ケアタウン小平 明日のことは分からない、だからこそ今を十二分に楽しんで生きている
ホスピスケアの経験を地域で生かす新しい在宅ケアの試み
ホスピス医であり作家である山崎章郎さんが『病院で死ぬということ』を著してから16年。今度は病院を辞め、自ら開業して在宅医となった。患者や家族の生活支援、人生支援をもっと広く拡げていくために。
そこで、巡り会った1人のがん患者、杉山みち子さんは、それまでの抗がん剤治療を止め、新しく緩和医療を受け出してから、「安心感に包まれ、自分らしく生きられるようになった」という。
患者・家族の生活支援、人生支援
東京都小平市は、都心から26キロメートルほど西、国木田独歩が描いた名作『武蔵野』の面影を残すところにある。「ケアタウン小平」は桜並木が続く「玉川上水」の近くに、3階建ての建物が大きな桜の木に隠れるようにたたずんでいた。
2階の住民が育てているのだろう。玄関横からベランダへと伝う蔓には沖縄のゴーヤの実がぶら下がっている。建物のなかに入っても診療所があるようには見えない。小さく「ケアタウン小平クリニック」と書かれた部屋に入ると、診察室ではなくソファが置かれた応接室だった。
「ハードに目が行くかもしれませんが、注目してほしいのはソフトの部分です。これまでホスピスで蓄積してきた経験を在宅という場で生かしたかったんです」
こう話すのは山崎章郎さん。『病院で死ぬということ』を著したあと、1991年に聖ヨハネ会桜町病院のホスピス医に。以来、第一線を走り続けてきたが、2005年10月に開業して在宅医となった。その理由の1つが、今の医療保険上の緩和ケア病棟では、主にがんとエイズの末期患者しかケアできないという制約があるためだ。
「もう死んだほうがましだと絶望的な状況に追い込まれるのは、がんやエイズの患者さんだけではありません。ホスピスケアの目標は患者や家族の生活支援であり、人生支援。もっとさまざまな人たちに拡げていくため、在宅ケアをはじめました」
前は下を向いてたけど、いまは堂々と歩いている
こうしたスタッフに在宅生活を支えられているのが杉山みち子さん、54歳。山崎さんの在宅診療に同行すると、まるで近所の友人宅へ遊びに行ったような雰囲気だった。1匹のワンちゃんが、あたかも自分の指定席のように山崎さんのジャケット上に乗ってしまい、杉山さんが叱ろうとすると、
「いいんですよ。これまでは吠えられてたのに、今日はどうしたんでしょうね」
と、山崎さん。なごやかな談笑のなかで診察も終わり、聞きたいことがないか尋ねられると杉山さんがこう切り出した。
「これからはね、先生。週単位で考えて行ったほうがいいって聞いたんですけど」
一瞬、空気が凍りついた。
すぐにお腹の水を抜く周期と聞き違えていたことがわかるが、残された時間が「週単位」という言葉だけで緊張が走る響きだった。
「でも決して悲壮感や哀しみ、不安は何もありません。今は本当に穏やかな気持ちです。よくがん患者のみなさんが、今を生きてるっていう言葉を使われるけど本当です。明日のことは分からない、先が無いからこそ今を十二分に楽しんで生きてるんです」
これまで1000人以上の看取り経験をもつ山崎さんが主治医となり、ともに歩めることになった安心感が大きいという。
「抗がん剤治療を止めて、山崎先生の在宅診療になってから、安心感に包まれています。この間、道を歩いてるときにふと、私はいま堂々と道を歩いてるっていう感慨にとらわれたんです。前は下を向いてたけど、あ、いま私は堂々と歩いているって。そんな気持ちになれることを1人でも多くの人に伝えたいと思ったんです」
もちろん、最初から今の心境に至ったわけではない。わずか数カ月前までは友人にさえ、がんであることを打ち明けられなかった。
抗がん剤治療じゃなく、痛みをとってくれるホスピスに行きたい
杉山さんが、ある大学病院で最初に卵巣がんの手術を行ったのは2002年6月だった。術後の病理検査では、ステージは4段階のうち最も初期の1。補助療法として行った5回の苦しい抗がん剤も治したい一心で乗り越えた。
しかし、手術から3年目。再発を知らされる。
「私のなかでは来るべきものが来たっていう感じでした。たまたま下痢をしたのが1週間くらい治らなくて、すぐに大学病院に行ったんです。でも、こっちはまず痛みを取って欲しいのに、抗がん剤治療しかないと言われて……」
苦痛を訴える杉山さんに対し、医師が処方したのは整腸剤だけ。あくまでも「奏効率30パーセント」の抗がん剤治療を勧める医師に対し、杉山さんは「痛みをとってくれるホスピスに行きたい」と言った。
その言葉に夫の憲房さんが反発した。
「何も治療しないってことは、死ぬのを待つってことなのか」
もっと闘ってほしいと願う夫の気持ちに、杉山さんが応える余裕はなかった。
「違うの。いま私はこんなに苦しくてつらいのに、効くかどうか分からない抗がん剤治療の苦しさは受け入れられない。ホスピスで苦痛を取り除いて、安らかに死なせて」
20日間ほど何も食べていない体は衰弱を極め、がんによる下腹部の痛みに耐えるのも限界だった。
「じっとしてられないんです。苦しくて苦しくて、つらくてつらくて、もう体を揺さぶってごまかすしかない状態でした」
見かねた夫が水を抜いてくれと主治医に頼むと、こう素っ気なく言われた。
「すぐ溜まるから無駄でしょう」
この後に転院した総合病院では、すぐに抜いてくれたので大学病院の医師がいかに延命のみに躍起になっていたかは明白だ。そのうえ総合病院では水をぬいたお腹に抗がん剤を直接投与してくれ、これが劇的に効いてすぐに便通や食事もとれるようになった。
「もう、うれしくてうれしくて、涙が出ました」(杉山さん)
痛みがとれれば、意欲も湧く。小旅行を楽しんだり、がん関係の手記や闘病記などをむさぼり読んだ。杉山さんは最初のがん治療の直後に、父を肺がんで亡くしている。そのときからずっと「父はどんな気持ちで死を迎えたのか」ということを考え続けてきた。
がん関連のテレビ番組も注視した。とくに命を限りに未承認抗がん剤の問題で国と闘っていた故佐藤均さんの執念に圧倒された。
「佐藤さんが、もっと患者自身も自分の病気のことを勉強すべきとおっしゃってたんですね。でも私は佐藤さんとは違う、どうやって勉強すればいいのって反発すら感じていました。自分は弱いから、最後はきっと死にたくないってのたうちまわり、泣き叫ぶんじゃないかって思って……。孤独でした」
同じ悩みをもつ人を探して患者会にも行ったが、そこは治す人たちの集まりで、「死を語るなんてとんでもないって雰囲気でした」。
そんな状況を乗り越えられたのは、すべてを語り合える娘たちが、ずっとそばに付き添ってくれたからだった。 「私は娘たちに愛をいっぱいもらいました。娘たちがいなかったら今の状態にはなれなかったと思います。でも、死を実際のものとして考える人間としての孤独感はありました。私のように感じている人は、きっと今もたくさんいると思うんです」