肺がんと向き合った14年8カ月

「凛として生きる」 最終回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2018年2月
更新:2020年2月

  

鈴木 襄さん(社会保険労務士)

すずき のぼる 昭和21年6月茨城県生まれ。早稲田大学大学院経済研究科修士課程修了。昭和48年東京都庁入庁。平成19年3月監察員を最後に都庁退職。平成24年3月人材育成センター教授(非常勤)を退職後、埼玉県川越市で社会保険労務士を開業

<病歴> 平成15年3月:肺腺がんステージⅡの宣告。右肺上葉摘出手術。術後突発性心嚢内出血で手術 平成16年3月:縦隔リンパ節に再発。放射線治療及び化学療法を受ける 平成23年12月:左肺尖部に腺がん(原発)が見つかり手術。術後化学療法を受け現在に至る

是非、3人で行って欲しい

居合の稽古をする鈴木さん。無心になれる時間だ

〇2011年9月28日(水)

昼過ぎに、大宮駅の中央改札口に学生時代の歴史好きの仲間4人で集まる。萩、厳島、呉への自称「歴史の旅」の最終日程を相談する昼食会のためである。これまで3回ほど会って検討を重ねてきたので内容は、ほぼ固まっている。今日は最終確認である。最後にM君が航空券とホテルの予約をしてくれることになり散会した。あとは11月29日の出発を待つばかりである。

この旅行は、私にとって大きな区切りになる特別な意味がある。

5年生存率10%の10%に入るのかどうか考えるのを止め、自分の人生を生き切ろうと決心してから、まず生活のことを考えた。今後も当然、医療費がかかるという切実な問題があった。65歳までは人材育成センターで働けるが、それ以降は当てがない。健康が許す限り働きたいと思ったし、働かなければならないと思った。

資格を取ることを考え、社会保険労務士を目指した。幸いにも2009年に試験に合格することができた。指定講習を受講し、昨年11月1日付で埼玉県社会保険労務士会への登録手続きを済ませた。

登録からほぼ1年が経ち、社会保険労務士の仕事の様子もある程度つかめたので先日地元の東入間居合道同好会(現、東入間居合道清廉会)に入会した。先週の火曜日には、新しい稽古着と袴を着け、家にあった居合刀を携え、初めて稽古に参加した。

居合刀の持ち方から始まり礼法等、極めて初歩的な指導を受けたが、正座をすると、道場の床板の硬質な感触が脛(すね)に当たり、背筋が自然にピンと伸びるのを実感できた。

肺がんになってから、40年も前になる中学、高校時代の剣道部での稽古、途切れ途切れに続けていた社会人になってからの稽古を本当に懐かしく思い出していた。出来ることなら稽古着と袴を着けて、もう一度道場に立ちたいと強く感じていた。

病気になってからの体力の衰え、年齢を考えれば、剣道を再開するのは、到底無理である。剣道と居合道は、「剣居一如(けんいいちじょ)」と言う言葉の示す通り、言ってみれば表裏の関係にある。そこで、居合道を学ぶことをズーッと考えていたが、今回居合道の稽古に参加して長年の夢が叶えられた。

人材育成センターの勤務も残り半年程である。社会保険労務士の登録と居合道入門で、来年3月人材育成センター退職後の生き方も固まった。

11月29日からの「歴史の旅」はその出発点になってくれそうである。

〇11月16日(水)

午後2時、K病院受診。1時間程待たされて、3時頃診察室に入る。先生から、先週11日に受けたCT検査と呼吸機能検査の結果を聞く。

呼吸機能検査では、軽度の閉塞性換気障害がみられるとのことだが、心配ないらしい。ところが、CT検査では、左肺尖部に胸膜に連続するように18㎜の結節影がみられ、かつ今年の1月21日の検査時に比べ増大しているとの指摘を受ける。PET検査を受けるように指示を受けた。先生は、その場でT医科大学附属病院に連絡し、明後日、18日の予約を取ってくれた。PET検査後の診断は、29日から旅行に行くので、12月第1週にしてもらうこととし、6日を予約した。

これまでも何回かCT検査で異常影が見つかり、その後経過観察では異常なしとなっている。PET検査をすぐ受けるようにという指示はこれまでと異なり、気にはなるが、初発から8年半、再発からでも7年半たっており、今回もPET検査の結果異常なしとなる可能性が高いのではないかと極めて楽観的に考えていた。

〇11月18日(金)

午後からT医科大学附属病院へ。検査結果は主治医に報告するので、主治医から聞くようにと言われたが、29日からの友人たちとの旅行に行くかどうかを判断しなければならないので、集積があるか無いかだけでも教えて頂けないかとお願いした。

