在宅看護研究センター 利用者のニーズに沿った訪問看護サービスを提供してくれる「開業ナース」

取材・文:守田直樹
発行:2007年5月
更新:2013年9月

  

患者家族の訴えから、在宅看護を実現

在宅医療を熱心に行う医師の多くは、これからのカギはドクターではなくナースが握っている、と決まって言う。
その重要な担い手が1992年に制度化された訪問看護ステーションである。
1999年には民間にも門戸が開かれたが、国の目標9900カ所にほど遠い5091カ所(平成17年度)にとどまっている。

ボランティア訪問看護の限界から設立した在宅看護の組織

写真:在宅看護研究センター

都会の一隅にある村松さんが設立した「在宅看護研究センター」

訪問看護ステーションが日本に誕生する約10年前、利用者の求めで訪問看護をはじめたのが「開業ナース」として知られる村松静子さんだ。

村松さんは1983年、勤務していた日本赤十字社医療センターに入院していた担当患者の家族からの懸命な訴えを聞き入れ、ボランティアで訪問看護を開始。だが、3年あまりでボランティアでの関わりに限界を感じ、「在宅看護研究センター」を設立した。

そのころ「心あたたかな医療運動」を行っていた故・遠藤周作氏と偶然知り合い、

「ボランティアではダメだ。会社などの組織をつくって社会に飛び出たほうがいい」

と、後押しされたことが、設立の大きな要因になっているという。

当時のことについて、村松さんは著書『開業ナース』にこう記している。

(私は、自分のすべての生活をそのポケットベルで拘束せざるを得なかった。外出時、入浴時、睡眠時、調理時など、あらゆる時間ポケットベルを離さなかった。今思い起こすと、そのけなげさにあきれ返ってしまう。日曜日などは子連れで駆けつけたこともあったし、夜間でも相当回数駆けつけ、最後の看とりも30回以上行なっている。それでも不思議と苦にならなかったというのが本音である〉

村松さんは、看護師仲間から「営利追求ではないか。看護は聖職なのに」と非難されても、信じる道を突き進んできた。

プロとしての在宅看護を提供し、かつ経営を成立させる

写真:倉戸みどりさん

在宅看護研究センター「開業ナーシング部」で活躍する倉戸みどりさん

今は余程のことがない限り現場に駆けつけず、教育や看護経営上のことに専念している村松さん。そんな彼女に代わり、センターの「開業ナーシング部」実践部門で11人のナースを統括しているのが倉戸みどりさんだ。

倉戸さんは、村松さんの著書『開業ナース』を読み「このような看護を提供する人がいたんだ」と衝撃を受けたという。

「病院の集中治療室(ICU)で働いていたころ、仕事をしながら地域看護を学ぶ機会に恵まれたんです。そのとき、在宅で亡くなった患者さんの表情が、機械に囲まれたまま病院で亡くなる人とまるで違ったんです。同じころに村松の本を読み、働かせてほしいと履歴書を送りました」

9年の臨床経験を経て1994年に入社。2カ月の研修を受けて現場へ飛び出した。

「集中治療室では脈拍も血圧もモニターに出ています。でも在宅では、自分の目で見て、手で触れて患者さんの状態の判断をしないといけません。すべてが自分にかかってくる責任の重さを感じる一方で、患者さんとじっくりと関わることのできる喜びを覚えました」

集中治療室では家族の面会時間もわずか10分だったが、在宅看護はその形態もさまざまで、短時間の訪問から24時間付添いなどで家族とも長く関われた。

「病棟勤務時代は家族の精神面などには、細やかに関わることができませんでしたが、在宅で24時間患者さんと向き合うと、家族の不安な気持ちなども実感し、理解できるようになってきました」

1999年にはセンター付属の訪問看護ステーションが発足。保険適用の訪問看護を開始しながら、それまで行ってきた独自に料金設定した「旅行付添い看護」や「遠隔地付添い看護」なども継続してきた。

「旅行付添い看護は年間3~6件ぐらいでしょうか。私も過去に香川県の高松や島根県、北海道に行ったこともあります」

そのなかの北海道に同行した肝臓がん患者の場合、旅行というよりも正しくは“帰郷”だった。東京まではるばる最新治療を受けに来たものの、最後はふるさとで過ごすことを希望されたのだ。

