第一回 闘病記大賞 佳作 受賞作品

「懲りずに夢を見ながら」

小西雄三(49) ●ドイツ バイエルン州ミュンヘン
発行:2014年4月
更新:2014年7月

  

バンド仲間の ボーカルとギター担当のデイブ(右)と

ロックギタリストを夢みてドイツに渡った青年が生活に追われるうち大腸がんに

※編集部注:原稿枚数400字×80枚の作品を編集部で8頁に要約したものです。

がんは心のアンテナを広げる好機

1987年ライブの時。Grand Funk Railroad みたいなヒッピー風にしようと、真っ赤なベルボトムで ※モノクロご容赦

1987年12月、23歳の僕は渡独し、翌年イギリスで知り合ったドイツ人女性と結婚した。それからはミュンヘンに住み、現在48歳の僕は、妻、20歳の娘、18歳の息子と暮らしている。

「がんを患う」ことがもちろん良いとは思わないが、患ったからこそわかるものもあると思う。

僕にとってがん患者という経験は、人生にプラスになった。かなり遅くなったが、人に頼らず生きたいと思ってもできない状況で、少しだけ他人との共生を理解するようになった。その上で自己を作っていくことの大切さや、人間の価値について考えるきっかけになった。

がんは確かにしんどい、いつでもしんどい。それでも楽しむことは、たとえどんな時でも、気の持ちようでできるのではないか。がんは心のアンテナを広げる好機かもしれない。今まで無視してきた感覚が、甦る時かもしれない。人生を一度諦めていた僕は、がんによって生きることの意味を思い出した。

生活に追われて

10代の頃からロックギタリストになりたかった僕は、バンドでギターさえ弾ければ幸せだった。そんな僕でも子供が生まれると、我が子には責任があるので、本当に小さな家族経営の会社で肉体労働系の仕事に励んだ。

会社は常時倒産寸前で、実際2回倒産。給料の遅配は普通で、出ない時も何度かあり、家族を養う金の心配をよくしていた。

共稼ぎの妻に相談しても「子供たちには母親が必要だから、半日以上の仕事をする気はない」とにべもなかった。

石川啄木の歌のように「働けど、働けど猶わが生活らし楽にならざり」で、じっと手を見ていても仕方ないので、ドイツではあまりしない土日出勤や、16時間労働をして、自分自身の不安から逃げるために働いた。忙しいからと食事をとらず、アルコールに依存していった。

最愛の母の死

妹を問い詰めて、母のがんの再発を知った。苦労の多い僕に、母は心配をかけたくなかったのだろう。生きることを諦めない母は、辛い治療にも耐えたが、がんはどんどん進行していった。

これ以上治療不可と聞いた僕は、2007年2月帰国し、母のもとに3週間滞在。そして8月、期限を決めずに帰国した。

僕にとって母は、会社より、僕の家族より大切だった。1週間から10日位の命と言われた母に1日中付き添った。ホスピスで4週間、痛みもなく、食事もおいしく食べ、話もたくさんして、最期の時まで過ごせた。

母はいつも僕の味方で、応援してくれ「もう充分やったんやから、無理せんで」と慰めてくれた。母は僕への最後のプレゼントとして、がんで死ぬ恐怖を取り除いてくれた。僕は死そのものよりも、それに付随する痛みや苦しみを恐れていた。子供の頃から父の家系はがん家系と教えられ、いずれ僕もがんで死ぬんだろうと思っていた。

夜、ホスピスに泊まっていると、哀しい声がしてきた。戸を閉めて眠るのが怖い人たちの声。一人ぼっちで部屋にいる不安が、痛みや苦しみを余計に感じさせるのだろう。僕も死を迎える時に一人ぼっちならどうしようと考えさせられた。

大腸がんと肝転移の告知

自宅から徒歩5分の赤十字病院

母の死後、その喪失感からだんだん鬱になり、生きるのが面倒に感じるようになっていった。

「たった10秒、目を閉じれば解放される」そんな声が何度も車の運転中に聞こえてきた。

人が恋しくて、でも心の中を見せられず、心が出血していて、精神科の治療が必要と思っても理由をつけ、何もしようとしなかった。間違ってないんだ、おかしくないんだ、と心の中で喚いていた。

体調もかなり悪くなっていき、それでも仕事を続け「今、病院に行けばすぐに入院させられ、出てこれなくなる」と言っても、誰も信じてくれなかった。

その日は、3日間続いた酷い下痢に苦しみ、体が痛くて動けず、寒くてたまらなかった。その時はもう限界だと思った。

自宅からすぐ近くの赤十字病院へ妻と歩いて行った。2008年11月の終わりだった。

39度近い熱があり、そのまま入院。点滴と検査の日々が始まった。入院3日目に、アメーバー性赤痢と診断された。酷い下痢の上、胃カメラ、腸内視鏡、CT、MRIとほぼ毎日検査していたので、日に10回以上トイレに通う毎日。ピロリ菌が見つかり、抗生物質の種類も増えて、日に2リットルも点滴する生活だった。

僕の血管は抗生物質に弱く、すぐに漏れて痛いので、早く針を刺し直して欲しいのに、この病院のルールで医師か医師見習いでないと針の挿入が許可されていない。だから夜などは1時間以上も待たされイライラした。

2週間が過ぎ、かなりの検査をこなした頃、がんではないかという気がしてきた。だから内科主任に、大腸がんと肝転移を告げられた時は、驚くというより、やっぱり、と感じた。2、3年の命と告げられても、割に平静だったので、医師はショックで理解していないと勘違いして、すぐに妻を呼びだした。

妻からは「子供たちが不幸にならないように、最後まで生きてほしい」と言われた。

病気で心が解放される

ストーマを付けると言われた時、反射的に拒否。20年以上前バイト先の大学病院で、ストーマを付けた人を見ていたので、どうせ死ぬのにあんな姿になるのは嫌だ、と思ったのだ。

しかし、最近のストーマは行動の制限はほとんどない進歩した製品になっていて、付けたほうが楽だと言われ、しんどいことが嫌いな僕は、見かけを捨てて実利をとった。これが大正解だったとわかったのは、大腸を元に戻してからだった。その頃の僕はまだ、QOLということをあまり理解していなかった。

3週間の入院中に僕は、長い間しなかった「考える」ということをした。それは、僕が死ぬ前に、何を子供たちに伝えておきたいのか、限られた時間の中で何を一番しておきたいのか、そういったことばかりだった。

もう家族のために生きなくてもいい、自殺しなくても死が勝手にやって来る。それは僕にとって解放だった。そして、これから起こるすべてを受け止める気持ちになった。もし、がんが治ればそこからの新しい人生はバラ色になる、という気持ちになってきた。体はしんどいけれども、笑顔でいられた。

30年エレキギターを弾いてきたが、アコースティックギターは弾いたことがなかったので、先ずそれを始めよう。昔のように、また絵を描こう。今まで時間がないからと諦めていたことをやろうと決めた。

会社は事実上閉鎖した。バンドも病気を機に解散。メンバーの1人は、今でも交流があり、アコースティックギターを持ってきてくれた。友達たちは、退屈しないようにギター練習を手助けしてくれ、小さなライブもした。がんになって、友達のありがたさも、よくわかった。

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