「わかりました。集積の有無についてはお話しますが、詳細は必ず主治医に聞いてください」と言われた。

検査は7年前と同じように2時間ほどで終わった。帰り際に呼ばれて、「集積はありました」と一言報告があった。

すぐにM君に連絡し、新宿駅で落ち合う。喫茶店ルノアールで状況を詳細に話した上で、「29日からの旅行は、行かれなくなった。是非、3人で行って欲しい」と頼んだ。

「わかった。あとは、他のメンバーと相談する。結論は連絡するよ」

ルノアールを出て、新宿駅まで一緒に来て別れる。

別れ際、「何て言っていいかわからないけれども、……でも頑張れよ」の一言。握手して互いに雑踏の中へ。山手線の改札口へ向かう途中で、涙が出そうになり、慌てて道路に出て新大久保駅に向かって歩き出した。青梅街道を渡って裏通りに入り、人通りが少なくなってから歩きながら泣いた。この8年何をやってきたのか。29日からの旅行のことも含めて、何もかもが無意味であったような気がしてならなかった。

新大久保で駅のトイレに入り、洗面所で顔を洗い、急ぎ足でホームへ。山手線に乗り何時もと変わらない窓外の景色を見て少し気分が落ち着いた。

〇11月20日(日)

不安が募る。CTの画像で見るとがんのある場所は再発したときに放射線を当てたところであり、手術出来るのかという不安、もうひとつは胸膜に連続してというのは、胸膜に侵潤(しんじゅん)しているのではないかという不安である。胸膜までがんが広がっていれば、状況は深刻になる。あれこれ勝手に素人判断するのではなく、最終診断が出るまでは冷静に過ごそうと考え直す。

夜、M君より電話が入る。

「3人で相談した結果、旅行は取り止めにした」

「3人で行ってくれるよう頼んだではないか」

少し口調が厳しくなった。

「今取り止めれば、航空券、ホテルの予約を全てキャンセルすることになり、キャンセル料も取られるだろう」

M君の口調も厳しくなった。

「そんなのはどうでもいい。この旅行を計画したのは、鈴木だろう。お前抜きで、我々だけで行けると思うのか。行くなら4人だ。早く元気になって一緒に行こう」

友達の気持ちは身に沁みて有難い。しかし、たとえ病気とは言えこれだけの迷惑を掛けてしまう自分自身が情けなく惨めな気持ちにさえなった。

検査結果は異常なし。手術可能

〇11月21日(月)

K病院に連絡をし、12月6日の予約を前倒しできないかを相談。11月29日に変更してもらう。奇しくも本来ならば友人達と萩、厳島、呉への旅行に出発する日である。

〇11月27日(日)

1日家でのんびり過ごす。落ち着きを取り戻し、少し冷静に考えられるようになった。やはり厳しい状況を覚悟しておこうと思い、夜になって、実家を継いだ弟と家内の一番上の兄に連絡し、29日の診断に立ち会ってもらうことを依頼した。快く了解してもらう。

〇11月29日(火)

K病院へ診断を聞きに行く。2時半頃、家内、家内の兄、私の弟そして私と4人で診察室に入る。最初にほぼ肺がんに間違いがないこと、この位置なら手術でとることが可能であること、ただし、そのためには、心電図と脳のMRI検査で異常がないことが前提になること等の説明があった。

「今日心電図の検査、12月6日に脳の検査をし、その結果を診て6日に最終判断をしましょう」と先生から話があった。

診察室の前の廊下で3人と別れ、私は心電図の検査に向かった。

〇12月6日(火)

午前10時過ぎに家を出て、午後一番でMRI検査を受ける。2時半頃診察室に呼ばれる。MRI検査の結果が既に先生のパソコンに入っていた。結果は異常なしである。先週受けた心電図も、とくに問題はないということで手術可能となった。14日入院、16日手術の日程が決まった。

〇12月14日(水)

入院の受付手続きを済ませ、10時半頃、病室に案内される。112病棟8号室。レントゲン検査、動脈からの採血も終わり、夕方からの先生の説明を待つ。6時頃、連絡があり、29日と同じように家内、家内の兄、私の弟と私の4人で一緒にカンファレンスルームに入る。

先生から説明があった。

「PET検査で集積があって手術をして、がんでないことも稀にですがあります。最初に3カ所を切開し胸腔鏡(内視鏡)で上葉(じょうよう)の部分切除をし、病理検査に出します。もしがんでなければ手術はそこで終了します。この場合午前中に終わると思います」

「病理検査の結果がんであれば、創を拡大し、上葉の上区の切除とリンパ節(せつ)廓清(かくせい)を追加します。この場合手術時間は2時間ほどプラスされます。がんであっても病期は、ⅠのAだと思います。胸痛がないことから、胸膜への浸潤の可能性は低いと思われます」

さらに、手術に伴う合併症について説明があった。資料を基に1時間にわたって丁寧な説明があった。

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