鎌田 實「がんばらない&あきらめない」対談

苦しいことがあっても耐えて生き続けることに、未来がある 歌手/作曲家・加藤登紀子 × 鎌田 實

撮影●板橋雄一
構成●江口 敏
発行:2012年9月
更新:2018年9月

  

元・学生活動家の夫を肝臓がんで亡くした歌姫が、「いのち・うた・ふくしま」を語る

福島第一原発事故に遭遇した福島の子どもたちを支援するために、歌手/作曲家の加藤登紀子さんと、鎌田實さんが、共同で出したCD「ふくしま・うた語り」が発売された。加藤さんは元・学生運動指導者で、晩年は千葉県鴨川市で理想の農業に打ち込んでいた夫・藤本敏夫さんを、10年前に肝臓がんで亡くしたが、歌にかける意気込みはますます健在だ。

 

加藤登紀子さん

「いのちが続いてきたから、歌も残ってきた。いのちと歌は切り離せないものです」
かとう ときこ
1943年、旧満州ハルビン生まれ。東京大学文学部西洋史学科卒業。東大在学中に歌手デビュー。「赤い風船」でレコード大賞新人賞、「ひとり寝の子守唄」「知床旅情」で同歌唱賞受賞。その他のヒット曲に「百万本のバラ」など。1972年に元学生運動指導者・藤本敏夫氏と獄中結婚。2002年に藤本氏ががんで亡くなったあと、藤本氏と開墾した千葉県鴨川市の田畑で農業にも従事している。次女の八恵さんは歌手Yaeとして活躍中

 

鎌田 實さん

「ふっと頭に浮かんできたのが藤本さんの『人間は地球の上に土下座して謝らなければならん』という言葉です」
かまた みのる
1948年、東京に生まれる。1974年、東京医科歯科大学医学部卒業。長野県茅野市の諏訪中央病院院長を経て、現在諏訪中央病院名誉院長。がん末期患者、高齢者への24時間体制の訪問看護など、地域に密着した医療に取り組んできた。著書『がんばらない』『あきらめない』(共に集英社)がベストセラーに。近著に『がんに負けない、あきらめないコツ』『幸せさがし』(共に朝日新聞社)『鎌田實のしあわせ介護』(中央法規出版)『超ホスピタリティ』(PHP研究所)『旅、あきらめない』(講談社)等多数

大腸がんが治ったあとに見つかった大きな肝臓がん

鎌田  加藤さんのご主人だった藤本敏夫さんが肝臓がんで亡くなられて、ちょうど10年になります。最初に大腸がんが見つかったのは何年でしたか。

加藤  98年だったかな。結腸がんを手術し、それは治りました。

鎌田  その後、肝臓がんになった。

加藤  大腸がんを手術してから、定期的に検診を受けていました。いまも劇的に憶えているのは、2001年6月に定期検診の予定が入っていたんです。その1カ月前の5月の連休に、彼は例年のように千葉県鴨川市で田植えをしたんです。

鎌田  学生運動を離れてしばらくした後、理想の農業を求めて鴨川市へ移住され、農事組合法人自然生態農場「鴨川自然王国」を設立して、農業に打ち込んでいたんですよね。

加藤  そしてちょうど来ていたカメラマンに田植えの写真も撮ってもらって、ご機嫌だったのですが、その直後、激痛に襲われたんです。私が「すぐにお医者さんへ行って!」と言ったんですが、頑固なんですね。「いや、検診を予約している日まで待とう」と言って……。そして、予約していた日の前日に、もう我慢ができなくなって、お医者さんに行ったら、急に大きくなった肝臓がんが見つかったんです。

鎌田  B型肝炎とか、C型肝炎のウイルスはいたの?

加藤  いました、B型が。それより前、大腸がんが見つかった年の春頃に、やはり激痛が来て、一緒にいた娘に、「110番しろ!」って言ったんです。「119番はうるさいサイレン鳴らしてくるから、イヤだ!」って(笑)。結局、病院を調べて、タクシーで行きました(笑)。

鎌田  肝臓がんが急激に増大して、肝臓の被膜を刺激する痛みが、腸閉塞のような症状だったんですかね。

加藤  胃潰瘍みたいな症状でした。そのときは手術もしないで治ったんです。しかし、糖尿病もありましたし、抜本的な治療をすると言って、黒岩先生の病院に入院しました。その前には、糖尿病の治療で、わざわざ沖縄の病院に入院し、天願先生に診てもらっています。

肝臓がんの切除手術後亡くなるまでに 1年

鎌田  学生運動当時の仲間の先生のところに入院してるんだ。

加藤  ちょっと身を隠すような気持ちもあったようです。その沖縄で1週間、全身のボディチェックをしたときに、私は先生から、「かなり悪い。お酒は小学校にいる間ぐらい、やめたほうがいい」と言われました。彼に「お酒は6年間ぐらいやめたほうがいいってよ」と言うと、「医者はオレにはそうは言っていない」と言い張るの。奥さんの言うことは聞きたくないんですね(笑)。
病院へ入院したときに、B型肝炎が見つかったんですが、それは過去のもので、ほとんど治っていました。そこでは、糖尿病は劇的に改善され、肝臓の数値もすごく良くなりました。医師から、「ふだん、いかに酷使しているかだよ。1週間入院し、安静にしているだけで、こんなに治るんだから」って言われました。それで少しおとなしくなり、大腸がんも治ったんですが、2001年5月に新たに肝臓がんが出たわけです。

