妻と共にがんと闘った追憶の日々

君を夏の日にたとえようか 第16回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2021年4月
更新:2021年4月

  

架矢 恭一郎さん(歯科医師)

かや きょういちろう 1984年国立大学歯学部卒。1988年同大学院口腔外科第一終了。歯学博士。米国W. Alton Jones細胞生物学研究所客員研究員。1989年国立大学歯学部付属病院医員。国立大学歯学部文部教官助手(口腔外科学第一講座)を経て、1997年Y病院勤務。1999年K歯科医院開院、現在に至る

 

 

顕と昂へ

君を夏の日にたとえようか。
 いや、君の方がずっと美しく、おだやかだ。
                ――ウィリアム・シェイクスピア

「遅すぎる」というのが正直な気持ち

2016年2月23日。救急隊員は、靴の上に透明なビニールの大きな靴下のようなものを履きながら、恭子のいる居間に上がり込んできた。

「わかりますか?」と隊員が尋ねると、恭子は「はい、すいません」と答えた。私は少し驚いた。正気を保っている。

「乳がんの脳転移による水頭症をおこしています。脳圧亢進による失禁と嘔吐です」

私が説明すると、隊員が私の顔を覗き込んだ。

「K歯科医院の架矢です」

「ああ、架矢先生ですか。お世話になります」

救急車に乗り込んでしまえば、まな板の上の鯉だ。血圧、脈拍、酸素飽和度、バイタルはすべて安定していた。恭子の嘔吐も救急車の中では落ち着いていて、隊員の呼びかけに、冷静と思えるような受け答えをしていた。隊員は病院の救急外来と連絡を取りながら、「あと20分ほどで、そちらに到着します」と言っている。そんなに飛ばしているわけでもない安全な速度で、私が急いでも3、40分はかかる距離を20分で走り切れるのだろうかと、私は内心訝(いぶか)っていたが、信号でも渋滞でも止まらずに走るということは凄いことだ。きっちり20分で救急車は病院の見慣れない救急搬送口に到着した。

救急外来で、恭子の激しい嘔吐が再び始まった。そこは、野戦病院の様相を呈していた。なぜと言って、ストレッチャーに寝かされたまま嘔吐する恭子の口元に吐瀉物を受けるビニール袋をあてがっていたのは、私と長男だったのだから。ビニールを跳ね除けようとする恭子に「この中に吐いていいんだよ」と、2人で繰り返し言い諭した。

静脈を確保するのが大変な騒ぎだった。恭子の認知能力は、3、4歳の幼児のようだった。優し気な医者らしき若者が、不安げな、あるいは気の毒気そうな顔色を隠そうともせず、「これから静脈に針を刺して血管を確保し、吐き気止めを注射しますのでご家族の方は外で待っていてください」という。これが脳神経外科の主治医となる三島先生との初対面だった。

出ていくから、この嘔吐物を受ける役割を誰か代わってくれないか、と私は内心その外来の医療体制が不安なものに思えた。私たちが退室しようとすると、三島先生が吐き気止めを準備するように看護師に薬剤を指示するのが聞こえた。そんな、やわな制吐剤ではなくて、なんで脳圧を下げるための投薬をしてくれないのかと、私は内心イラついていた。

「止めて―! なんで、そんな痛いことするの? ねえ、痛いじゃないの。なんでそんな意地悪するの? 止めてよ」と、恭子が幼子のように大声で、泣き叫んでいるのが家族控室まで聞こえてくる。

小1時間して、やっと恭子が救命救急センターに移されることの説明が、三島医師からあった。私は、少しほっとした。これで、本腰を入れて恭子に対応してくれるのだという思いがあったからだ。

救命救急センターでの主治医も三島先生だった。脳圧を下げる点滴が始まって暫くして、やっと、恭子の嘔吐が治まってきた。恭子は依然として幼児のままだったけれど……。

夕方になって、三島先生から明日、24日にV-Pシャント手術を行う旨の説明があった。ようやく辿りつけたか、という思いが正直な感想だった。

谷本先生からその手術の必要性の説明が我々にあったとき。つまり先週の金曜日、恭子にはまだ認知機能のこれほどの低下は認められていなかった。それから、5日かかって、恭子が赤子のようになって便を漏らし、激しく嘔吐するまで、手術には辿りつけなかったのだ。「遅すぎる」というのが私の正直な気持ちだった。

三島先生に丁重に頭を下げて、よろしくお願いしますと私は謝意を表した。

横浜にいる次男に電話で知らせたときに、「君は就職活動で大切な時期だから、自分がやるべきことを横浜にいて続けるように」と言った。恭子ならそう言うに違いないと思ったからだ。それに、谷本先生がすでに診断と治療方針をきちんと示してくれているから、次男を横浜に残す余裕があったのだ。次男は、素直に聞き入れてくれて、「こちらはこちらでやるべきことに全力を尽くします」と言ってくれた。

