鎌田 實「がんばらない&あきらめない」対談

医療に必要なのは方程式ではなく、患者と医師のコミュニケーションだ ジャーナリスト・田原総一朗 × 鎌田 實

撮影●板橋雄一
構成●江口 敏
発行:2011年11月
更新:2018年9月

  

乳がんで妻ふたりを亡くした気鋭のジャーナリストが今、思うこと

最愛の妻・節子さんを炎症性乳がんで亡くして7年──、田原総一朗さんは、深い喪失感を癒やしきれない中で、鋭い評論活動を続けている。節子さんを看病しながら、医療の本質は患者と医師とのコミュニケーションにあると気づいた田原さんに、「がんばらない」「あきらめない」の医師、鎌田實さんが、がん医療のあり方から原発問題まで、問い質した──。

 

田原総一朗さん

「彼女が亡くなったら生きていけないと思っていました。いまでも微妙なところですが‥」
たはら そういちろう
1934年、滋賀県彦根市生まれ。早稲田大学第1文学部卒業。岩波映画製作所を経て、東京12チャンネル(現テレビ東京)に入社、ディレクターとして、『ドキュメンタリー青春』を担当。また、ATGで映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』の監督を務める。その後、フリージャーナリストとしてテレビ、雑誌を中心にマルチに活躍。主な担当番組に『サンデープロジェクト』『朝まで生テレビ』などがある。妻節子さんとの共著『私たちの愛』はベストセラーに。近著に『今だから言える日本政治の「タブー」』『緊急提言!デジタル教育は日本を滅ぼす』『Twitterの神々 新聞・テレビの時代は終わった』など

 

鎌田 實さん

「がん治療にも○に近い△があっていい。絶対的な正解などないのです」
かまた みのる
1948年、東京に生まれる。1974年、東京医科歯科大学医学部卒業。長野県茅野市の諏訪中央病院院長を経て、現在諏訪中央病院名誉院長。がん末期患者、お年寄りへの24時間体制の訪問看護など、地域に密着した医療に取り組んできた。著書『がんばらない』『あきらめない』(共に集英社)がベストセラーに。近著に『がんに負けない、あきらめないコツ』『幸せさがし』(共に朝日新聞社)『鎌田實のしあわせ介護』(中央法規出版)『超ホスピタリティ』(PHP研究所)『旅、あきらめない』(講談社)等多数

本当の病名を告げないでぼろくそに怒られた

鎌田  奥さまの節子さんが亡くなられて、もう7年になりますよね。節子さんは「がんサポート」でも、「田原節子のもっと聞きたい」という連載対談を持っていらっしゃって、多くのがん患者さんも勇気をいただいたと思います。彼女が炎症性乳がんになったとき、告知で少しもめましたよね。

田原  大変もめました(笑)。

鎌田  主治医から田原さんにはかなり厳しい話があった。田原さんは生き方としては、何事も情報公開して透明性を高めることにこだわってきたにもかかわらず、最愛の人に対するがんの告知は、やはり迷いましたか。

田原  医師から「炎症性乳がんです」と言われたとき、「残り、どれくらいですか」と訊きくと、「長くて半年」と言う。本人にそのことを告知するか、しないか、「どうしましょうか」と相談すると、医師は「半年しかもたないということは、何もできないということだから、乳がんということは告げても、炎症性ということは言わないほうがいい」と言いました。そういうことで入院し、抗がん剤、放射線をやって、2カ月半後、手術しようということになった。ところが、本人が「何のがんだ」と盛んに訊くわけです。そして、娘たちに本を買わせて、自分で調べようとする。そこでぼくは、「なるべく詳しく書いてない本を買ってこい」と(笑)。

鎌田  田原さんらしくないですね(笑)。

田原  そう、らしくない。しかし、手術を終えて帰ってきたあと、彼女はパソコンでいろいろ検索して、本当のことを知ったんです。ぼろくそに怒られました。「半年のいのちだったら、1日1日を大切に、精一杯生きたいじゃないの! 私のこと、何だと思ってるの!」って。