鎌田  大腸がんとは別の新しいがんだったんですね。肝臓のがんは手術したんですか。

加藤  切りました。7~8㎝の大きなかたまりでした。取ってから亡くなるまで、ちょうど1年でしたね。その手術をしたときに、「少しこぼれていましたが、ほじくっておきました」と言われました。

鎌田  残ったがん細胞が肝内か腹腔内に少しこぼれたんですね。それが肺に転移した。

加藤  PET(ポジトロン断層撮影法)で肺転移が見つかる前に、肩に痛みが出たことがあり、放射線治療を受けたんですが、劇的に治ったんです。そのとき放射線医師が「治ってる!」と嬉しそうでしたが、肺転移があるわけですから、私は素直に喜べませんでした。その放射線治療が肺の負担になったということはないんでしょうか。

「あの医師はダメだ。はっきり言えよ」

鎌田  それはないでしょう。諏訪中央病院では末期のがん患者さんなどを対象に、ホスピスをやっていますが、お年寄りでも、多臓器に転移して衰弱している人でも、放射線を当てた部分は結構良くなります。骨に転移していても、痛みはほとんどなくなります。ただ、半年~1年はそれで抑えられても、末期がんが治るかと言えば、なかなか治らないんです。

加藤  PETで肺の検査をしたとき、彼はその結果をすぐには見たくなかったようです。それで私と一緒に結果を見たんですが、彼が医師に「どう闘いますかね」と訊くんですよ(笑)。医師は口ごもりながら、「抗がん剤をやってみる価値はあると思いますが……」と答えました。あとで彼は、「あの医師はダメだなぁ。もう打つ手がないなら、はっきり言えよ。やってみる価値があるでは、自信がないのが透けて見える」って言ってましたね(笑)。

鎌田  藤本さんらしいなぁ。

加藤  そんなことを言いながら病室に戻ってベッドに入ったんですが、そのあと少し体が震えてましたね。私は黒岩先生から、「夏が越せるかどうかだね」と言ってもらっていましたから、覚悟はしていましたが、その頃、彼と話をしているとき、「どれくらい時間があると思ってる?」って訊いたことがあります。彼は「1年かな?1年ないだろうな」って答えました。それが亡くなる1カ月前のことです。肝臓がんの手術をしたときには、やる気満々で、「これから本を3冊書くぞ」って言ってましたが、結局、原稿用紙80枚分しか書けなかった。

学生運動の挫折を70年安保前に洞察

「藤本さんはかっこいいし、演説も上手いし、ひときわ輝いていましたね」と加藤さんに語りかける鎌田さん

「藤本さんはかっこいいし、演説も上手いし、ひときわ輝いていましたね」と加藤さんに語りかける鎌田さん

鎌田  藤本さんは学生運動が分裂していく前の最後の指導者で、私が集会の後ろのほうで見ていても、かっこいいし、演説も上手いし、ひときわ輝いていましたね。一種カリスマを見ているような感じでした。その藤本さんがデモをリードしては拘留され、さらに学生運動の責任を取る形で刑務所生活を経験し、加藤さんと獄中結婚をされたあと、農業に入っていかれた。その経緯は加藤さんがいちばんよくご存じですよね。

加藤  彼は学生運動に入る前、同志社大学の鶴見俊輔ゼミにいたんです。当時、鶴見さんは山岸会のような農業コミューンに関心を持っていた方で、鶴見さんからハンセン病の人がホテルで宿泊を拒否されたという話を聞き、ゼミの仲間たちとともに、奈良市の大倭紫陽花邑から土地の提供を受けて、ハンセン病の人たちと社会を結ぶ「むすびの家」を建設したのが、彼の出発点になっています。
その後、彼は東京に出てきて、学生運動の指導者になったんです。私が彼と出会ったのは、1968年3月でしたが、その頃の彼はずうーっと悩んでいましたね。彼が亡くなったあと、ロッカーから昔のアジびらなどが入った、黄色くなった袋が出てきましたが、その中に当時の心境が書かれたものが入っていました。自分が大衆を扇動しておいたくせにですが、そこには「67年に京大生・山崎君が羽田闘争で死んだことにより、大衆が早く過熱しすぎた。過熱した大衆に自分たちはついていけない。未来へのビジョンも示すこともできていない。これでは70年まで戦えない」といった意味のことが書かれています。

鎌田  すごい状況分析ですね。

加藤  実際、彼は当時、ずうーっと憂鬱そうでした。そして、68年11月7日から69年6月16日まで、半年以上にわたって拘留されたんですが、そのときに拘置所で農業を徹底して勉強したようです。やっと出てきたと思ったとたん、内ゲバがあったんです。そこで彼は学生運動はいっさいやめて、九州の平戸に逃げました。翌年の夏、彼に会ったとき、「人間は地球の上に土下座して謝り、やり直さなきゃいかん」と言ってましたね。
そして、東京に戻ってきたとき、当時水俣病も四日市公害も問題になっていましたから、「もはやプロレタリアとブルジョアジーの階級闘争なんて言ってる場合じゃない。人間は存在自体に矛盾をかかえており、このままではどうしようもない」という内容の、階級闘争を否定する冊子を作って配ったんです。学生運動を続けていた人たちには、「とんでもないヤツだ」と受け入れられなかったですけどね。

鎌田  その勇気がすごい。彼の考え方にぼくはシンパサイズします。

加藤  彼は学生運動の仲間たちと新しい方向を目指したかったようですが、仲間たちはどんどん過激な方向に行ってしまって……。彼は69年を境に1人になり、刑務所に2年入ったあと、理想の農業を求める方向に進んだわけです。

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