子宮頸がんステージⅢと診断され、子宮全摘手術を受けたフリーランス・パブリシストが綴る葛藤の日々

「必ずまた、戻ってくるから」 最終回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2018年9月
更新:2018年9月

  

橘 ハコ さん

たちばな はこ フリーランスのパブリシスト(広報)。1974年生まれ。大手広告代理店や老舗出版社で雑誌広告営業の経験を積んだ後、2005年、出資を受けニッチマーケティング領域の会社を立ち上げる。その分野ではパイオニアとして海外からも評判を得るも、その後より自由な立場で仕事をすることを選びフリーランスへと転身、今に至る。広報・PR、マーケティングコミュニケーションの領域でさまざまな業界の仕事を請け負う

<病歴> 2013年3月、子宮頸がんのステージⅠと診断される。転院後の詳細な検査により、右腸骨付近のリンパ節に転移が認められステージⅢと確定。同年6月に準広汎子宮全摘出術を受ける。病理検査の結果、極めて微小な膣がんも確認された。同じく7月末~9月上旬まで、放射線化学療法を実施。治療の後遺症で左脚に麻痺が残り(現在はほとんど見た目にはわからないほどに回復)、10月には1人暮らしを再開し、後遺症で日常生活も必死な状態のまま11月からフルタイムでの仕事をスタートする。

麻痺の残った左脚に極めて軽度のリンパ浮腫発症が見られ、開腹手術の影響で腸が過敏になり、サブイレウス、大腸憩室炎など腹部の疾患に度々悩まされる。2018年現在、経過観察を重ね、今のところ再発はなし

2013年7月3日 追加治療の方針を決めた!

放射線化学療法を受けることにしました。その理由や説明はいまとなっては蛇足にしか過ぎないのだけど、なんせこれは備忘録。書いておこうと思います。

先日の外来でリスクの可能性を告げられた後、3日間くらいはどうするか考えずに放置していました。放置したことで、自分の気持ちがどこへ向かうのか興味がありました。

すると、ふつふつと靄(もや)が晴れてきて明確に何かが見え始め、それが「放射線化学療法をやろう」ということでした。

なので、数日はこの直観を後から悔やむことのないよう〝懸念〟を洗い出していました。主にそれは自己の心境や価値観における懸念ですが、それらを1つずつ潰していったということです。

結果として、放射線化学療法を受けずに追加治療をしないという選択に対して、明確な意思を見出だせなかったことが意外でした。

で、たぶん私が副作用や後遺症が嫌だからとかと思っている人も少なくないかもしれませんが、もちろんそれもあるにはあるのですが、メインはもし延命できたとしても機能不全の身体で生きていくことに第一の人生(かつての人生)がある限りうらみつらみを自らに吐き掛けそうな気がしていたからです。その選択をした自分を呪うことが何より嫌でした。

そして今日、〝ビジョニング〟という思考法を用いて最終的な自己問答をしました。

「長期にわたる難題を考えるとき、目先のことから考え出すと型にとらわれやすくなり、間違いを起こすことが多い。逆に問題を克服した未来を想像して、その実現への課題を考えると、見落としがちなことが自然に近寄ってくる。ビジョニングと呼ばれる思考法だが、その要は未来を自由に描くこと」(毎日新聞 西水美恵子氏のエッセイより引用)

結果、再発リスクを極力減らして生き方そのものを変える努力をし、「責任を果たしていくこと。人生を全うしきること」という選択肢が明確になり、問題を克服した未来を書き出しました。

んで、実現への課題は、

●病気を完治させる

●挑戦できる状態をつくる

●自らを律して正しい選択をする

ということがピックアップされました。

結果、再発の芽を完全に叩き潰すことが最適な選択であり今、自分がやるべきことだと確信できたのです。幾人かの人に「病気が治ったら、やりたいことを考えるようにすればいい」とのアドバイスをいただいたことがあったのだけど、とくにないんですよね。

仕事もセーブしてはいるもののやりたいことはやれていて、何か我慢しているといったことはひとつもないんですよね。

だからというかやっぱり、私にとっては「自己の真実を追求する」ことが重要でこの選択しか残らなかったんです。

それに、昔から私は究極の選択を迫られた時にはより難しいほうを選択することにしています。それで自分が成長することができたと思うから。

というわけで明日、大いに不安を抱えつつも、自ら下した結論に少しの迷いもなく病院に行ってこようと思います。

素晴らしき哉、人生!

