子宮頸がんステージⅢと診断され、子宮全摘手術を受けたフリーランス・パブリシストが綴る葛藤の日々

「必ずまた、戻ってくるから」 第1回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2018年4月
更新:2020年2月

  

橘 ハコ さん

たちばな はこ フリーランスのパブリシスト(広報)。1974年生まれ。大手広告代理店や老舗出版社で雑誌広告営業の経験を積んだ後、2005年、出資を受けニッチマーケティング領域の会社を立ち上げる。その分野ではパイオニアとして海外からも評判を得るも、その後より自由な立場で仕事をすることを選びフリーランスへと転身、今に至る。広報・PR、マーケティングコミュニケーションの領域でさまざまな業界の仕事を請け負う

<病歴> 2013年3月、子宮頸がんのステージⅠと診断される。転院後の詳細な検査により、右腸骨付近のリンパ節に転移が認められステージⅢと確定。同年6月に準広汎子宮全摘出術を受ける。病理検査の結果、極めて微小な膣がんも確認された。同じく7月末~9月上旬まで、放射線化学療法を実施。治療の後遺症で左脚に麻痺が残り(現在はほとんど見た目にはわからないほどに回復)、10月には1人暮らしを再開し、後遺症で日常生活も必死な状態のまま11月からフルタイムでの仕事をスタートする。

麻痺の残った左脚に極めて軽度のリンパ浮腫発症が見られ、開腹手術の影響で腸が過敏になり、サブイレウス、大腸憩室炎など腹部の疾患に度々悩まされる。2018年現在、経過観察を重ね、今のところ再発はなし


黒雲がにわかに空を覆い、冷風が立つ。

雨が来るのだ。それもすこぶる級の。

がっちゃん、がっちゃんと派手な音をさせながら雷様も大暴れ、ついさっきまで神社の夏祭りで氏子たちがお神楽を奉納していたので、私はこの雷は神様に五穀豊穣の祈りが届いたのだと心密かに確信している。

それにしても大きな雷鳴に、不慣れな私だけが1人大騒ぎで、地元では慣れっこというだけに両親は昼寝さえできるのだからなんだかばかみたいだ。

2013年6月2日、無事入院する

現在、夕食も終え消灯前に書いている。午前10時半までに入院するよう指示を受け、両親とともに病院へ到着。日曜なので看護師が休みだから、警備員に案内される。入院病棟って勝手に高層階だと思い込んでいたのだが、新館の1Fだった。

売店も近いし、なんせ方向音痴の私には優しいのがありがたい。部屋は4人部屋なのだけれど、私以外は先客がお1人らしいがまだ顔は合わせていない。

最奥の大きな窓際で明るいし、収納がたくさんできる個人スペースなので気に入る。それぞれに入院慣れした両親も「これはいい環境だ! こんなに収納できるなんて見たこともない」と無理にはしゃいでいる。すぐにパジャマにならないといけないので、手首に囚人証のリストバンドをして、もうどこへも行けない。同室の方も見え、親切にいろいろ案内してくださる。安心。

なんと手術をしたら当日はICUで1泊だそうだ! ICUってあの集中治療室だよね~? まじか!

術後、面会は5分、マスク装着の上、大人3人限定だそう。そりゃICUならしょうがないわな! 今はまあ、暇なんだけど静かで逆にリラックスしている。きょうだけだろうな、そんなのは(笑)

ではまた。(治療生活ブログ「新規事業ほぼ日記、日報」より)

がん発覚から時間に追われ怒涛のように過ぎた2カ月半後、こうして最初の治療ブログを書いた。私は治療生活を闘病と呼びたくなかった。闘病という言葉に含まれる悲壮さや壮絶さのイメージが私には負担だったし、闘うと勝ち負けが必ず発生してしまうので「そうだ、私は腐っても起業家。このがんを克服しながら生き挑戦を続けることを〝新規事業〟と呼ぼう!」と決めた。

そして、その〝新規事業〟すら自分らしさを踏襲させて、がんになって明らかに変化した人生をバージョンアップさせようと決意したのだ。

自分以外他に頼るものはない

2012年夏、男性化粧品PR戦略の打ち合わせで

子宮頸がんがわかったのは今年の春の終わり、あれから早くも晩夏を迎えた。私は住み慣れた東京を離れて、親元に身を寄せて治療生活を送っている。仕事、交友、記憶、思い出、20年間の私の人生すべてが東京にあり、最初はまるで不安だった。両親が住んでいる土地とはいえ私の生まれ故郷ではなく、知人も思い出もない場所で私の人生の物語はぷっつり途切れ、再び新しい展開を見せることはもうないのではないか、そんなうらぶれた気持ちで新しい生活を新天地で始めたのだった。