改めて女性は強いと思いましたと話す田原さん

「ふたりの妻の死に立ち会ったわけですが、改めて女性は強いと思いました」
と話す田原さん

鎌田  おふたりはそれまで、政治についても、経済についても、侃々諤々とやってこられた関係ですよね。

田原  そう。そこをぼくは間違えていた。炎症性乳がんで半年しかもたないということを告知すると、彼女が気落ちして、生きる気力を失うんじゃないかと思った。いや、本当は、ぼくのほうが生きる気力を失うのじゃないか、と怖かったんです。

鎌田  節子さんに全部おんぶしていましたからね。

田原  男って弱いもんでね。彼女は2番目の女房ですが、最初の女房も乳がんで亡くしたんです。つまり、2人の女房を乳がんで亡くしたわけですが、その死に立ち会って、改めて女性は強いと思いましたね。

彼女は戦友であり母親でもあった

鎌田  田原さんと節子さんの共著『私たちの愛』で、節子さんが面白いことを言ってますね。「宇宙と子宮が一体化する絢爛豪華な性の世界があった」と。田原さんとの結婚生活を振り返っている中で、月経の周期に言及している。本来、人間の生命は月と微妙な関係があったはずなのに、男にはそのかけらが残っておらず、女性の28日という月経の周期にわずかに残っている。節子さんは、女性はその生理を繰り返しているから、落ち込んでも立ち直ることが早い、という意味のことを書いていますよね。寿命も女性のほうが長いし、私も医師として、女性のほうが強いと感じます。

田原  女性は生理になることによって、大自然に合わせるしかないという気持ちになるんでしょうね。そして、大自然に合わせられることが、自信にもなるんですね。男はきわめて頼りない(笑)。だから男は虚勢を張るんじゃないでしょうか。

鎌田  なるほど。田原さんが何人分もの仕事をこなせたのは、大自然と共鳴できる節子さんがいたからですね。本の中で、「彼女が原稿を見てくれるから、自分は一生懸命書いたんだ」ということをおっしゃってますよね。

田原  ぼくが書くのは下書きみたいなもんです、結局。それを読んで、彼女が勝手に直すんです。それから、テレビの生番組が終わると、真っ先に彼女に電話をする。彼女は80パーセント、けなしましたね。女房なんですが、母親みたいなところがあった。

鎌田  おふたりは「常在戦場」の覚悟で生きていらっしゃったから、戦場で一緒に戦った戦友みたいなものだと思っていましたが、節子さんは母親でもあったんだ。戦友であり、母親でもあった節子さんがいなくなって、仕事に立ち向かうことはできましたか。

田原  ぼくは、彼女が亡くなったら生きていけない、と思っていました。彼女に直してもらうために原稿を書き、批評してもらうためにテレビに出ていたわけですから。

鎌田  で、節子さんを亡くした虚脱状態から立ち直れましたか。

田原  微妙なところです。本当に虚しさはありました。私は彼女が亡くなって3年間、遺骨をデスクの上に置いてました。夜中にフタを開け、骨を掌で握っていたこともあります。親しいお坊さんが、「それじゃあ、奥さんがかわいそうだ。ちゃんとお墓に入れてあげないと、奥さん、落ち着かないよ」と言われて、そのあと納骨しましたけれどね。

鎌田  それだけ愛していたんですね。田原さんと節子さんが告知の件で大もめにもめたことは、先ほどうかがいましたが、「がんサポート」に掲載された田原さんと節子さんの対談によると、その後、病院を変わり、主治医の先生が節子さんにすべてお話になったために、節子さんは「とても幸せに思う」と言われた。医療にとっても、情報公開は大事なことなんです。情報公開のあいまいさは日本病の一断面ですね。節子さんはそういうものと闘っている面があったんじゃないですか。

田原  あったかもしれません。

医師との意志疎通でどんどん元気になった

鎌田  田原さんと節子さんの対談で、もうひとつ印象に残ったのは、「医療は方程式ではなく、コミュニケーションだ」という意味の話です。

田原  話が戻るようですが、手術を受けた病院は、彼女に炎症性乳がんであることをはっきり言わなかったために、コミュニケーションがうまくいかなくなった。それで彼女は、「この病院とはもう縁を切りたい。どこか別の病院で診てもらいたい」と言ったんです。そこで、ぼくは知り合いの東大系の病院に2つ頼みましたが、2つとも断られました。「人が手術した患者を、あとから引き受けるのは冗談じゃない」と。だから、彼女の面倒を見てくれるお医者さんを探すのが大変でした。

