妻と共にがんと闘った追憶の日々
君を夏の日にたとえようか 第18回
架矢 恭一郎さん(歯科医師)
顕と昂へ
君を夏の日にたとえようか。
いや、君の方がずっと美しく、おだやかだ。
――ウィリアム・シェイクスピア
「なんてひどい言い方をするんだろう」
2016年3月30日。V-Pシャント術をしてくれた脳外科の三島先生は、この日のアポイントに恭子が生きている可能性は低いかも知れないと思いながら、約束の日を決められたような気がしていた。歩くことこそ不自由であるが、ちゃんと高次脳機能を保ち、よく食べ、よく眠れて、これまでどおり朗らかな恭子を見て、先生も驚きと共に喜んでくれると期待して、恭子と私は脳神経外科外来を受診した。
ところが、残念なことに三島先生は手術に入られていて、代診の先生による診察だった。部屋に入るなり「三島先生がおられなくて残念でしょうが」と切り出した。私は、その第一声にやや違和感を覚えた。一通り恭子の様子を尋ねながら、パソコンに打ち込んで私たちの顔はろくに見ようともしなかった。
「どのくらいで、もう少し歩けるようになりますでしょうか?」と私が質問すると、先生はこちらを向いて、「どういう意味ですか?」と言われる。「あの、もう少ししっかり歩けるようになるのには時間がかかるのでしょうか?」
その先生はなかば馬鹿にしたような、あきれたような顔をされて、「今回の手術は大成功ですよ。いま以上に良くなることはありません。これだけお元気なら御の字ですよ。もし、今後シャントにトラブルが発生して、もう一度脳圧が上がったら、心臓は動いていても、呼吸が突然止まるでしょうね」と突き放したように言われた。
私は、腹が立った。辛抱した。患者の目の前で死の危険性について触れようとは、それもどのくらいの頻度や、可能性があるのかなどまったく説明もなく。私たちは、シャントのトラブルに怯(おび)えながら暮らさねばならなくなってしまった。トラブルは高い確率で発生するのだろうか、とビクビクしながら……。
帰りの車の中で、私が「なんてひどい言い方をするんだろう」というと、恭子は事もなげに「わかりやすくていいじゃないの」と言ってのけた。
「悔しいから頑張ってやろうと思ったわ」
夜、恭子は「これ以上良くならないというんだったら、悔しいから頑張ってやってやろうと思ったわ」と語った。「リハビリをよく頑張ったと言われたら嬉しいから、頑張ってみせる」とも。「日々、少しずつ努力すれば、今よりは少しは良くなるだろう。やる気が出た」と。
強い人だ。前向きな人だと思った。私など足元にも及ばない強靭で健やかな精神と、底知れぬ何かをもった人だと心底思った。
4月2日、土曜日。恭子の余命が1カ月と宣告されてからちょうど1カ月目。私の57回目の誕生日だった。朝からすっきりと晴れわたって絶好の花見日和。家の近くにある素敵なドイツ菓子屋は2人のお気に入りの店だ。高台にあるから見事な桜の木数本の頂をすぐ目の前に眺められる。桜の木を上から見下ろすことは、そうざらにはない。
午後、恭子は念願のパフェを、私はケーキとコーヒーで、のんびりと桜の花見を満喫した。恭子にはこれが最後の花見になるのだろうと思いながら、私は2人で花見できる幸せを感じていた。恭子ありがとうと感謝しながら。お日様は暖かく、風はかぐわしい。
スーパーで買い物をして帰ると、恭子は眠くてたまらないと昼寝をした。夕食は2人で作って食べた。「2人で、食事の準備をするのは楽しいね」と恭子は喜んでくれた。夜、「下痢っぽくて、おなかすっきり」と恭子が嬉しそうにいう。
眠気が比較的落ち着いてきたというが、それでも朝と昼、1時間ずつ眠ったらしい。眠気の度合いが私の感覚とは大きく違うのだろうと、可哀想になる。さっちゃんが柏餅を持って来てくれたそうな。病院の事務仕事も家でしてくれた。
