妻と共にがんと闘った追憶の日々
君を夏の日にたとえようか 第3回
架矢 恭一郎さん(歯科医師)
顕と昂へ
君を夏の日にたとえようか。
いや、君の方がずっと美しく、おだやかだ。
――ウィリアム・シェイクスピア
第二章 1次化学療法
3.治療:FEC療法
そのころの私は、不安な気持ちに駆られて頻繁に恭子のからだを求めた、毎晩のように。
「これじゃあ、からだがもたないじゃないの」と、恭子が音をあげた。
「大丈夫よ、パパ。私そう簡単には死んだりしないから。私ね、死なないような気がするのよ」と、笑いながら恭子が言った。
私のなかに恭子の病の予後(よご)を不安に思っている気持ちがあって、それを恭子に悟られてしまっている自分が情けなかった。もっと、でんと構えていなくては。恭子になだめられているようではダメだ。
その巨大病院に紹介状を持って最初に訪れたのが2014年8月の末。9月に入って2度ばかり同じような説明を受け、「ゆっくり考えなさい」と突き放された。あれやこれやと検査づくめで困憊しながら、ジリジリと待たされた。
治験への参加を散々迷って、やっと治験には参加しないという結論を夫婦で下し、恭子が診察に行った9月16日、山崎先生は態度を豹変させた。
「明日から抗がん薬の治療を始める」と、恭子にいきなり切り出したのだ、きっぱりと。恭子の乳房のがんの進行が急速だから、もうぼやぼやできない。十分に考える時間は与えたのだから、ホルモン療法をのんびりやっている場合ではない。そんなふうに考えられたのではないかと、私は勝手に推測した。
Dana-Farberのドクターの意見交換について、山崎先生は「ご主人のお気持ちは非常によく理解できるが、アメリカと日本では医療保険の環境が違い過ぎるのでねえ」と言われて、首を縦には振ってもらえなかった。
Dana-Farberのドクターは自分が女性だからというので議論しにくいのなら、男性医師を紹介してもいいとまで言ってくれたのだが……。米国の専門医のメールの文面からは〝積極的な治療をするのか?〟と疑問を呈するような印象が伝わってきたが、そのことについて深く斟酌(しんしゃく)する知識も精神的余裕もそのときの私にはなかった。
谷本先生から紹介を受けた東京の国立がん研究センター中央病院の乳がん化学療法で著名な医師の名前を挙げて、「セカンドオピニオンを聞いてみたいのですが」と、山崎先生に相談すると、1も2もなく同意して、「資料を作成するから、なるべく早くセカンドオピニオンを聞いてきなさい」と言ってもらえた。
FEC療法を選択
2014年9月の時点で、『乳がん診療ガイドライン』においてher2陰性の再発・転移乳がんの1次化学療法として推奨されている抗がん薬は、アンスラサイクリン系とタキサン系の2つだった。山崎先生はアンスラサイクリン系を主とする多剤併用療法のうちで、FEC療法を選択された。5-FU(一般名フルオロウラシル)、ファルモルビシン(同エピルビシン)、エンドキサン(同シクロホスファミド)の3つの薬剤を3週間ごとに点滴するレジメンを示された。病院から渡された説明書にも「現在もっとも普及している化学療法の1つであり、副作用も相当強いかわりにその治療効果も強力といわれています」とあった。
何百症例もの乳がんの治療に携わってこられた山崎先生が、一番効果が期待できると考えられての選択だと思った。アンスラサイクリン系の真っ赤な点滴は、私も骨肉腫の患者に用いた経験があった。強い吐き気と脱毛が印象に残っていた。恭子にウィッグを買ってあげなくてはならないと思った。
Dana-Farberのドクターは、FEC療法は副作用が強すぎるのでアメリカではあまり行われなくなっているという見解を示された。私にはその意味が十分には理解できていなかった。
