妻と共にがんと闘った追憶の日々

君を夏の日にたとえようか 第21回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2021年9月
更新:2021年9月

  

架矢 恭一郎さん(歯科医師)

かや きょういちろう 1984年国立大学歯学部卒。1988年同大学院口腔外科第一終了。歯学博士。米国W. Alton Jones細胞生物学研究所客員研究員。1989年国立大学歯学部付属病院医員。国立大学歯学部文部教官助手(口腔外科学第一講座)を経て、1997年Y病院勤務。1999年K歯科医院開院、現在に至る

 

 

顕と昂へ

君を夏の日にたとえようか。
 いや、君の方がずっと美しく、おだやかだ。
                ――ウィリアム・シェイクスピア

恭子は何かに戻ろうとしている

朝咲いたツユクサ

恭子に家の階段を上り降りする余力がなくなってきたから、一階の和室で布団を並べて私たちは寄り添うようにして眠った。ときに、恭子を抱き寄せ、口づけをし、夜中に一度、ふらふらとタンスや壁を伝って「おしっこ」と言ってトイレに行く恭子を見守った。見守りが必要な状態だった。朝方、ふと目覚めると、恭子が息をしているかどうか顔を近づけたり、掛布団が呼吸に合わせて上下しているかじっと眺めたり、寝息に耳を傾けたり、頬に手をあてて温もりを確認したり……。ああ、生きてくれている、と安堵した。

恭子は汚いことばを口にすることがほとんどなかった。ある夜、私はおどけて恭子に言ってみた。

「恭子、この糞ジジイ! って言ってごらん」
「……、糞ジジイ」
「もっと、大きな声で!」
「この、糞ジジイ」
「そうそう、もっと大きく!」
「この、糞ジジイ! 糞ジジイ!」
「すっきりしたかい?」
「ああ、すっきりした」
「良かったね」

私は、恭子を力いっぱい抱きしめた。

恭子は午前中の留守番の間に、500cc程入るくまのプーさんの描かれた次男のマグカップで水分を摂ることを日課にしていた。タキサン系の治療のときに浮腫が出るのを嫌がった恭子が、私といっしょに頭をひねって、しっかり水分を摂ってしっかりおしっこを出すほうがいいみたいと考え出したことだ。利尿をつけるために、川田先生に相談して降圧利尿剤と投与量を決めてもらった。お茶が大好きで、薬草茶を殊の外好んだ。ハブ草茶、ドクダミ茶、枇杷の葉茶、甘茶ずる茶、プーアール茶、ゴボウ茶などなど。紅茶も好きで、フレーバーティが飲みやすそうだった。最近は、このお茶を飲んでもどすこともときにあった。

朝食はずっとトースト主体だったが、6月に入るころには、食パンが食べにくそうになってきた。パサついて飲み込みにくいのだろうと考えて、フレンチトーストにすると喜んで食べてくれた。暫くの間だったが……。それも、すぐに食べづらそうになって、おかゆに塩昆布をぱらぱらまぶしたのも好きだった。そうこうして最後に辿りついたのは「猫まんま」、ご飯にレトルトの味噌汁をぶっかけたもの。暫くはこれでいこう。

私は次第に大きな決断をせざるを得ない時期が迫っていることを感じていた。ぽつり、ぽつりと知人が訪ねてくれ、さっちゃんは相変わらず足しげく恭子の元にやって来てくれて「あそぼうね。あそぼうね」と、恭子はさっちゃんに口癖のように繰り返す。それは、ランチやショッピングをして楽しい人生の毎日を満喫しなきゃ損だからねという響きも含みながら、幼子が夕暮れ遊び疲れて家路に分かれる際に、「あしたも、あそぼうね」「さっちゃん、あっそびっましょ!」という語感のほうが強いのだ。

恭子は、何かに戻ろうとしている。本来の自分の実態に戻ろうとしているのだ。脳の高次機能が損なわれることによって、余分な思考や身の回りの雑多なものの将来の〝そなえ〟への配慮などを削ぎ落としながら、より原初の、より本来的な自分に戻ろうとしているのだ。より純粋な何かへ……。

許してください、両親や子どもたち

恭子は私1人のものではない。子どもたちを含めた私たち家族、3人だけのものでもない。勿論、親しい友人や知人のものでもあるが、何よりも、恭子を大切に大切にいとおしみ育ててくれた両親のたった1人の子ども、ひとり娘なのだ。

両親に恭子と共に親子水入らずで穏やかに過ごす時間をあげなくてはいけない。恭子の病気の進行を肌で感じてもらいながら、看病してもらい、その死を受け入れるための充分な時間もあげなくてはいけない。

それは、多くのものが損なわれ、崩されることを意味している。どこのどんな聖人君子が我が家にやって来ても同じことだ。端的に言えば、私たちの子どもたちが、母親の看病のために仕事や大学を休んで当分の間同居するということになっても同じことだ。私と恭子の2人で築いてきた、この小さな家の状況が一変することを意味している。恭子が、お皿1枚、コップ1つを並べている食器棚のなかの様子が変わってしまうことになる。恭子が洗濯物を干すために物干し竿に吊り下げているハンガーやなんかの位置が変わることになる。洗濯されたタオル1枚、下着1枚、靴下1足、ハンカチ1枚の並べ方や収め方が変わることになる。