その後、新しいお医者さんが見つかり、面倒を見てもらったわけですが、そのお医者さんの彼女との接し方を見ていて、医療には決まった方程式があるのではなく、コミュニケーションが大切だということがわかった。そのお医者さんは、「結局、医者は患者さんに学ぶんだ」とおっしゃっていました。医師は健康ですから、病気の内実はわからない。個々の患者に学ぶわけです。だから、そのお医者さんは彼女の話を、時間をかけて丁寧に聞いてくださった。そのコミュニケーションによって、彼女はどんどん元気を取り戻していったのです。

鎌田   「医療に方程式はない」という感性が面白い。今回の原発事故で放射性物質が出てしまった。どうしたらいいかについて、専門家の間でもヒステリックな議論が行われています。ある学者は「100ミリシーベルトまでは何でも大丈夫」と言い、ある学者は「1ミリシーベルトでもダメだ」と言う。そのはざまで、福島の人たちはものすごく困っています。

そこで私は、原発問題について書いた『なさけないけどあきらめない』という本で、○×の2項対立の考え方ではダメで、○に近い△を探すことが大事という考え方が必要ではないかと提唱したわけですが、がん治療にも○に近い△があっていい。絶対的な正解はないのです。その人に合った、○に近い△を探すことが大切です。諏訪中央病院には、各地の病院で「もう手立てはない」と言われた患者さんたちがきます。大学病院では○×式の考え方で、「もうダメだ」と言われて、ベッドを追い出された患者さんでも、その人は現実にまだ生きているわけです。絶対的な○を探すのはもう無理かもしれないけれど、その人が生きているかぎり、○に近い△を探してあげることは大事だと思うんです。

私はチェルノブイリと20年間にわたって関わり、医師団を94回派遣してきましたが、そこでも○に近い△を探すことの大切さを学んできました。がん治療にも放射能問題にも、○に近い△を探すしかないという側面があると思います。

3分診療ではできないコミュニケーション

田原  昨日、福島の農家の人と話したんですが、「放射能の情報がなくて、自分の農作物が安全か安全でないのか、よくわからない」と言っていました。生産者が情報がないなら、消費者はもっと情報がないわけです。日本はそこが遅れていて、農産物の安全性を調べようにも、調べる機器がない。近々、新しい機器が商品化されて、八百屋の店先で、野菜の放射能の数値を測って見せることができるようになるそうです。しかし、人間が求めるものは安全だけではなく、安心がほしい。安心をどうするかという点に関して、福島の農家の人が面白いことを言った。「農家と消費者が勉強し、話し合う中で、お互いにコミュニケーションができるようになれば、自然に安心が出てくるのではないか」と。

そこでまた話が飛びますが、私は今、毎週、東洋医学のお医者さんにかかり、鍼灸、指圧をやってもらっています。私は還暦を迎えたとき、過労もあったと思いますが、消化器がまったく動かなくなった。当然、がんだと思いました。ある病院に1カ月ほど入院し、徹底的に検査してもらったところ、がんではなく、自律神経失調症だと言われた。そして、翌年2週間、さらに次の年に10日間、3年に3回入院しました。そのとき西洋医学はダメだと思って、東洋医学のお医者さんにかかるようにしたわけです。以来、10数年、東洋医学に通っています。何がいいのかと言えば、結局、脈をとってもらいながら会話をすることですね。西洋医学と東洋医学とでは、脈のとり方が違う。

鎌田  西洋医学では脈の数は数えますが、脈の強弱とか陰陽とかは考えませんね。

田原  私の先生は、脈を2分ぐらいとっています。その間に、ああだ、こうだと、いろんなことをおっしゃる。その見立てが、どこか心当たりがあるんですよ。そういうコミュニケーションが、今の西洋医学にはない。最近は、かかりつけの病院を持たない人が多いので、みんな大病院へ行きますが、大病院は3分診療でしょう。患者とのコミュニケーションができるわけがない。


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