FEC療法と同時にビスホスホネート薬が点滴投与される。骨粗鬆症にも使われる破骨細胞の働きを抑制する薬剤だ。骨転移している乳がん細胞自身では周囲の骨を溶かすことはできないから、がん細胞は破骨細胞に働きかけて周囲の骨を溶かし増殖できるスペースを確保して増大していく。その破骨細胞の働きを止めればがんは兵糧攻めのようになって、骨内で増殖できなくなるのだ。
FEC療法の最大の副作用は嘔吐
9月17日から11月26日までに4クールのFEC療法が恭子に施された。外来通院による点滴。最大の副作用は嘔吐(おうと)だった。
FEC療法の初日、嘔吐は激烈だった。看護師から吐き気が強い抗がん薬だからという説明は受けていたが、恐ろしさを知らない恭子は、昼食に病院でおにぎりを食べた。
その日は水曜日、私が午後2時に診療を終えて、恭子を迎えに行った。恭子が留まることのない嘔吐に襲われた現場を、私は、傍で見守るしかなかった。「ウッ」と言ったかと思うと、心配する私が何か言おうとするのをもどかしげに制しながら、恭子はトイレに駆け込んだ。激しく嘔吐するのを聞きながら、私はトイレのドアの外でなすすべもなく茫然と立ち尽くしていた。
何かを口に入れたらすぐに嘔吐するということを、私たちはすぐに学習した。制吐剤を飲む水ですら嘔吐が誘発されるのだから、どうやって水分をからだに補給すべきか私は考えた。その嘔吐の激しさを、恭子は唾液すら飲みこむことができない、緑色の胆汁までが吐き出されると表現した。恭子は吐いた後、冷静で比較的落ち着いてくれていたから、それは大きな救いであった。
「飲み薬は30分くらいしたらからだに吸収されて、嘔吐が起こっても薬はからだに入っているよ」という私の言葉に従って、恭子は嘔気(おうき)の波の治まった頃合いを捉えて、素早く最小限の水で薬を飲んだ。それから、じっと嘔気の波に呼吸を合わせるかのように、30分間を必死に堪えていた。何も口に入れることはできない。薬がやっとだ。
点滴して水分を補給するしかないと考えた私は、診療所から点滴の準備をして持ち帰り、その夜はブドウ糖液500㏄を点滴した。普通の翼状針という金属の針を静脈に刺して点滴。このくらいの水分を入れれば今日のところは大丈夫だと、FEC療法の副作用の経過など何も知らぬ私は抜針をした。第1日目に4、5回もどした。
ひどい嘔吐に点滴で水分を補給する
副作用――主には嘔吐なのだろう――を、抑えるためのステロイド剤と制吐剤のグラニセトロンがどのくらい有効に作用してくれているのかはさっぱりわからない。これで効いているとすれば、不十分としか言いようがない。
不幸中の幸いは、どうにか飲んだ精神安定剤と胃薬が効いて、夜は嘔吐せず眠ってくれたことだ。不思議なことだった。神の差配? FEC療法を水曜日に行うと、飲まず食わずは、きっかり3日間続いた。2日目に4回、3日目には2回ほど嘔吐があった。
工夫や反省をする恭子は、「少し食べてもどしたあとに薬を飲むとよい」と闘病記録に書いている。
仕事に出る前と、昼休みと、夕飯時の3回で、1,500㏄の生理的食塩水と3号維持液を補液した。恭子の右手の血管の表の皮膚はすぐに刺し傷だらけになった。金属の針を刺したままではトイレに吐きに行くにも不自由で、私は点滴のたびに抜針を繰り返した。恭子はすぐに音をあげてしまった。私が緊張のあまり針を刺すのに失敗したりすると、「もう点滴は嫌だ」と言った。無知な私は、1クール目のFEC療法で恭子が食べられないあいだ中、翼状針の刺入と抜針を繰り返して点滴を続けたのだ。
抗がん薬投与から4日後の日曜の夕食に近くの蕎麦屋に行くことが恭子へのご褒美、私たちの決まりごとになった。恭子は食べられることの嬉しさを素直に口にした。「美味しい、美味しい。有難い」と言いながら蕎麦をすすった。