進行性食道がんステージⅢ(III)と告知されて

「イナンナの冥界下り」 第2回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2016年9月
更新:2020年2月

  

遠山美和子さん(主夫手伝い)

とおやま みなこ 1952年7月東京都生まれ。短大卒業後、出版社勤務を経て紳士服メーカー(株)ヴァンヂャケットに入社。約20年勤務の後、2011年8月病気休職期間満了で退職

<病歴> 2010年10月国立がん研究センター中央病院で食道がんステージⅢ(III)を告知される。2010年10月より術前化学放射線療法を受けた後、2011年1月食道切除手術を受ける。2015年9月乳がんと診断され11月に手術、ステージⅠ(I)で転移なし


翌週、月曜日18日に超音波内視鏡による検査があり、その日に再度面談してどの治療法で行くのか最終決定することになった。臨床試験については「進行食道がん・(中略)・試験を受けられる患者さんへ」という15ページの説明文書が渡された。「良く吟味した上で判断されることをおすすめします」とある。臨床試験の背景、目的、期待される効果、有害反応(副作用)および危険性、頻度と対策、等。目的の項に「さらに再発の可能性を低くし、生命予後も改善するために、治療の工夫が必要」

これだな。がんセンター中央病院食道外科での治療成績をみるとステージⅢ(III)の5年生存率は26.3%(2010年10月に掲載されていた数字)。ちょっとドキドキするくらい低い数字だった。人は同時に2つの道は進めないし、死ぬ気はさらさらない私はなんとなく臨床試験に進む気配。

その週は工房で過ごした。仕事は上司との毎日のメールのやり取りで大きなトラブルもなく引き継いでいかれそうだ。出社できない状況でもなかったが「食道がんステージⅢ(III)」は私のキャラではなく、このまま休ませてもらうことになるだろう。ケガをした連れ合いは車で30分かかる外科医院に毎日傷の消毒に通わなければならず、連れ合いには悪いがこれがちょっとした気分転換になった。

治療が始まるまでにどんどん進行してしまうのではないか、ちょっとした体調の変化で不安になる。実は心配性、たぶん病的な心配性、だが、ひとり年老いて生きながらえる心配はなくなった、のか。

それは喉には入りませんよ

18日月曜日、超音波内視鏡検査を受ける。準備をして検査室前で待っていると、何やら蛇使いのように肩から太いファイバースコープのようなものを下げた先生が通り過ぎる。「いや、それは喉には入りませんよ、わたくし用ではないですよね」と祈る。前回だって途中までしか入らなかったし。順番がきた。「鎮静剤を打ちますね」「お願いします。絶対あの太さはムリ……」

「えっ、何?」気がついたのはリカバリー室のベッドの上だった。そりゃそうですよ、あんな太いの(を使ったかどうかは不明だが)正気じゃムリですって。眠っている間にすべて終わっていた。楽勝。

リカバリー室で回復を待って、C先生と面談のため内科の別室へ行く。先生が外来診療の合間に別室に出向いてきてくださるシステム。消化管内科は(おそらく他の科も)とても混雑していて待ち時間が長い。リカバリー後の外来チェックインではさらに待つことになるので、そのあたりが配慮されていて病弱な身には嬉しかった。

迷わなかったわけではないが、ガツンと臨床試験を選択することをC先生に伝える。

それを受けてそのまま放射線科でT先生との面談。治療のスケジュールと放射線による副作用についての説明を受ける。放射線科の医師らしく「放射線は効きます」と力強く仰る。

「副作用が出ても回復を待ってから手術をします。体調は毎週チェックします」。

20日に治療計画の基になるCT検査を放射線科で受けて、治療計画を作成、26日から治療開始と決まった。

20日は放射線科で看護師さんからガイダンスを受ける。胸に放射線照射の目印となるマークが油性ペンで書かれるが、落としたり勝手に書き足したりしないように注意することなど。

そして、ここでも放射線治療を受ける患者さんへの冊子を渡される。固いベッド上で若い技師さんによるCT撮影の後、胸に油性マーカーで印をつけられた。ちょうど食道のまわりを5cm×20cmほど、長方形になぞったようで、転移しているリンパの部分なのだろうかコの字に出っ張りがあったりする。これが重要なのだ。これを目がけて4方向から殺人光線ならぬがんを狙い撃ちする放射線が照射されるんだ。しかし洗濯板に油性マーカーとは……。

