妻と共にがんと闘った追憶の日々

君を夏の日にたとえようか 第2回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2020年2月
更新:2020年2月

  

架矢 恭一郎さん(歯科医師)

かや きょういちろう 1984年国立大学歯学部卒。1988年同大学院口腔外科第一終了。歯学博士。米国W. Alton Jones細胞生物学研究所客員研究員。1989年国立大学歯学部付属病院医員。国立大学歯学部文部教官助手(口腔外科学第一講座)を経て、1997年Y病院勤務。1999年K歯科医院開院、現在に至る

 

 

顕と昂へ

君を夏の日にたとえようか。
 いや、君の方がずっと美しく、おだやかだ。
                ――ウィリアム・シェイクスピア

 

 

 

 

 

第二章 1次化学療法

2.診断

翌9月8日には、この地方都市では誰もがその剛腕を認める巨大病院の乳腺外科部長による生検の結果が出た。恭子と私は、2人して診察に臨んだ。運命の日――。

「左側乳がんT3、リンパ節転移と骨転移がありステージ(病期)IV。Her2陰性、エストロゲンレセプター(ER)陽性、プロゲステロンレセプター(PR)陰性、Ki67の発現が高く、活発に増殖しています」

予測を越える説明ではなかったが、私たち夫婦は息を飲んで説明に耳を傾けた。どのような山崎医師とのやり取りの結果、その言葉が出てきたのか、覚えていない。

「ステージIVでオペをすれば、私が、世間に笑われます」(山崎医師)

私たちは耳を疑った。

「インオペ(手術不能)ということですか?」(私)

「手術をしても、しなくても、結果にあまり違いがないと、現在までの私どもの経験からは、そうなっているのです」

「抗がん薬や放射線治療で、がんがどんなに小さくなっても、手術はしないのですか?」

「現在のガイドラインでは、そうなっています」

「先生、何とかして手術を受ける方法はないのですか?」

山崎医師は、落ち着き払って説明を続けた。

「ステージIVに手術を行なうことの意義を検証するために、我々は臨床試験(治験)を行なっています。決められたプロトコルの抗がん薬治療の後に、くじ引きをします。それで、手術するというくじを引き当てれば、手術ということになります」

私たちには、信じられなかった。手術をするかしないかを、くじ引きで決める。あり得ない。手術は是非して欲しいのだ。手術なしで、こんな大きながんが治るわけがないことを、私は知っていたし、恭子とて手術をしてもらえないのは、見捨てられるようなものだと思っていた。

「くじ引きだなんて……」

「それ以外に、ステージIVの症例に手術は許されません」

「許されない……? それは、法律ですか!」私は、気色ばんでつい口に出してしまった。

「法律じゃぁないけど……」

「では、是非、手術してください。お願いします、先生。なぜ、手術してもらえないのか、理解できません」

「奥さんの乳がんは、全身疾患になっているのです。糖尿病のときに薬を飲んだり、インスリンを注射するみたいに、薬が主体となります」

「もし……、もしも、抗がん薬で家内の転移巣のがんが全部消えてしまっても、手術はしないのですか?」

「しても、しなくても、結果に有意な差が明らかには認められないのです。だから、我々はきっちりとした治験をしているのです」

山崎医師の言葉に私たち夫婦は諦められ、投げ出され、見捨てられたと感じた。実は、最後の発言の直前に山崎先生は他の言葉を、――独白か私に向けてか判然としない、冷酷な言葉を吐かれたが、その言葉を、私は自分の胸のうちに封印して、その後も恭子とも話題にすることはなかった。恭子が聞き逃しているようにと、祈るばかりだった。

しかし、暫くして私は山崎先生の乳がんの治療に対する豊富な経験と造詣の深さと、英断に深く感謝することになるから、その言葉が山崎先生の本心というよりは、売り言葉に買い言葉の、実直で嘘のつけない性格から不用意に放たれた言葉だったのだと、信じ込もうとするようになった。事の真偽だけが大切なのではないのだ。

「どこに落ち度があったというんですか」

9.27 結婚記念日にプレゼントした花束を持つ恭子

「延命のみが治療なのですか?」(恭子)

「延命と、クオリティー・オブ・ライフ(QOL:生活の質)を保つことです」

「納得できません。家内のがんを絶対に治して欲しいのです。だから、手術が必要です。そうでしょ、先生? 家内はこの街では随一とされる乳がんの専門医、大御所の先生の診察をずっと受け続けてきたんです。大丈夫だと、太鼓判を押されて。もう、1年おきでいいからって……。それでも、おかしいとからと思って、半年前と、今回と、自分たちの判断でその先生のところに伺ったのです。そうしたら、いきなり山崎先生を紹介されたのです。私たちの、どこに落ち度があったっていうんですか?」

「議論が空回りしてきました。治験の説明書を渡しますから、ゆっくり検討してきてください。それから、治療に入ります」

「ゆっくり、だって! そんな馬鹿な。時間が惜しいじゃないですか。すぐ、入院させて、治療してください」

「奥さんの場合、入院の必要はありません。じっくり考えてから、治療しても結果に差はありませんから、安心して、しっかり考えてください」

「安心なんて、できる訳がないじゃないですか……」

最後は、言葉にもならなかった。

「手遅れ……ということですか?」と、恭子が感情のこもらない平板な言葉を吐いた。

診察室から追い払われるようにして、私たちは放り出された。

この瞬間から恭子と私は、2人だけで、現実と途絶した夢遊病者のような時を生きることになった。周りのことは耳には入らないし、目にも見えなかった。私たちは生き残る希望の乏しい乳がんステージⅣの患者と配偶者として、嵐の海の大きな波に押し流される木の葉のような弱々しいあての知れない人生を送ることになる。

私は途方に暮れて、藁(わら)をもすがる思いで谷本先生にメールを送って助けを請(こ)うた。「すぐに、来なさい」と言っていただいた。

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