3カ月後に控えながら、両手をいっぱいに広げて生き抜いた時間を、全身全霊で喜ぶ満面の笑みの恭子がいます。
しかし、もうここには私と同じ肉体を持った恭子はいません。