脳腫瘍を傍らにした元看護婦の心のカルテ
オルゴールがおわるまで 最終回
残間昭彦さん(スウェーデンログハウス株式会社代表取締役)
待望の書籍化決定
2020年7月発売 <幻冬舎刊>
題名:ありがとうをもういちど
副題:〜 去りゆく母の心象風景 〜
● 残間昭彦 著
● 単行本(四六版 / 300頁)
● 1,200円(税抜)
https://www.sweden-loghouse.com/event/5110.html
母の最後の教訓
昔からずっと思っていたことがある。いつか、死ぬ時は夏の終わりの夕暮れがいいと。 西陽のさすベランダに置いた椅子にもたれ、蜩(ひぐらし)の音(ね)を聴きながら静かに息を吐き目を閉じる。
病院のベッドで息を引き取った母はどうだったのだろう。おそらく母も、その時のことを想像くらいはしていたのに違いない。そして、それはきっと、澄みきった秋晴れの空へ、静かに吸い込まれるように昇っていきたいと願っていたような気がする。
その想いのとおり、母は目蓋に眩しい青空を感じながら逝った。そう、死ぬなら今、今日しかないと念じたのだ。
ただ、一つだけ私には悔いが残った。
それは、母が息を閉じる瞬間を見届けることが叶わなかったこと。その日の午後、赤木師長から電話があった。午前中は何ともなかったのに急に容態が悪化した……、と。
それが13時17分と、病院の記録にある。取るものも取りあえず私は母の元へ向かった。だが、どうしてだか、途中でガソリンを入れにスタンドに寄っている。
一昨日から点灯していた燃料燈が気になったせいもあるが、何より、昨日まで全くその兆候を見せていなかった母が、まさか……、という安易な気持ちが無かったとは言えない。
その、わずか数分のために、私は母に声をかけることを許されなかったのだ。
つまり、これは母が私に与えた最後の教訓にほかならないと思う。
「こら、のんき坊主」
17年前のある朝、とつぜん母から電話があり、具合が悪いから病院に連れていってくれと言われたことがあった。
その時の私も、仕事の段取りを済ませ、少し遅れて母の家に行った。前に脳梗塞をしている母は、「具合が悪いと言った時は常に緊急だと思いなさい……」と、のんびり屋の私を叱った。
それに、常々「ガソリンはいつも満タンにしておかなくちゃだめ。いつ何があるかわからないんだから……」というのも、心配性の母の口癖であり、時間にせよ何にせよ、何事もゆとりを持たせない私の性分を呆れていた。
きっと、永く勤めた看護婦という職業柄によるものなのだろうか。それだから、病院の玄関まで辿り着いた私の足音を聞いて、「こら、のんき坊主……」と、苦笑いをし、早々と逝ったのだ。
もし間に合えば、一瞬でも目を開け、私を見てくれたかも知れない。きっと母もそうしたかっただろう。「お母さん、最後に一目、顔を見せてあげられ なくてごめんね……」
親子の間柄で、〝 ありがとう 〟〝 ごめん 〟は水くさい……、そう思っていた私だが、遅ればせながら深謝……。
親の死に目に会えるとか会えないと言うけれど、心底それを望むのは、生前の親のほうであろうかと思う。この世の最後に見るべきものは、自分が生きた証しである子供の姿であり、それを目に焼き付けて死門へ向いたいと念望(ねんもう)するはずだから。
吾れ母の 腹を破りて
産まれしや
昇る白煙(魂) 吾が肉と宿らん
私はいつも話しかける
母は、自分が死んだら声をかけてね……と、言った。言われたとおり、私はいつも母へ話しかける。 とりわけ、車を運転する私の左後ろの席には、いつも母が座っているような錯覚を感じる時が間々ある。見えずとも、語らずとも、確かに母はそこにいる……。
いつか、個人的に親交を得た或る老人が言った……。
「〝死〟は最後ではなく、それは〝無〟になることではない。大切な人とは必ずまたどこかで再会するし、途上の計画はきっと達成されるでしょう……」
その方は神経内科を専門とする医師であり、かつては大学の医学部で教鞭をとっておられた教育者でもある。世界中の全ての医者は、生きるための医療と学問をする。
しかし、その人は「死ぬための学問」が大事だと説く。それにより、生きる充実感が違ってくるのだと。
とくにドイツでは、小学校のときから「死への準備教育」というものを施すらしく、〝死〟について学ぶことにより〝生きる〟ことの尊さを識り、〝命〟の大切さがわかるのだそうである。
「亡くなられたあなたのお母さまの命も次の命に引き継がれ、おそらく、前生で近しい関係にあったあなたの所に現れるかもしれませんよ。例えば、あなたの子供になって……」と、その人は真顔で言った。
「つまり〝輪廻転生(りんねてんしょう)〟のことですか……」と、尋ねると、輪廻転生は既に科学的に証明されつつあるのだと言う。
いつまでも、覚えていてあげたい
昔、私が高校生のとき、『カルマの法則』五島勉著[生命の生まれ変わりや阿頼耶識(あらやしき)などについて書かれたもの]という本が仲間うちで流行った。
『ノストラダムスの大予言』の著者でもあるその作家は、後に〝人心を惑わすオカルト〟だとペテン師のごとく揶揄(やゆ)されたが、そのようなものが、今では(とくに欧米において)医者や識者の間で否定しえない事実と言われるようになっているとは、驚くよりない。
論説の真偽を確かめる術は無論にして私の手にはない。
けれど、人は皆の記憶から消えて忘れられたとき、二度目の死を迎える……と、言われるように、 いつまでも、いつでも、母のことを思い出し、覚えていてあげたいと思う。
幼い日に聴いた童謡や子守唄のような本をつくりたい……。
そんな想いで書き進めてきた母の手記を終え、今ようやく筆を置くに至りました。
母親との思い出や故郷の記憶は皆なさまざまで違っていても、あの懐かしい歌に触れるとき、不思議と誰もが同じ情景と郷愁を心に見ることが出来ます。
そんなふうに、このささやかな物語が、誰かの心を慰め励ますことを願っています。(完)