妻と共にがんと闘った追憶の日々

君を夏の日にたとえようか 第29回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2022年5月
更新:2022年5月

  

架矢 恭一郎さん(歯科医師)

かや きょういちろう 1984年国立大学歯学部卒。1988年同大学院口腔外科第一終了。歯学博士。米国W. Alton Jones細胞生物学研究所客員研究員。1989年国立大学歯学部付属病院医員。国立大学歯学部文部教官助手(口腔外科学第一講座)を経て、1997年Y病院勤務。1999年K歯科医院開院、現在に至る

 

 

顕と昂へ

君を夏の日にたとえようか。
 いや、君の方がずっと美しく、おだやかだ。
                ――ウィリアム・シェイクスピア

第七章 エピローグ

19.恭子の魂

恭子や子どもたちなど家族とはまた違った意味で、音楽や美術や文学、とりわけ小説は私の生を支えてくれるよすがである。つまり、私は音楽や美術や小説の力というものを信じる者なのだ。

ある日本人作家がこんなんことを書いていた。「小説には悲しみや寂しさが必ずふくまれていて、それを読む人は悲しみや寂しさをもった人たちだ。悲しみや寂しさなどとは無縁だという人は小説など読む必要はない」と。

恭子の5カ月忌、1月17日の頃。運命的な出合いを感じながら前年の暮れには読み終えていた『すべての見えない光』という本の題の意味が、あるときストンと理解されて、その日を境に妖精の恭子は〝見えない光〟となった。その想いが腑に落ちて合点されたのだ。

アンソニー・ドーアの手になる『すべての見えない光』は、2015年にピュリツァー賞を受賞して、あらゆる方面からの注目と賞賛を浴び続けている作品である。主人公のひとり盲目の少女マリー・ロールは波乱万丈の人生を生き延びて老境に達し、あるとき孫と散歩に出かけて、ゲームに熱中している孫の携帯電話を出入りしている電磁波にふと思いを致す。

現在の地球上では激流のような携帯電話での会話のやり取り、テレビ番組や、Eメールなどさまざまな電波や光が、それは何億とも何十億ともつかないおびただしい天文学的な数の電磁波で、天空を飛び交っている。国境を越え、山脈を越え、大海原を越えて……。

マリー・ロールは思う。いや、アンソニー・ドーアが信じる。

「魂もそうした(電磁波の飛び交う)道を移動するのかもしれないと信じるのは、それほど難しいことだろうか」と。()内筆者付記

 中島みゆきの「この空を飛べたら」を思い出す。
 松任谷由美の「Flying Messenger」を思い出す。
 武満徹の「翼」を思い出す。

恭子の魂は大空を飛び回っている

私は、もう少し想像を逞しくする。恭子の魂は、光やエックス線のような電磁波の速度をもっているのだと思う。その速度は秒速30万km、1秒間に地球を7周半する速さだ。マリー・ロールがいうように、もちろん恭子の魂は私のジャンパーやシャツばかりではなく、脳や甲状腺や頸椎や睾丸を貫く。1秒間に7回半も。

外国にまた行きたいと言っていた恭子は、ハンガリーのブタペストやチェコのプラハやギリシャのミコノスやクロアチアのドブロブニクやフランスのニースやスペインのバルセロナなんかの上空をあっという間に通過して、見下ろしているのだ。

1秒間に7回半私のからだを貫通するということは、私たちの時間や空間の認識からすれば常に私と共にいるということと同義だ。しかも、同時に地球上のあらゆる場所にいるのだ。人間の目には、そこら中を恭子の魂が埋め尽くしているように捉えられるレベルの話になる。しかし、恭子の魂は常に高速で飛び回っている。相対性理論の世界だ。

私は恭子の魂が電磁波になっているに違いないと決めつけようとしたり、それによって現在の状況をなんとか納得しようとしている訳ではない。ことばはどうでもいい。まさに、言語道断。説けば説くほどに、空しく真実からは遠ざかってしまう。

凍てつく冬の晴れ渡った日に、眩しい太陽の陽を浴びながら、突き抜けるように高い紺碧の天空や海の向こうから湧き上がってくる雲の連なり、静かな流れを眺めていると、そこにはいつもの日常とは違った世界や空間が広がっていることが得心される。

真っ青な大空に、ぽっかりと浮いた綿菓子のような白い雲、刷毛でさっと刷いたような薄く細長い雲。もくもくと薄墨色をした雲が絡み合って怪しげな空。そうして、太陽。

雲の上から射す太陽の光が薄墨色の雲のふちを銀白色に彩っている。埋め尽くされた雲の上に太陽の影が見える。透けて見晴るかす天空の蒼は永遠のように高く高く。じっと上空を眺めていると、雲はさまざまな速さで流れている。そのような大空を、何十億という電波が飛び交っている事実に思いを馳せるとき、恭子の魂がこの同じ大空を飛び交っているという想いに疑問を抱くほうが不自然にさえ思われてくる。

私の恭子の魂はこの大空を飛び回っているのだ!