抗がん薬治療、1回目の入院

入院準備については病院から渡された「入院のご案内」、治療については『抗がん剤治療を安心して受けるために』『FP-rad療法の手引き』などの冊子のほか、院内に備えてある各種がんの解説の「食道がん」や「がんと食事」などなど参考にすべき手引書はたくさんあった。ただ、私の性格上、自分に都合の良い部分ばかりを読み込んでいる傾向は否めない。

予め説明されていた通り、週末に電話連絡があって10月25日月曜日に入院となった。入院期間は1週間から10日位の予定。「入院中に身の回りのことをお願いする人」欄に書かれてしまった義姉と姪が連れ合いと一緒に付き添ってくれた。病院への車中では、食道がんであることを公表している落語家立川談志のマネをして「声がでねぇんだ」などと軽口をたたく罰あたり患者。入院手続きを済ませると患者IDの印刷されたリストバンドを渡され4人部屋の病室へ。

病棟は11階、計画治療病棟。後でわかったことだが私のような臨床試験や製薬会社による治験を受ける患者さんが入る病棟で、一般の病棟とは若干雰囲気が違うらしい。また、私には担当の看護師Nさんがついてくれた。

千葉県のがんセンターから研修に来られていて、夜間を除いて一貫して体調を見てもらえるのは初めての抗がん薬治療には心強い。入院中の注意事項や翌日から始まる点滴についてのガイダンス。抗がん薬、吐き気止め、水分補給、利尿薬など薬剤と点滴量・時間スケジュールが書かれた表が作成してあり万全の態勢って感じ。

うすうすは気づいていたのだけれど5-FU、4日間というのは96時間かけて点滴するということだから、食事もトイレも寝る時も顔を洗う時も点滴しっぱなしということ。消化管内科C先生が病棟担当の先生と様子を見に来てくださる。若い担当の先生は人気芸人さんと同じ名字だ。

26日治療開始日、日課の体重測定などを済ませ、点滴が始まる前に1回目の放射線照射、シャワーを浴びて準備する。その場その場で一生懸命な性格のため、この日はまだ頑張る感満載の私。午後から点滴が始まる。使用される点滴台はレストランで見かけたバッテリー搭載のハイパーなもので、それぞれの薬剤が設定された時間当たりの分量送られてくる。バッテリー切れはもちろん薬剤切れ、管のトラブルでもアラームが鳴る仕組みである。

24時間働く、使える1人前の機材だ。血管に繋がれたこいつと寝食を共にする。頼れるやつかもしれないけれど不自由この上ない点滴初日。夕方、入院から5回目の食後、C先生「まだ何も起こりませんか?」「まだです」それまで時間をかけて無理して食事をとっていた。が、そこまでだった。

5-FU=一般名フルオロウラシル

入院9日目で退院の運びに

その晩から気持ちの悪い状態がずぅ~と続いて、ほとんど食べられなくなる。

「治療中は無理して食べようとしなくて良いですよ」と看護師さんからアドバイスされるが、N看護師には「食事に対する嫌悪感が強い」と記録されてしまう。何を隠そう私は5歳の時に急性腎炎で約1カ月入院治療を受けたことがある。無塩、低たんぱく食の食事療法が中心だったように記憶する。元気も食欲もない5歳の子供が味のない療養食を我慢して食べる1カ月。嫌な記憶が重なり、病院の食事時間が、漂う匂いが苦痛である。同室の患者さんたちが食事をとる時間帯は部屋にいることができず、廊下の向こうへ逃げ込んでいた。

病室に回診に来られたぐっさん先生に「吐き気がひどいので気が紛れるようお願いします。1つモノマネ」「練習シテナイヨ」「ダメじゃん」馴れ馴れしい患者のカラ元気。

そんな有様だから食べられそうなものを探して少しでも体力を温存することなどできるはずもなく、気分は食事を嫌がる子供だ。自宅から好きなものを届けてもらったり、売店で買ってきたり、それぞれに工夫している方もいたが、それより早く家に帰りたい思いでいっぱいだった。先生の説明にもあったが副作用の出方には個人差がある。体質も関係するだろうし、気質も大きく影響する。私がへなちょこぶりを存分に発揮している5日目、少し年上のTさんが同室に入院してこられた。

私のベッドの枕元に飾ってある飼い猫みゅうの写真を見て話しかけてくださって、病状のことなどにも話が及んだ。食道がんで化学放射線療法・2回目の抗がん薬点滴だという。長く銀座近くで飲食店を経営していて、ちょっとやそっとのことには動じない雰囲気、肝が据わったとでもいうのだろうか。