「点滴や酸素吸入器などをつけたまま、ご家族だけで帰るのは困難です。飛行機による気圧の変動は危険なので高速道路を使い、青函連絡船で北海道に渡りました。車中1泊で合計32時間かかりましたが、こうした帰郷を望まれる方もきっと多いと思うんです」

ただし、看護師を完全拘束するのだから料金もかかる。「旅行付添い看護」は1日10万5000円だ。

「高いと思われるかもしれませんが、村松が設定した料金は決して儲けるためのものではなく、診療報酬から換算し、常勤ナースの保険や福利面を含めて保障するために考えぬかれた金額です。プロとしての在宅看護を提供しながら、『開業ナース』は経営的にも成り立たせないといけないのが大変なんです」

帰宅を望む父親の本心を聞いて、覚悟を決める

写真:センターの入口

訪れた人をリラックスさせてくれる雰囲気が漂うセンターの入口

現在、医療保険での訪問看護は1回60~90分まで。しかし、それだけでは不安に思う患者さんやその家族は多い。「長時間付添い看護」を利用し、92歳の父親を2006年10月に看取ったのが大高優子さん。

大高さんが「開業ナース」を知るきっかけとなったのも、村松さんの著書だった。

「最初に本を手にしたときには、重い課題を私に突きつける内容だったので、パラパラと見るだけだったんです。でも、2006年9月の内視鏡手術のあと、父の容態が良くなかったのでじっくり読みました。看取りがうまく行ったのは、この本のおかげなんです」

大高さんの父親は、20年ほど前に大腸がんを発症。そのあと尿管がんや膀胱がんの手術で入退院を繰り返し、2004年には、

「尿管がんができています。全身麻酔での開腹手術にも耐えられる体調だと思いますが、どうされますか」

と、大学病院の主治医からたずねられた。

父親は完治を目指す開腹手術ではなく、対処療法の内視鏡手術を選択。現役時代は特許庁に勤務するなどし、89歳にして毎日1万歩の散歩を欠かさないかくしゃくとした老紳士は、抗がん剤も放射線治療も行わないと決めた。

それから2年半あまり。尿管がんが大きくなり、再び同じ状況に立たされるが、

「手術はせず、尊厳死を希望します」

と、宣言したと言う。

内視鏡手術は成功したが、翌日に出された普通食のワカメを肺内に吸引する誤嚥性の肺炎を起こしてしまった。

「『消化器系の手術じゃないから大丈夫だと思いました』ってドクターは言うんですが、90歳過ぎの飲み下しの能力が落ちている老人ですよ。それはおかしいと言うと、翌日からはとろみ食になりましたが……」

これまでとは明らかに違う経過に、大高さんは、(1) 大学病院の病室のまま、(2) 同院の緩和ケア病棟、(3) 自宅近くの療養型施設、(4) 娘夫婦近くの療養型施設 (5) 介護付有料老人ホーム、(6) 自宅の6つの選択肢を父親に提示。すると父親は点滴さえ外せれば受け入れてくれることになっていた自宅近くの介護付有料老人ホームを選んだ。

「父とは10年ほど前から死生観などについて話し合ってきたため、こういう話もすんなりできたんです。ただ、父が老人ホームを選んだのは、母に迷惑をかけるのが嫌だという気持ちもあったとは思います」

本人が選んだ方向性でいく予定だったが、一時は良くなりかけていた容態が急変。軽い脳梗塞を起こしたような状態で、「危篤」という知らせが入る。

父の意に反するが、このまま病院で最期を迎えても仕方がない。いや本当の父の気持ちはどうなのか――。そんなモヤモヤを振り払ったのは、夫を愛する妻の一言だった。娘の大高さんが口にできなかったことを、母親はストレートに聞いてくれた。

「本当はどうしたい?」

「家に帰りたい」

夫婦の会話を伝え聞き、大高さんも覚悟を決めた。

「そこがやっぱり夫婦なんだと思います。すっとハードルを越えちゃって。でも聞いた以上、叶えてあげないと私自身にも悔いが残ると思って、急いで『開業ナース』について調べてもらったんです」

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