第一回 闘病記大賞 深見賞 受賞作品
「今日を生きる」(1)
30代で胃がんと腸閉塞、50代で肺がんと甲状腺異常、60代で乳がんを経験し、現在も乳がんの再々発を生きる
平成23年11月、5回目の手術も終わり明日は退院の日。
私は夕食後、消灯までは時間があるので、食堂の大きな休憩室にいました。
いつも通り人影がありません。今日まで生きられた、そして北海道の厳しい冬、自然の怖さに思いをはせながら、これからの人生を考えていました。
そこへ同室の若い30代の女性が来られ、「同席しても良いですか」、「どうぞ」
病室ではみな闘病中で、ほとんど会話はしていませんでした。彼女のところに小学1年生ぐらいの子供さんが来ていました。私も30代の頃の自分と重ね合わせて見ていました。
彼女は親しみを込めて少し笑みを浮かべながらも苦しそうに、子供が小さいので現状が解っていない悩みを話されました。
私も「あなたぐらいの頃に胃がんで、やはり下の子は同じくらいでした」と告げますと、静かに、ゆっくりとさらに語り始めました。
「妊娠中にがんが見つかり、離婚をしてから出産。そして育児。今ずっと闘病中で、放射線を受けながら、母親とともに育児をしています」と。
「子供は私が家でカツラに手をかけると、暴れるの!」
あまりに過酷な話に、私は言葉をはさまずに頷きながらも、掛けたい言葉を探していました。
「小学生になったので勉強のこともあるので」と、次々と胸の内を話されました。本当に可哀想に思いました。
私は、「一生懸命に生活をする姿勢のあなたを子供さんが見て、その子もきっと頑張って良い子になると思いますよ」と話し、長い廊下を2人で病室へ戻りました。
闘病記を記すこともめぐり合わせ
私は他人に、闘病中はあまり病について語ることはありませんでした。その日その日を乗り越えることで精一杯だったと思います。それに病には本人しか知り得ない苦しみがあります。
今こうして人様の苦しみを受け止められる立場になり、それは病みながらもここまで〝人並み〟に生きられている事実、人様が苦しいときに、それは与えられためぐり合せのような出会いを感じました。
多くを語らずとも、お互いに特効薬がないことを知りながら、ともに生きて行きましょう、の心が伝わることを願わずにはいられません。そして、この闘病記を記すこともめぐり合せの機会に思えたのです。
普通に暮らせる今を大切に
私は30代で胃がんと腸閉塞、50代で肺がんと甲状腺異常、60代で乳がんを経験しました。現在も乳がんの再々発の状況にあります。人生っていろいろなことが起きるのですね。
残された人生の時間を、無駄に生活はしないように心がけています。そして自分が生きている現実の中で今までの生き方、考え方を記します。
1年を過ぎても、ときどき傷に痛みが走りO先生に問うと、前の手術のこともあり、私の白血球数が足りないので、治りに限界があると告げられました。今までも料理などで指に小さな傷ができても1カ月ほどかからなければ治らなかったので、大きな傷なので納得できました。痛みがあっても普通に暮らせる今を大切に過ごしています。
30代は胃がんと腸閉塞との闘い
振り返ると、私は周りの問題と重ねて病気を乗り越えてきました。
31歳で家を持つことができました。そして3人目の出産が近い頃、母はがんが見つかり余命3カ月で間もなく他界しました。その3年後、夫の転勤で釧路市に転居しました。
昭和56年、38歳のとき、夫の勤務先の家族健診に出かけましたが健診後、その場で簡易診療所での検査を勧められ、別の大きな外科病院に行きました。その病院から検査後、釧路の総合N病院を紹介され、再々検査を実施。その結果胃の全摘出手術をすることに。病院で説明を受けた帰路、号泣しました。まだ長女は中学1年生、次女は4年生、下の子は幼稚園でした。
私の母はすでに亡くなっていましたが、母がいたら子供達の面倒を見てくれたのにと思いつつも、いや、亡くなっていて心配をかけずに良かった、と思い直しました。それからすぐ入院の準備を考えました。
小さな子供たちでご飯の準備をするのは無理と思い、近くの生協にお願いに行きました。事情を話すと、店長と現場の担当者が話し合って、「毎日、子供たち3人分用おかずセットを安く作ってくれる」というお願いを快く引受けてくれました。
次に3人の子供たちを並べ「私が病院で手術をしてそのまま帰らぬ人になるかも知れない。お父さんは仕事があるので新しいお母さんが来ることになるかも知れない」と語り、私との約束は「きちんと勉強すること」。ここまで話すと、長女が号泣しました。そして次々と子供たちは泣き出し、私も号泣しました。
次は夫への形見を考え、食器店へ出かけました。カットが綺麗で高価なウィスキーグラス2個、ブランディーグラス2個を用意しました。
次は冷蔵庫の中に入るだけの沢山の買い物をしました。気がついたら、入院受付時間の1時を過ぎていました。
8月の釧路では少し暑い日でした。汗だらけで夫の車で送られ院内を足早に駆けるように、外科受付へ向かいました。