子宮頸がんステージⅢと診断され、子宮全摘手術を受けたフリーランス・パブリシストが綴る葛藤の日々

「必ずまた、戻ってくるから」 第4回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2018年7月
更新:2020年2月

  

橘 ハコ さん

たちばな はこ フリーランスのパブリシスト(広報)。1974年生まれ。大手広告代理店や老舗出版社で雑誌広告営業の経験を積んだ後、2005年、出資を受けニッチマーケティング領域の会社を立ち上げる。その分野ではパイオニアとして海外からも評判を得るも、その後より自由な立場で仕事をすることを選びフリーランスへと転身、今に至る。広報・PR、マーケティングコミュニケーションの領域でさまざまな業界の仕事を請け負う

<病歴> 2013年3月、子宮頸がんのステージⅠと診断される。転院後の詳細な検査により、右腸骨付近のリンパ節に転移が認められステージⅢと確定。同年6月に準広汎子宮全摘出術を受ける。病理検査の結果、極めて微小な膣がんも確認された。同じく7月末~9月上旬まで、放射線化学療法を実施。治療の後遺症で左脚に麻痺が残り(現在はほとんど見た目にはわからないほどに回復)、10月には1人暮らしを再開し、後遺症で日常生活も必死な状態のまま11月からフルタイムでの仕事をスタートする。

麻痺の残った左脚に極めて軽度のリンパ浮腫発症が見られ、開腹手術の影響で腸が過敏になり、サブイレウス、大腸憩室炎など腹部の疾患に度々悩まされる。2018年現在、経過観察を重ね、今のところ再発はなし

おしっこトレーニング始まる

ドレーン(誘導管)を抜くのはこれまたものすごく痛くて、「先生! 痛い」と先生の手に触れてしまうほどだった。この管を体に入れて、手術後から今日まで体の廃液を出していたわけ。

点滴もはずれ、背中の管もはずれ、ドレーンを抜き、最後に1週間ほど装着していたおしっこの管を抜く日がきた。

自力排尿せず、しばらくおしっこを溜めて看護師さんに捨ててもらっていたが、これからは自ら排尿する必要がある。

私はこのことを甘くみていた。管を抜く日、怯えに怯えていたのは先日のドレーンを抜いたときに痛かったからだ。

しかし、「新人なんですぅ~」と、若い看護師さんが先輩に連れられてきたときは、マジで血の気が引いた。

「まさかあなたが抜くの!?」とも聞けず、言われるがままベッドに横たわった。

が、幸い私が想像した通りにはならず、痛みなくアッサリと抜いてもらった。

朝、先生が病室にいらしておっしゃる。「さ、今日から慣れるまで少しがんばりましょう」と。

そしてこの日から私の「排尿プロジェクト」、もとい「おしっこトレーニング」が始まった。

激痛は和らいできて、痛みがある時間帯はぐっと減ってきたのだけど、私のおしっこに左右される生活が始まって、今までで一番落ち込んだ日々が続いていくことになる。

自力排尿という壁

基本的には好きなときにおしっこに行ってもいいんですが、最初は、10時~、14時~、18時~、22時~、2時~、6時~と4時間ごとに自分で採尿数値を申告し、エコーで膀胱内の残尿の量を測定してもらうのだ。

このとき残量が200㏄を超えていると、管を入れて出してもらわないといけない。だから出来るだけ出し直しに行き、自分で排尿するようにしている。管を抜いた最初の頃は、排尿を軽く考えていた。

尿意があるのでトイレに行くのだが、普通にしゃがんで力んでみても尿は出てこない。時間をかけ、腹圧で無理やり押し出すようにしないと排尿できないことに衝撃を受けた。尿意すらほとんど感じず、残尿感もわからないのだった。

それでも最初に自力で尿が出たことを報告すると皆に一様に喜ばれ、なかにはうんともすんともなくて、何も出ない人もいるんだと知らされる。だけどエコーで尿の残量を量ると200㏄近く残っていたことがわかり、自分では出し切ったと思っていただけに衝撃を受けた。

それからの私のおしっこトレーニングは、生真面目な性格が災いしてさらに過酷になっていく。いやー、こんな内容を書けるまでに振り返れるようになった今にマジに安心しています。