けれど、それは一時的なことだった。治療中の今も東京の家の家賃を払い、仕事も続けている。

都内の大学病院の紹介状の受取人だった担当医師にがんを宣告される前に、地元クリニックの医師の物言いで、いや、それ以前に自分自身が「がんだ」と本能的に感じたのだ。

だからがんを告知されても、「早くけりをつけたい」という思いだった。

今思うと、病というものに対しても生命に対しても非常に不遜な態度だった。

大学入学を機に親元を離れ東京での1人暮らしを始め、以来約20年を1人で暮らしてきた。狂乱のバブル時代の恩恵も知らず、「失われた10年」はやがて「失われた20年」と呼ばれ、その時期を、つまり日本経済の衰退期が青年期とピッタリと一致した私の世代は、若年の時分から既に、「自分以外に頼るものはない」という現実を知るとはなしに知っていた。

このあたりの私を語る上での、個人属性を社会的経済的背景と共に映し出すことは、マーケティング的に可能である。それが私の生業だからであるが、ここでは割愛(かつあい)する。

結果だけに着目してみると、現在の30代後半から40代前半の男女には社交的なのに孤独、共生のための努力より個人的心地よさの追求などの傾向が見られ、仕事にも消費行動にもそうした特徴が顕著である。

結局、「自分以外他に頼るものはない」という」悲壮的な思いはいつしか覚悟となり、その後の厳しい現実を生き抜いていく指標となったのだと思っている。

この病を自分のものに出来ていなかった

私は当初、がんとわかってからも徹頭徹尾この指標を踏襲していた。がんは恐るべき病(やまい)ではあるが、それは本人以外に背負うことはできなく、周囲に協力を求めたとしても最終的には自分でクリアしていかなくてはならない、と決意を固めたのだ。

初診での宣告時、医師は私の病状が早期がんであることを伝え、広汎子宮全摘出術(こうはんしきゅうぜんてきじゅつ)を強く薦めた。

実のところ、私は紹介状の宛先であるこの医師が婦人科医師として有名だったこと、また、子宮温存ではなくこの手術を薦めるということをネットリサーチして知っていたので、「この医師が薦めるのだからこれが最も適した治療なのだろう。躊躇(ちゅうちょ)している間に進行してしまっては元も子もない」と思い、医師の提案と同時にその手術を決めたのだった。

誰にも相談せず、その場で即答したことで、初診日に入院予約をし、手術に必要な検査を済ませた。その結果、朝イチに病院に到着し夕方遅くに家路を辿ることになり、がんではこれといった症状の自覚がなかったので、病院内の激しい疲労でそれこそ病気になるんじゃないか、と心配したほどだった。

帰宅してすぐ、両親に宛ててメールを書く。本当はこんな深刻な話、電話で話したほうがいいのに決っているのだけど、娘ががんになったという事実を知らされる両親のことを思うと直接話すのは気が重く躊躇(ためら)われた。それに私は治療法もすべて自分で決めてやりたかったので、電話で意見される可能性を排除したかったのだ。

メールで病気と手術の予定であること、要するに未婚で出産経験もないまま子宮を摘出することを告げ、同時に自分自身はまったく動揺もなく、医師を信頼して治療をするので安心して欲しい、と書いて送った。

こんなに動揺もなく怜悧(れいり)なまでに冴え冴えとしていたのには、少し前から気になる症状があり、検査をしてその結果が出るまで大層つらい時期を過ごしたため、診断がついたことで「もう治療するしかないじゃん」と心が決まったからでもあった。

ただ、こうして時を経て当時を振り返ると、私が本当に孤独な人間だったからだ、とも思うのだ。自分が再び元気になることも、あるいは死んでしまうことも、天と医師の手によるのだと放り投げていた気がする。この病をまだ自分のものに出来ていなかったのだ。

病気以外のことで自己を感じていたかった

次に取り掛かったのは手術を前提にしていたので入院が必要になること、また術後の社会復帰までも算段に入れた治療費と生活費の捻出について策を講じることだった。

会社員を経て数年前にフリーランスとして独立した私には有給休暇もないし、働かなかったらそれですべて終わりだった。

また、保険にも入っておらずその未熟な人生設計ぶりに親から怒られるだろうなぁとか、収入のことも心配させたくないなぁと思うと、不思議とそれらは私にとってはモチベーションになった。

たぶん、病気がわかってからの日々は、検査や何よりこの事実と直面しながらの毎日で、病気ありきの自分になってしまったことがつらかった。

だから仕事や困難な課題を通して、病気以外のことで自分としての自己を感じていたかったのだと思う。

3月の末、半年かけて準備してきたプロジェクトの発注が決まり、固定収入に加えた予算が出ることになった日の嬉しさは忘れられない。駅のホームで興奮冷めやらぬまま胸に手を当てて神様に感謝した。それはとても幸先の良いエールに感じられたからだ。

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