ようこそ!!がん哲学カフェへ 6

「職を失くし、家族ともぎくしゃくし始めた」

樋野興夫 順天堂大学医学部病理・腫瘍学教授
発行:2014年4月
更新:2019年7月

  

2012年9月に胃がんが見つかりました。手術したがリンパ節への転移があり、現在は抗がん薬による治療中です。職場に伝えると、営業職から後方支援の管理部門に配転に。上司や同僚は「体が良くなれば、また一緒に働こう」といってくれますが、態度がどこかよそよそしく感じられます。結局、居づらくなって、昨年末退職しました。

これからも高額な治療費を支払いながら、生活しなければなりません。退職前に再就職を支援してくれるといっていた学生時代の友人からは何の連絡もなく、失業保険が切れた後の収入のめどはまったく立っていません。経済面での不安がのしかかっているからでしょうか、妻や2人の娘との関係もぎくしゃくし始めました。何とか、新たな生活を始めたいのですが、現実は希望のない状況に疲れ果て、最近では、外に出ることもおっくうに感じる始末です。このままではうつ病になるのではないかと不安も感じています。危機的な状況を脱出するためにはどうすればいいのでしょうか。

(N・Tさん、男性54歳)

八方塞がりでも、天は開いている

サラリーマンに多い「看板かじり」

ひの おきお 1954年島根県生まれ。順天堂大医学部病理学教授、医学博士。(財)癌研究会癌研究所病理部、米国アインシュタイン医科大学肝臓研究センター、米国フォクスチェースがんセンター、(財)癌研究会癌研究所実験病理部部長を経て現職。2008年より「がん哲学外来」を開設し、全国に「がん哲学カフェ」を広めている。現在32カ所の「がん哲学カフェ」での対話をはじめ、全国で講演活動を行っている

がんになると誰でも体力面のみならず精神的にも落ち込みます。その落ち込みが、仕事や家庭、さらに友人関係にも連鎖的に波及していわば「八方塞がり」というべき状況に陥ってしまうことも少なくありません。

N・Tさんの置かれている状況は、そうした典型例といえるでしょう。では、この厳しい状況を打開するにはどうすればいいのか。なぜ事態がここまで悪化したのか考えてみましょう。

会社内で働くサラリーマンに与えられている「部長」や「課長」といった役職は、社内での肩書きにすぎません。いってみれば、その人の役割を物語る一種の看板のようなものです。

しかし現実には多くの人たちが、それがあたかも自分自身であるかのように錯覚して行動しています。私はこうした人たちを「看板かじり」と呼んでいます。もちろん長年、同じ職場で働いていれば、そうなるのはやむを得ないことです。

そうした人たちは、絶えず他の人たちと競争し、他の人たちと自分とを比較することによって、自分を支え続けています。だから何かの原因で「看板」を外されると、自分を見失い、元気を失くして落ち込んでしまいます。N・Tさんが気力を失くしたのも、営業の第一線から、後方支援に回されて、それまで自分を支えていた看板がなくなったことが原因かもしれません。

本当をいえば、閑職に回されても、給料がもらえるのだから、それで良しとして、悠々と生きていけばよかったのかもしれません。周囲の反応も気にすることはありません。仕事が変わっても自分は自分、と、いい意味で開き直ればいいのです。もっとも競争原理の中で生きているサラリーマンに、そうした方向転換を求めるのは、至難の業というべきでしょう。その意味では、N・Tさんが会社に居づらくなり、退職してしまったのも、やはり無理のない話といえるかもしれません。

しかし問題はそこからです。

がんになって落ち込むのは当たり前のことです。ただいつまでも落ち込み続けて、暗い表情を続けていては、周囲との関係も悪化するばかりでしょう。

N・Tさんは家族との関係がぎくしゃくしているのは、果たして経済面での不安だけが原因でしょうか。N・Tさんのいつまでも元気のない状態に、奥さんや娘さんたちは歯がゆさを感じているのではないでしょうか。私にはむしろ、そちらのほうが大きく作用しているように思えます。

再就職の支援を頼んだ友人から連絡がないのもそのせいかもしれません。困っている人が途方に暮れた表情をしていると、人は声をかけづらくなるものです。友人もN・Tさんの意気阻喪で、声をかけられないのではないでしょうか。ともあれ現在の状態が続けば、友人や知人とも疎遠になり、孤立を深めていくばかりかもしれません。

まずは笑顔になることから

では、どうすればそうした状態から脱却できるのでしょう。私が主宰している「がん哲学外来」にも、同じような「八方塞がり」の状態に苦しんでいる人が訪ねてこられます。私はそうした人たちに、よく私の自宅近辺の河川を泳ぐ鯉について話しています。

当たり前のことですが河川には流れがあります。鯉はその流れに逆らって泳ぎ続けています。そのたくましい泳ぎぶりを見るたびに、私は、「生きる」ことの厳しさを実感します。そして自分が相対するがん患者さんにも、逆境にめげることのないしたたかさ、しなやかさを持っていただきたいと願っています。

がんを患うことによる環境変化は、生易しいものではないでしょう。しかし、そんな逆境の中で前を向いて生き続けることで、人間には知らず知らずのうちに強さが身につき、いつしか逆境を逆境と思わないようになるのです。

具体的にはN・Tさんには笑顔で生きることを心がけていただきたい。最初は無理に作った笑顔でもかまわない。それでも表情に笑みを浮かべていると、それだけで周囲の人たちとの関係が少しずつ良好なものに変わっていきます。そして、そうなると自然に笑えるようになる。するとN・Tさんの周囲には、また人が集まるようになるでしょう。

もちろん、その過程で家族との関係も変わっていくに違いありません。そこで奥さんとじっくり話し合い、それぞれの役割分担についても見直してみてはどうでしょう。その結果、一時的に奥さんに家計を担ってもらうことになってもいいのではないでしょうか。互いにかけがえのない存在だからこそ、助け合うことも必要でしょう。

暗雲が立ち込める八方塞がりの状態でも見上げれば必ず、どこかに青空がのぞいています。その青空を見つけるために、まずは心を強く、そして柔軟に保ちたいものです。

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