私は幸せな人間なんだとしみじみ思った

がん患者に限ったことではないかもしれないが、家族に病人がいると家族の在り方に変容をきたす、と以前にも書いたけれどつくづく今そう思う。

実は先日、父と意見の相違があって微妙に関係がギクシャクしてうまくいっていなかった。

後から、私には私の考えがあるように父にもそれがあるのだから父の意見も尊重しよう、とは、――思っていた。

でも最終的な話し合いの場は持つことがないだろう、とは思っていた。私のためにどれほど献身的に尽くしてくれているかを思うと、一方的に通告することだけは避けるべきだと思っていた。

そこで今日「意見を聞かせてほしい」と働きかけることで、自分の考えや決定したことを父に告げた。それを静かに聞いていた父が私の決定したことに賛成するということを父なりの考えで話してくれた。

父は父で、持病でかかっている父の主治医にまで相談してくれていて、別の科ではあるもののドクターの意見として補足もしてくれた。そうした話し合いの末、私が行うと決めた追加治療についても、父は「先生(私の主治医)が根治のための治療だと言ったから、俺はそれを信じる」と言って声を詰まらせた。私も泣いた。

それで、改めてこれからも「どうぞよろしくお願いします」と頭を両親に下げた。

その後、父と2人してリハビリを兼ねてコンビニまで歩いた。往復1時間! コンビニでアイスクリームを買って2人で食べながら帰った。たくさんの話ができて私は幸せな人間なんだとしみじみ思った。(以上すべて、治療生活ブログ『新規事業ほぼ日記、または日報』より)

病院に備えられていた大浴場。患者にとって「命の水」だった

化学療法前夜、精一杯の「強がり」

新規事業ブログは8月を過ぎた今も続いている。7月後半から放射線治療を開始し、1週間後には化学療法も始まった。

副作用も重なり大変ではあるけれど、本当に医療は日進月歩であることを痛感している。友人Iさんが2009年に放射線化学療法を受けた際には、ひどい吐き気で、頑強な男性だった彼がみるみる衰弱してしまった程つらい副作用だったそうだ。

だが、現在認可された吐き気止め(制吐薬)のおかげで、私の治療は想像していた程のつらさはない。物が食べられない、下痢が止まらない、そうした目の前の生きるエネルギーを殺いでしまうような副作用が緩和できているのは本当に助かっている。

月曜から金曜まで毎日、両親が交代で病院まで送り迎えしてくれている。放射線科では、私が懸念していた副作用と後遺症がなるべく出にくいように一度の照射線量を少なくし、3次元照射という方式を提案してもらったことで、早期副作用も大分安心できる状況を作ってくださった。

追加治療に進むまで随分いろいろと悩んだ。家族との在り方、人生観、死生観。いつも1人を気取っていた人間が、この病を通していつの間にかたくさんの人に支えられている自分に気づかされた。人生束の間、行人のように過ぎゆく交流だったかもしれなかった記憶の日々から、生きた愛の球をたくさん私に向かって投げてくれた人たち。

東京に1人残って治療することもおそらくはできた。つらくても泣きながら1人這いつくばって。誰にも頼らないと頑なに決めた背中は、自分以外のすべてを拒絶していた。

私はそんな人間になりたかったのではなかった。そのことを、この病になって初めて自分の本心を知ることとなった。

もちろん、がんになってよかったなんてゆめゆめ思いはしない。

けれど、がんになったことで得たこと、思い出したことは、この先の人生を強く照らすだろうものばかりだ。

まだ治療は継続中で、これから長いつきあいになるだろう、私とがん。だけど私は大丈夫だ。恐らくすぐに怯えるだろう。嘆くだろう。またいつか絶望の淵に立たされるかも知れない。けれど、いまは大丈夫だと強く信じられる。