空ばかり眺めながら過ごしている

私は、空ばかり眺めながら日々を過ごしている。

とりわけ幻想的なのは西に傾いた太陽の前面に積雲があって、太陽光が積雲の縁のそこここを銀白色に燃やしているさまである。太陽の位置に近い雲の端は真っ赤に焼けた白熱電球のように力強く光り輝いている。ときおり雲間から地上に太陽の光線が斜めに射すエンジェル・ハイロゥは神々(こうごう)しい。その雲と太陽のダイナミックな光景のすき間すき間から真っ青な天空が永遠の高さで眺められ、流れる雲に上空数1,000メートルもの高みで吹く風の存在に胸がざわついてくる。この果てしない大空を何10億という意味と行先の明確な電波が飛び交っている事実に思いを致すとき、ふたたびそのような在りようで恭子の魂が飛び交っていないなどとは信じられないことに思われてくるのだ。

恭子の魂が、この果てしない大空を光速で駆け巡っているのだという想いは理屈ではなく、からだや五感でありありと実感され、にわかに真実味を帯びてくる。今現在、私が恭子の魂をそんなものとして受け止めているというだけのことだ。それだけの、個人的な想いに過ぎない。

しかし、思い出して欲しい。バシェヴィス・シンガーの文学世界を評した西先生たちのことばを。幻想や妄想こそが人の生をぐいぐい引っ張ってくれる「現実的=リアル」であり、空想の延長線上にこそ現実があるのだ!

諸賢の死についての考察

個人の不死性とは、地上であったことを記憶していて、他界へ行っても地上のことを懐かしく思い出す魂のことであると定義した上で、人間の不死性をめぐる省察は、古来からあると博学で知られたアルゼンチンの作家ボルヘスが語っている。

曰く。ソクラテスは、「魂は肉体がないほうがよりよく生きることができる。肉体は足手まといになるだけだ」と言った。

曰く。19世紀のドイツの物理学者・哲学者であるフェヒナーは、「死はやがて訪れるもう1つのより十全な生だ」と言った。

曰く。タキトゥスやゲーテは、「偉大な魂たちは肉体と共に消滅することはない」と考えた。タキトゥスは、「個人の不死性は少数者のみが受けるに値する天恵だ」と考えた。つまり、凡庸な魂とは無縁で限られた人にだけ与えられると。

曰く。ピタゴラスやプラトンは、「転生することによって人は不死性を獲得するのではないか」と考えた。仏教の輪廻転生の考え方と通じる。

般若心経でも、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。私が今ここに生きているということは生きていないということと同義で、なんの意味もない。恭子が生きていないということは、生きているということとなんら変わることのない同義である。

20世紀の哲学者であるヴラジミール・ジャンケレヴィッチは、「死は生を無意味にすることによって生に意味を与える、死は生に意味を与える無意味である」という。「死とは人間にとって説明のできない、思考不能の何かであり、だから、意識が肉体を離れて存在するということも確かではないが、肉体と共に無に帰すということも確かではない」とも言っている。

矢作直樹東京大学医学部救急医学分野教授は、『人は死なない』という著書の最後に、「寿命が来れば肉体は朽ちる、という意味では『人は死ぬ』が、霊魂は生き続ける、という意味で『人は死なない』。自分は、そのように考えている」と著されている。魂は永遠であると信じる宗教の議論を、先生はされているのではないと思う。多くの命を失う人々や、命を取り留める人々をご自身の目で見つめられた臨床医としての体験と、おびただしい数の文献を精読された結果として、辿り着かれた結論を述べられているのだと思う。

国立がん研究センター総長だった杉村隆先生の愛弟子、垣添忠生先生が奥様をがんで亡くされた体験を綴られた著書『妻を看取る日』で述べられている。「葬儀の弔辞で、しばしば『天国から見守ってください』という言葉を耳にする。自分が妻を亡くしてみると、あの言葉はその通りなのだと思う。妻がどこか上のほうから私を見守ってくれている感覚が、確かにある。こうしてさまざまな場面で妻があらわれ、一体感を感じられたことは、どんなに非科学的な話であっても、当事者には特別な意味を持っているのである」と。

日本のがん研究、がん治療の最先端を走られている医者が、非科学的な事象を自らはっきりと肯定されているのである。

さまざまな意味合いにおいて、人は不死性を備えることが可能で、死というものが人を無に帰すものではないと、私も信じている。

「がん哲学外来」を始められた樋野興夫順天堂大学教授が、「人間の一生の評価は最後の5年間をどう生きるかで決まる」と言っている。

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