「吐き気なんて全然なかったわよ、店を任せてぶらぶらしてたら太っちゃった」。ただ血液検査で白血球の減少が基準値まで回復していないため点滴を開始できない。

後日、放射線の待合でTさんにお会いした際のお話では、いったん退院して仕切り直し、数日後に再入院してようやく点滴にこぎつけたそうである。しかし2回目は放射線治療の影響もあってかあまり食事が摂れなくなってしまった。

「副作用が出ているってことは効いてるってことですよ」と私。「あなたから励まされるなんて反対になっちゃったわね」再度薬局でお目にかかったときは、粘膜保護の飲み薬が効いてだいぶ食べられるようになったと笑っていた。今も捨て猫の里親探しに奔走されているのだろうか。

つらくても治療のスケジュールは粛々と進められたので、点滴台を携えた放射線の照射もだいぶ手慣れてきた。点滴は無事完了、なんとか9日目に退院の運びとなる。その朝の体重は36.3、因みに体温は36.6 紛らわしいな。次回入院までは通院して放射線治療と週に1回の血液検査を受ける。連れ合いが工房を休業して車での通院に付きあってくれたのでとても楽に続けられる、恵まれた環境だったと思う。院内の駐車場には地方ナンバーの車両も多くみられ、入院はもちろん検査や通院に家族で上京している患者さんも多い。

大人を泣かすもんじゃない

退院翌日は放射線機材点検のため照射はお休みとなり、次の日から土日を除く午前中に通う。その日は痩せて窪んだ目元をふっくら見せるアイシャドーを買うため帰りにデパートに立ち寄り、食堂でマカロニグラタンを食す。退院1週間後の外来の昼食は院内のレストランで天ぷらそばを食す。

「てんぷらそばはんぶん」キーボードで打ち込むC先生「そんなことカルテに書かないで下さいよ」「大事なことですよ。カップ麺とか味のはっきりしたものが食べやすいみたいですね」。そう言えば病棟にどん兵衛の匂いが漂っていたっけ。

抗がん薬の副作用は収まった様子で好みのものを喉に通り易く工夫すれば食べられるぞ、と気分がちょっと晴れる。そしてその週末ころから放射線の副作用だろうか、だるさや吐き気が続くようになり、車酔いがひどくなる。嘔吐は胃が空でも腸からうねる様に体内の何物かを押し出したいかのように襲ってくる。咳が誘発する嘔吐は咳をしないようにする。

次第に喉が焼けつくような痛みから始まってお約束の食道炎がひどくなっていった。食事の不足を補う高栄養の経口飲料や、食道の粘膜保護剤や痛み止めが処方される。冊子「食事に困った時のヒント」を参考にと言っても、喉を通るものは減る一方になる。

放射線治療は照射台に仰向けに横になり、胸のマーカーをキッチリポイントに合わせて数分間動かずにいるだけ。それ自体痛みも何も感じない。照射目印の胸のマーカーは入浴などで少しずつ薄くなってしまうので、治療前に技師の方が書き足すことになる。台に横になった私のむき出しの胸に技師の方2人が顔を近づけて黙々とマーカーを動かす静寂に包まれた放射線治療室。笑いはしなかったが、そんな事態に初めて遭遇した私は可笑しかった。実は技師の方に「慣れっこですか?」と聞いてみたかったが、治療が終わるといつもあいさつだけで退出した。

そんな頃会社からお見舞いが送られてきた。若い同僚たちが仕事帰りに手配してくれた様子が手に取るように伺える。手作りのカードが添えられている。デザイン科を出た新人が丹精込めて作ってくれたらしく、みんながコメントを書いてくれていて本当に顔が見えるようだ。昼休みの話題で盛り上がったテレビドラマのキャラクターも登場する力作。病気になって初めて涙があふれた、大泣き。大人を泣かすもんじゃない。

身体は痛んでいても気持ちの落ち込みは同じようには進んでいない感じで、夕方に散歩に出たりもする。2度目の入院の日程がでたので、アニメ(忍たま乱太郎)の主題歌を歌いながら姪に伝える。「♪そうさ、100%勇気、もう頑張るしかないさ、この世界中の元気抱きしめながら、そうさ、100%勇気、もうやりきるしかないさ~」

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