ここまでが、治療中だった2013年8月までの記録だ。

放射線に遅れること1週間ほどで化学療法がスタート、抗がん薬と共に副作用止め等を数種類点滴するのだが、午前8時半に放射線を照射し、9時から点滴を始め、終わるのは夕方の5時過ぎという、まるでお勤めに出てるかのような1日仕事になった。

せっかくなので、当時のブログから引用して臨場感を思い出すことにしよう。

抗がん薬、始めました

8月5日に初抗がん薬。

流れとしては、朝イチ放射線治療科にて放射線照射を、その後婦人科へ行き、主治医から抗がん薬開始の説明と今日の流れをざっと説明。

先生、「初めてで不安もあると思いますが、大丈夫、大丈夫! がんばりましょう! もし何かあれば毎日放射線治療に来てるんだから、婦人科へ寄ってください」とおっしゃる。

そして5Fの化学療法科へ向かう。

なんと、ナースステーションが中央にあって、まるで入院病棟なのだ。受付がナースステーションなので、そこで受付すると、すぐに治療室に案内される。治療室っていっても本当に入院病棟。で、看護師さんは抗がん薬専門の知識のある認定看護師。

今日の流れを説明されると、なんと6時間超だとのこと、理由は抗がん薬のシスプラチンを点滴する前後に副作用止めを点滴するから。シスプラチンの弊害である腎毒性を抑えるために、腎臓の負担を和らげる薬剤や、もう1つの最大とも言える副作用、吐き気を止める薬剤、それらをいくつか。すばやく排出されるように利尿作用のある薬剤など計6本を点滴する。それで1本1時間、計6時間程度とのこと。

まず体重を量って薬剤の量を決めるんだが、なんと退院してから5㎏やせていた。入院してから計7㎏も。見た目まったく変化ないし、お洋服もまったくゆるくないんですけど不思議!

「好きに過ごしていいですよ」と言われるが、点滴の間中ぐったり。それに、血管痛というのがあって、抗がん薬と一部の吐き気止めが刺激となって痛みを起こすとかで、実際とても痛かった。私の場合、血管も細いそうでなおさら痛いようだ。

困ったのが、ここでも排尿障害。利尿作用を強めて腎臓への負担を減らす薬剤があるのだけど、通常それを点滴すると30分おきくらいにお手洗いへ行くんだそうですが、なんせ尿意がないもんだからわからない。看護師さんに伝えると、行きたくなくても30分おきに行くよう言われる。行くと出るんですよね。血管の痛みを緩和するのに点滴スピードを落とすと楽になるんだけど、そうすると1本あたり1時間半かかってしまうとかでスピード重視でいきました。

血管の痛みで眠ることができず、ひたすら1日眺めていた点滴袋

17時ごろ、やっとすべての点滴が終わったんだけど、その間、朝から夕方までかかったのはその治療室では私のみ、他は2時間程度でみんな帰っていきました。

で、どんなにかゲーゲー、ぐったりになるのかと思いきや、点滴の吐き気止めがよく効いて、ほとんど平気だったんです! ヨボヨボはしていても比較的元気に帰宅し、食事もまあ取れましたので家族も喜んでくれて。すごく心配したと思うんですよね。

実はシスプラチンの吐き気止めが2009年12月に認可されて、以来かつてとは比べ物にならないくらい楽になったと聞いていました。実際そうなんだわ! なんて思っていましたが、そう甘くはなかった……というのを後日つくづく知ることになります。

明け方4時ごろ、強烈な吐き気で目が覚めました。食後には吐き気止めを2種服用なのですが、それ以外に、それでもダメなときに飲む用のプリンペランという吐き気止めが処方されていて、それを急いで服用。絶え間なくえづきながら5時になる頃記憶もなかったので休めたみたい。

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