ペインクリニック小笠原医院 患者さんに「もう1つの家」としての安心感をあげたい

取材・文:守田直樹
発行:2007年10月
更新:2013年9月

  

思いやりで支えあう古民家ホスピス「和が家」

在宅ホスピス医と接していて感じることは、人をリラックスさせる力をもっているということだ。
命がせめぎ合う場面に何度も立ち会ってきたからこそ身につけられるのだろう。
今回はそうしたドクターの1人、小笠原一夫さんにお話をうかがった。

命を見つめて身につけた“癒し力”

写真:ペインクリニック小笠原医院

利根川へと注ぐ1級河川「滝川」のほとり、一般住宅のようにクリニックはたたずむ

今回の「ペインクリニック小笠原医院」の小笠原一夫さんは、眼光鋭く一見こわもてだが、いったん話し始めるとつい言わずもがなのことまで打ち明けてしまう。いったいなぜなのだろうと尋ねると、小笠原さんはこう答えた。

「降りた、という感覚をもってるからじゃないでしょうか。在宅ホスピス医たちは、自分が背負い、走ってきたものに疑問を感じて降りたっていうか……。ギラギラしてないんでしょう」

それは、諦めとは違うはずだ。

命のぎりぎりの場面に何度も立ち会い、命のはかなさや尊さを痛感。人間にとって真に何が大切かを突きつけられ、考え抜いてきたからこそ、諦めとは異質の“癒し力”とでも表現すべきようなものを身につけられるのだろう。

小笠原さんは、ゆっくりと言葉を選びながら話す。

「昔はね、在宅でのお母さんの看取りをためらってる息子さんに『あなたが生まれるとき1年近くかけて大切に育み、その後も苦労して育ててくれた母親の最後のときぐらい仕事を休んだってバチは当たらないでしょう』というようなことを言ってました。でも、いまは言いません。言えないんです」

やりたくてもできない人のほうこそ、もっと深い哀しみや苦しみを抱えているかもしれないからだ。

群馬県のホスピス運動の先駆者

写真:小笠原一夫さん

在宅ホスピスの草分け的存在の小笠原一夫さん。ギターの演奏もちょっぴりハスキーな歌声も魅力的だ

小笠原さんは、ホスピスをムーブメント(運動)として捉えてきた在宅ホスピス医の草分け的存在だ。 長野県の総合病院から群馬県の脳神経外科病院へ転勤した1988年、たまたま開いた勉強会で大勢の叫びを聞く。

「イギリスのホスピスに研修に行き、自分もやってみたいと言っていたナースの報告会を病院で開いたんです。小さな勉強会のつもりが、50人くらいでいっぱいの部屋に100人くらいの人が集まってものすごい熱気に驚きました」

参加者は、がん患者の苦しみと日々格闘していたナースと、大切な人を看取ったあとの後悔に苛まれた遺族がほとんどだった。痛みをとって欲しい、家に帰りたいと願う患者の切なる訴えが聞き入れられない現状を変えなくては――。熱い思いが1つになり、その場で急遽「群馬ホスピスケア研究会」の設立が決まった。

「おそらく地域単位でのホスピス研究会は全国ではじめてのことだと思います。当時のがん患者さんは、痛がり、苦しんで当たり前といった空気が病院にあり、それに不満をもつナースや遺族の方々が、ホスピスという言葉に希望を見出したんです」

日本初の施設ホスピスが聖隷三方原病院(静岡県浜松市)に誕生したのが1981年。86年にはWHO(世界保健機関)が「がん疼痛治療法」を出したものの、80年代の国内のほとんどの医療現場は治療のみに専念し、患者の痛みは放置。対する患者側も、モルヒネに対する偏見などから痛みを我慢する状況がつづいた。

それを打破したいと研究会に参加したのが看護師の阿藤悦子さん。その出会いをきっかけに、小笠原さんがのちに開業後、右腕となって支えてきた。

「病院の先生方が緩和ケアについてまったく理解がなかったころから、小笠原先生は必死にモルヒネでの痛みの緩和をなさっていました。しかも精神的なケアまでやっておられ、私もホスピスについて学び、在宅医療をやりたいと思ったんです」

痛みの緩和だけが「緩和ケア」ではない

時代の要請を痛感した小笠原さんは1991年、在宅医療と痛みの緩和のための「ペインクリニック小笠原医院」を群馬県高崎市にオープン。以来15年間、毎年20人前後の患者さんを在宅で看取ってきたが、忘れられない患者さんの1人が大久保敬一さん(仮名)だ。

膀胱がんを摘出後、その機能を大腸で代用するという大手術を行った50歳代の男性患者だった。のたうちまわるような痛みがあるのに病院の医師がまったく痛み止めをしてくれず、

「入院中に相談されたんです」

と、小笠原さんは言う。

主治医を知っていた小笠原さんは痛みの緩和を要求するが、極めて弱い鎮痛剤を1錠出したのみ。痛みが取れようはずがなかった。

大久保さんの入院は、手術した4月から半年以上。正月には退院したいと訴えても、「こんな状態では帰せない」と主治医は繰り返すばかり。すでに完治させることは難しいとわかっていた大久保さんからの懇願を受け、小笠原さんは決断した。

「ご夫婦の友人などの力も借り、無断で帰るわけにも行かないので『これから帰ります!』と看護ステーション前で叫び、ワゴン車で病院を脱走したんです」

夜明け前に病院をぬけ出す「暁の大脱走」だった。

翌日からモルヒネを投与すると、2日目にはほとんど痛みがとれ、それから最後の日まで2カ月間、奥さんと2人っきりの生活を楽しみ、「2度目の新婚生活です」と、大久保さんは喜んでおられたという。

今ではここまで退院を拒む病院はなく、逆に入院日数の短縮化で画一的に退院させる傾向が昨年から一気に強まっているという。

また、「がん拠点病院」に指定された病院に誕生した緩和ケアチームへの期待は大きいが、「緩和ケア」を誤解している医師が多いことにも小笠原さんは苦言を呈する。

「緩和ケア=痛みをとることだと思っている医師がいるようですが、そうではありません。痛みは、あくまでも氷山の一角。がんの患者さんは暮らしのなかで実に多様な問題を抱えておられます。そこから氷山の全体像をどう描くのか、その方が抱える根源的な問題に、どうしたらスピーディかつ正確に焦点を当てられるかということが医者の力量になると思います」

心と身体は別々ではない。「霊的な痛み」というピンときにくい日本語に訳されるスピリチュアルペインも、「孤独」が大きな引き金になっているのかもしれない。

「いまの時代の困難さで、もっとも大きいのは孤独です。同居の家族がいてもまったく会話がなく、1人よりもっと孤独なこともある。痛みも、そうした家庭内での不和などから起こることもあるんです」 小笠原さんが在宅医療をおこなう人たちは、恵まれた境遇の人たちだけではない。家庭に入り込むからこそ現代人の「孤独」が垣間見えてくるのだ。

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