初日、翌日の体験は2度としたくない地獄のような体験だった。ちなみにこの手術での排尿障害は数日で改善する人もいれば、一生治らない人もいるそうで、人それぞれなんだそうだ。

私は何度も先生や看護師さんに尋ねたのだが、私ぐらい無理やりにでも排尿されていればそんなに悲観しなくてもいいと言われるのだが、それはつらいものだった。

トイレで泣く日々

さて、排尿日記です。記録を取り始めたのは6月10日から。

つまりこの日、管を抜いた。14時の自己排尿、107ml。エコー残量、194ml。200mlまでギリギリでやり直しを命じられる。でも本人に残尿感がないので、再びトイレの個室に戻るもののおしっこなんかどんなに力んでも出そうもない。でも、私の脳裏を過(よぎ)るのはとても痛いとウワサされる管を尿道に入れられ、排尿させられることの想像だ。

脂汗を流しながらトイレの個室で奮闘、文字通り搾りだすようにしておしっこを計量カップに集める作業を延々とする。たらたらたら……と、そういう感じで滲み出るまでひたすら待つのだが本当にキツイ。なにせ手術の傷でお腹が痛いので、座り続ける姿勢と腹圧をかけて搾りだす作業で痛みに拍車をかける。

数時間、少しずつ同じことを繰り返し18時のチェックタイムになる。自己排尿87ml。キケンな気もするが、残尿感がないから「こんなこともあるのか」と高をくくっていると、エコー残尿が248ml。

看護師さんが真剣な表情になって出直し命令が下される。これを22時、深夜2時、明けて6時、10時と続けていく。

ちなみに深夜は寝ているときまでやらなくていいと言われたものの、膀胱に必要以上に溜めることが恐ろしくて、決まりどおりにトイレに通った。

「神様、膀胱様、いままで本当にすみませんでした。当たり前だと思って感謝もしたことはありませんでした。私の膀胱さん、つらいよね。こんなに無理をさせてごめんよ。私の身体を総動員してあなたを助けるよ。だからがんばっていこう!」

馬鹿みたいにだけど、真剣にトイレで毎回、膀胱と自分の身体にそう訴えていた。時折、あまりにどうにもならない事態に「もういやだ、なんでこんなことになっちゃったんだ。出来ない、出来ない、こんなこともう出来ない!」、と投げやりになって涙することもあった。

両親にもこのイライラをぶつけたりして申し訳なかったが、このときにはこのイライラを吐き出すことが必要だった。慰めも励ましもいらないからただ聞いてくれるだけでよかったんだけど、変な励まし方をされて頭に来てしまったこともあった。

腹圧をかけるのがしんどくて泣いた。

障害の恐ろしさに泣いた。

比較する前の人生があったことに泣いた。

激しい痛みに泣いた。

何もかもいやになって泣いた。

だけど大抵おしっこと同じくタラタラタランと、涙ひと筋こぼせば気が済んだ。自分を憐れむ涙だけはよくないとわかっていたので、どんなときも一瞬泣いてすぐ自分を取り戻すことが出来るよう努力していた。

やがて小さな変化も起きてきた。自己排尿量がある程度まとまってきたのだ。とは言っても搾り出すのに変わりはないんだけど。

「これは尿意?」

「ん? もしやちょっと残尿感?」

みたいな、すごく微(かす)かな感覚が感じられ始めてきた。

毎朝、排尿のために起床し、トイレを目指すも30分も個室に籠れば目が覚めていく。そういう日常。(治療ブログ『新規事業ほぼ日記、または日報』より)

病院の6Fにある屋上庭園にはリハビリのつもりで時間をかけ階段を歩いてのぼった

思考ではなく「身体の声」に従うということ

今こうして振り返ることが出来る時間の経過に、畏敬の念すら感じる不思議。あのときは、時間が最も苦しい状態でストップしているかのようだった。

この間にも自分たちの生活に加えて私の見舞いで疲れ果てている両親がいて、サバイバーの友人Iさんからは「目の前の症状に捕らわれることなく、未来に希望を持って」とがん経験者ならではの、厳しくも暖かいエールに日々励まされた。

けれど、今は誰の励ましにも応えたくないと思う自分がいることに気がついた。それは私の中で、無理やり「こうあるべきだ」と結論を出すことを今回ばかりは止めたかった。

身体に苦しめられている。ならば身体の声を思いっきり聞こうではないか、そういう心境だったのだ。

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