「カレーが食べたくなって、急にカレーとサラダ。おいしい! のんびり」(恭子の闘病記録)
そのカレーの残りは冷凍してあって、恭子が生を全うした後も、私に何度も食べさせてくれることになる、恭子の最後のカレーだ。
免疫チェックポイント阻害薬の治療をやるための壁
そのころ、私は専門の臨床現場の常識など全くわからないずぶの素人でありながら、脳神経外科の三島先生と、大変に僭越で礼を失した手紙のやり取りをしていた。先生は、こちらが恐縮するほど真摯に返事を返しくれた。それは、V-Pシャントのリザーバーから恭子の頭蓋内で暴れているがん細胞を採取して、乳がん細胞のサブタイプを確認してもらえないかというものだった。恭子の原発巣のサブタイプはHER2陰性、プロゲステロン(PR)陰性、エストロゲン(ER)陽性。
再発時のサブタイプはすべて陰性のトリプルネガティブだった。脳内のがん細胞が万が一にもHER2陽性のものであれば、脳内のがん細胞にも効果のある分子標的薬が期待できると考えたのだ。
それとは別に彗星のごとく現れた最新の伝家の宝刀、最後の切り札のような免疫チェックポイント阻害薬があった。その病院の乳がん患者にも治験が始まっていた。しかし、一昨年甲状腺がんの手術をしている恭子の場合、手術から5年経過しなければ甲状腺がんが完治したとはみなされず、乳がんと甲状腺がんの重複がん患者というレッテルが貼られる。重複がん患者は免疫チェックポイント阻害薬の治験の対象外だった。
民間の免疫治療を盛んに行なっている病院に問い合わせてみたが、直近で神戸まで通えば自費での免疫チェックポイント阻害薬の治療が可能なことがわかった。私は悩んだ。神戸までの通院を現在の恭子に課すことや、私も仕事を休診するなどして、恭子と神戸に住みながら治療を受けることへの検討だった。余命1カ月と言われながら、2人で築き上げてきたわが家での穏やかな生活を捨てて、しゃにむに治療に恭子を引っ張りまわすことが、よい選択だとは到底考えられなかった。
だから、無理をしないで今できることは、藁にもすがる思いでやってもらいたかったのだ。私は現場のことなど何も知らぬままに、理屈で考えられる突飛な思いつきを三島先生にぶつけてみたのだ。何度かの手紙でのやり取りの後に、先生はついに話を乳腺外科の山崎先生にまでふってくれ、検討してもらえることになった。
月に1度の歯科医院でのミーティングのために恭子がフレンチのケーキを買ってきてくれて、ミントティといっしょに届けてくれる。今回はミーティングへの参加は休んでもらった、疲れるといけないから。少し動いて元気が出て、午後は家で病院の事務手続きをこなしてくれたらしい。
夜は2人で「おでん屋」で夕食をとった。この店は、私の歯科医院で一番の読書家の元トラック運転手の男性が始めた店で、以前から一度来てくださいと声を掛けてもらっていたが、なかなか実現できずにいたのを、ふと思いたって2人で訪れたのだった。
顎髭(あごひげ)を少し蓄えて、目の澄んだきりりとした二枚目のご主人が出迎えてくれた店のおでんは、私たちの想像を越えた上品なおでんだった。薄い綺麗な醤油の色のついただし汁は、吸い物の汁みたいだった。道理で客がみんなだし汁を飲み干しているはずだ。湯葉や生麩や三つ葉なんて入っているおでんは初めてだった。
その他の一品料理も正に逸品で、全国をトラックで巡ってきたご主人がずっと温めてきた気持ちのこもった料理なのだろう。恭子は、だし巻き卵と焼きおにぎりを殊の外喜んで食べた。「美味しかったね。また、来ようね」と恭子が運転する帰りの車の中で話した。
「昨夜は興奮してほとんど眠れず、朝、爆睡! 疲れている割には家のことをしたがる。洗濯や布団干しなど……。夜の自治会の会合でパパ役員を解放される!」(恭子の闘病記録)