進行性食道がんステージⅢ(III)と告知されて
「イナンナの冥界下り」 第5回
遠山美和子さん(主夫手伝い)
<病歴> 2010年10月国立がん研究センター中央病院で食道がんステージⅢ(III)を告知される。2010年10月より術前化学放射線療法を受けた後、2011年1月食道切除手術を受ける。2015年9月乳がんと診断され11月に手術、ステージⅠ(I)で転移なし
あぁ~暑い、猛暑日だ。なんにも食べたくない。
ぐで~と寝ていたい~、うだうだしてないで早くやることやっちゃわないと。
術後2年半になる2013年お盆明けから、工房近くの学童保育クラブのボランティアに月に数日出かけている。指導員のお手伝いだが少しだけお小遣いも頂けるので、なんだか嬉しい。
通常授業のある日は概ね2時半から6時半まで、夏冬休みなど学校休業日は1時から6時半。
指導員2人で10数人から多い時で20人以上、子供たちは一時も目を離せないし、間食をゆっくりとる暇はないので、カロリーメイト缶かゼリーを持参して、ちょびちょび口にする。
1時からの日は11時には昼食を食べ始め、体調を整えてから出発、いずれにしても当番の日は緊張する。昼食は必ずパスタ、原料のデュラムセモリナは糖質の吸収が緩やかなのか、ご飯やパンより予後が格段に良い。
因みに朝食はバナナ。糖質、繊維、ビタミン、水分などバランスが良いらしくこちらも予後が良い。
G先生のアドバイスで始めた朝バナナだが、いったい何本いや何十本、否、何百本バナナを食べたことか。
「全日本バナナ振興会」から表彰されるかもしれない。
いつも相方の先生が気遣ってくださって真夏のプール番もなんとか乗り切る。子供の頃には出来なかった独楽廻しやフラフープもできるようになったり、「細さん」だの「ガリ子さん」と呼ばれ小6女子にお姫様抱っこもしてもらった。そうだ、まだ体重は小学5年生。
夏過ぎて秋来にけらし頃、姉の体調は徐々に悪くなってゆく。
都内の病院で経過を見ていたが、自宅近くの緩和ケア病棟のある病院を探していると言う。姉は自分で物事をちゃっちゃと進め、介護保険の手続きも自分で済ませ、まだ暑さが残る横浜の自宅にはすでに車椅子が用意してあった。
義兄は万事大様に構えてこまごまと口を出さずにただ見守る係。
今は社会人となった甥2人が子供の頃、そんな家での父親の様子を私に話してくれた時「そういう意味不明の置物をオブジェって言うんだよ」その時から私のなかでは義兄はオブジェとなった。
外車をさっさと処分した姉がベッドで横になることが多くなった頃にはお買い物ができるオブジェになっていた。
使い古されていても私には効きます
12月上旬に鶴見にある病院の緩和ケア病棟に入院した。
幸いなことに私の住む工房の最寄駅から外房線、総武快速線、横須賀線と乗り入れた直通があり、私の体力でも日帰りが可能だったので、週末には休日トクトク切符で会いに出かけたりもした。
ただ、とんぼ返りだとゆっくり食事をして休んでの時間は取れず、結果車内で少し食べ、着いたら食べ、電車待ちで食べのヒヨコ食い方式またの名を登山流エネルギー補給術を会得した。
意外と動けるものだが、連日ではちと辛く、頻繁に見舞えない薄情な妹だった。
姉の希望もあって10日ほどでやはり鶴見の別の病院に転院、それで少し持ち直した気がしたが、もうここからは戻れないのは見て取れた。
姉が「命が繋がった」と喜んだ長男夫婦は、身籠っている妻の体調を思ってか、甥が愛犬モフを連れてきていた。
もう後がないんだから犬でも猫でも入室が許される、優しい悲しい病棟。
目覚めている時は痛みが強いようだったがその日はほとんど眠っていた。薬が効いて眠っているようなのに眉間にしわを寄せて耐えているように見える。こんな時、人は何を感じているのだろうか。
姉に最後に会ったのは亡くなる2日前だったが、意識はなく長かった髪は看護の都合かバッサリ切ってあった。
「容貌が変わってしまって、公美子だと思えない瞬間(とき)があるんです」とオブジェが言った。容姿も込みで自慢の奥さんだったに違いない。
私が15歳の時、肝がんで父は亡くなった。当時はがんの告知はもとより、身内ががんであることを口外することすら憚られた時代だった。
母は毎日病院に通っていたが、私たち子供は見舞いに行かせてはもらえなかった。
最後に会った時、父の意識はまだあったが、あまりの変わりようにベッドに横たわっている男性がとっさに父とは思えなかった。
そんなことを思い出した。私も死ぬときはこんな風に肩で息をする干からびたミイラになるのか、すでに痩せている分時間はそんなにかからない。戦場で撃たれて前のめりになって泥まみれで死ぬのとどっちがいいだろう。
いや、この体重では兵役免除か、その前に年齢で撥ねられるな。
眠っている姉と2人で病室にいると看護師さんが来て「家にお帰りの時に着る服を用意していただくようお願いしたんですが・・・妹さんにお願いできれば。」と言う。
オブジェに催促するのは酷だと思ったのか、その時が近いことに違いはない。
「鞄開けるね」声を掛けるともなく言って、バッグから入院した時に着ていた服一式を出してハンガーにかけた。
もうきっと「家に取りに行ってきて」とは言わないだろうと思うし……終活中の方はこんなことにも抜かりないのか。
2日後の深夜、携帯が鳴った。オブジェの声「先ほど公美子が息を引き取りました」
私は「お疲れ様でした。いろいろありがとうございました」
2012年10月17日の告知から460日目だった。
人の心はそう簡単に折れたりしません。
ただ、へなちょこの私は心がへなっと曲がってしまうことがあって厄介です。
そんなときはこの言葉を思い出します。
『あなたが空しく生きた今日は、きのう亡くなった方が痛切に生きたいと願った明日』
使い古されていても、私には効きます。