2月のスイセン

それから、合唱団の高嶋先生に事の顛末を告げる電話を入れた。恭子はこれまで何でも両親の心配するようなことは隠し通してきたけれど、高嶋先生は「これは他人の僕ではなく、ご家族で決めることだけれど、手術だから、何かあった後では大変な後悔をするような気が僕はしますね」と、慎重にことばを選びながらアドバイスしてくださった。そのうえ、先生はできる限りの伝手(つて)を使ってよろしくお願いしますと、病院のドクター連に声を掛けてくれていたことが後日わかった。

感謝の気持ちより対応の遅さに腹が立つ

2016年2月25日。V-P手術の翌日の恭子

恭子の両親が四国から病院に駆けつけたのは、翌日の夕刻。恭子のV-Pシャント術が終わった後のことであった。恭子の言うことが少し妙な感じがするくらいにしか両親が思わないほどに、手術によって恭子の高次脳機能障害は急速に回復していた。

手術前の状態を両親が知らなくてよかったと、私は心底思った。手術が成功したということだ。家族はほっとしていたが、V-Pシャント術は緊急に脳圧を下げるために、頭蓋内のがん細胞を腹腔内に垂れ流しにすることになることは、三島先生に説明してもらう前からわかっていたから、私は手放しで喜ぶことはできなかった。

しかし、突然に訪れる死から、恭子がいっときとはいえ生の方向に大きく引き戻されたことだけは確かなことであった。

「この先生が命を救ってくださったんだよ」と、私は恭子に説明した。

脳圧が上がり過ぎて延髄の呼吸中枢が損傷を受けて呼吸が突然停止しなくてよかった。脳ヘルニアになって一巻の終わりにならなくてよかった。手遅れにならなくてよかった。高嶋先生にご示唆いただいたように、両親を呼び寄せてよかった。しかも、元気な姿を見せられてよかった。長男に応援を頼んで、それに機敏に対応してくれてよかった。恭子が命拾いしてくれてよかった。

横浜の次男は、手術が予定通り終わった報告を喜び安心してくれた。そのうえで、LINEでのメール。「おじいちゃんたちにこれまで心配を掛けないように知らせなかったことを、今回の手術について説明する際に部分的にせよ知らせる必要が生じると思います。おじいちゃんたちに知らせないということは、家族で決めたことですから、僕らは常にパパの味方です。困難な作業ですが頑張ってください。そして、少しでも疲れたら僕らに何でも吐き出してください。今週は大変なことが次々に起こって消耗しているでしょうから、ゆっくり休んでください」

水頭症の発生機序について、脳外科の見解と谷本先生のそれは違っていた。谷本先生は脳室の圧が上昇したのは、小脳病変が原因となってルシュカ、マジャンディ孔の閉塞が起こりクモ膜下腔への脳脊髄液の流れが遮断された非交通性の水頭症を示唆された。

一方、脳外科のグループはクモ膜下腔での脳脊髄液の吸収不全による交通性の水頭症と考えていた。髄膜播種(ずいまくはしゅ)がクモ膜下腔へも大きく広がっているという診かただと思う。

谷本先生の解釈では、髄膜播種がテント下の小脳周辺に限局している可能性があると私は理解した。髄膜播種の広がりが限局していてほしかった。結果的には、両者の解釈の違いが恭子の運命を大きく左右するものではなかったのかも知れないが……。

「脳室内にチューブを挿入すると、脳脊髄液が噴出してくるほど脳圧が上がっていた」と、オペの結果を三島先生が説明された。脳ヘルニアにでもなっていれば、恭子はとっくにこの世にはいなかったろう。薄氷を踏むようなタイミングで手術がなされたのだと私は感じて、感謝の気持ちよりは、むしろ対応の遅さに腹が立った。

大病院の対応の鈍重さは、患者が押し掛けすぎることが一番の原因だとは頭ではわかっていても、やはり腹立たしかったのは偽らざる気持ちであった。

「オペのときに採取した脳脊髄液中に認められた細胞数は正常範囲だった」という検査結果を三島先生が説明された。長男と目で合図しながら喜んだ。希望はまだある。ただし、細胞の性格は、つまり「悪性細胞かどうかの結果はまだ出ていない」と先生はつけ足した。

三島先生独特の深刻そうな、悩まし気な様子はいつも通りだった。もし仮に細胞が悪性であっても細胞数が少ないということは、頭蓋内でがんが暴れまわるまでの時間の余裕があるかも知れないという、すがるような思いがあった。転移性脳腫瘍の悪性細胞の多寡が、臨床的にどれほどの意味合いを持つのかは、実際は知る由もなかった。そのことを三島先生に尋ねる勇気もなかったが。

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