許してください、両親や子どもたち。誤解を恐れずに言えば、両親に援けを乞うて我が家に来ていただくことは、恭子の死に立ち向かう共同の臨戦態勢を整えるということは、私と恭子が長い年月をかけて築いてきた、本当に小さな小さなマイホームの佇まいや気配や空気が一変してしまうことと同義です。言わずもがなのことを敢えていうのは、そのような決断をするということは、これから起こるであろうさまざまな些細な気まずさや不快感や小競り合いなどをすべて受け入れるということを前提にしなくてはいけないと頭で理解しているからだ。

私と恭子が共倒れにならないように、年老いた両親に生活を守る応援をお願いし、やっと生活が保たれることも充分に理解している。幸運なことに、共に80歳を超えた恭子の両親は、同年輩の老人に比べれば驚くほど壮健なのだ。有難いことだ。恵まれたことだ。恭子の両親に無理なお願いができるのだから。過酷な手伝いをお願いできるのだから。もし、それができなければ、私が医院を休診にでもして、恭子の看病に専念せざるを得ないところなのだから。それは恭子の望まないやり方だと、わかり切っている。私たちは恵まれている。感謝と諦念の気持ちがない交ぜになりながら、私は大きな決断をして、そのボタンにそろりそろりと指を伸ばそうとしていた。

恭子の両親を交えた穏やかな時間

庭にハーブのオレガノの花が咲いた

5月の声をきくころになってくると、恭子は1人で夕飯の支度をすることが難しくなってきた。昼食はその辺のありあわせで済ませても、夕飯は荷が重すぎた。無理をして1人で夕ご飯を準備したりすると、その立ち仕事が負担でもどしてしまったりした。私が昼休憩に夕飯の下ごしらえをして、恭子の調子が良ければ一緒に夕飯を作った。例えば、私が昼の間に刻んでおいた野菜や肉を炒めてくれた。恭子には辛い作業だった。「2人で夕飯を作ると楽しいね」と恭子は暢気なことを言っている。2人で作った夕飯をテーブルに並べると、「わああ、御馳走!」と言って、子どものように喜んだ。本当に食べることを大切にして、食べることの大好きな人なのだ。

時間は迫っていた。私が診療を休診にしては、恭子が悲しむのがわかっていたから。両親にこちらに来て私たちを助けて欲しいという電話をしても、恭子自身が電話を代わると、「大丈夫だから来ないでほしい」と抵抗していた恭子。そうして、ついに恭子の意思を確認しないままに私の一存で恭子の両親にSOSを送り、6月の8日に我が家に両親が到着したとき、恭子はこれまでのように両親を歓待した。恭子自身も肩の荷を下ろし、大好きな両親と一緒に過ごせることをこころから喜んでいたのだ。

この頃ちょうど恭子の嘔吐は小康を保っていたから、両親は拍子抜けしたかも知れない。恭子は横になっていることが多くても、上手に取り繕って元気そうに振舞ったから、両親には恭子の見当識の乱れがあまりわからない風だった。恭子のどこが悪くて、自分たちのような老人が助っ人に呼び出されたのだろうかといぶかしんだかも知れない。しかし、恭子の負担はずっと軽くなって、昼間私が仕事している間、親子水入らずでおしゃべりを楽しんでいるようだった。

我が家に束の間の華やぎと明るさが戻ってきた。2人で静謐に過ごしてきたときとは違った雰囲気の家庭になった。

恭子の両親が我が家にやって来てくれた日の2日前から10日ばかりは、嘔吐がなく恭子ははた目には元気そうで、どこが悪いのかという風に両親にも、見舞いに来てくれた古い知人や友人やさっちゃんでさえ思ったかも知れない。恭子は本当に上手に取り繕って、自分の見当識の混乱を表面的には感じさせなかったのだ。私には、辻褄の合わないことや冷や冷やしながら聞いていることが多かったのだけれど。それはそれで神様が与えてくださった両親と4人のいっときの穏やかな時間だったのかも知れないから、有難いことではあった。

6月11日、土曜日。近くの料亭に親子4人で夕食に行った。義父が、今夜は自分の奢りだからと初めから宣言していて、場所だけ決めておいてくれと言われていた。個室でゆっくりと食事ができた。恭子も美味しい美味しいと言いながら残さず食べてくれた。もどすこともなかった。感謝するばかり。女将や中居さんとのやり取りも、恭子はなんとかこなしていた、両親とも。

私にはちぐはぐな会話に聞こえたが、誰も気づかない風だったのも有難いことだった。両親も安心して、なぜ私がアップアップして、切羽詰まったような電話で援けを求めたのか首を傾げるような恭子の精一杯の上手な取り繕いではあった。頑張ってくれてありがとう、恭子。

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