鎌田 實「がんばらない&あきらめない」対談

妻の写真を手帳に入れて持ち歩いていると気持ちが楽になりました 国立がんセンター元総長/日本対がん協会会長・垣添忠生 × 鎌田 實

撮影●板橋雄一
構成●江口 敏
発行:2010年6月
更新:2018年9月

  

国立がんセンター元総長が最愛の妻をがんで亡くし、その絶望の淵からこうして立ち直った

日本のがん医療の総本山とも言える、国立がんセンター元総長の垣添忠生さんが書いた『妻を看取る日』が、がん患者さんやがん医療関係者を中心に、静かな共感を呼んでいる。青年医師になったばかりのころに、駆け落ち同然にして結婚した最愛の伴侶を亡くして、さすがの垣添さんも強烈な喪失感に襲われた。そのどん底から這い上がった垣添さんは今、亡くなった妻とともに生きている。その心のひだに、「がんばらない」&「あきらめない」の鎌田實さんが迫った。

 

垣添忠生さん


かきぞえ ただお
1941年生まれ。1967年、東京大学医学部卒業。都立豊島病院、東大医学部泌尿器科助手などを経て、1975年から国立がん研究センター病院に勤務。同センターの手術部長、病院長、中央病院長などを務め、2002年に総長に就任。2007年に退職。(財)日本対がん協会会長、(財)がん研究振興財団理事を務める。著書に『がんを防ぐ』(主婦の友社)『前立腺がんで死なないために』(読売新聞社)『患者さんと家族のためのがんの最新医療』(岩波書店)など

 

鎌田 實さん


かまた みのる
1948年、東京に生まれる。1974年、東京医科歯科大学医学部卒業。長野県茅野市の諏訪中央病院院長を経て、現在諏訪中央病院名誉院長。がん末期患者、高齢者への24時間体制の訪問看護など、地域に密着した医療に取り組んできた。著書『がんばらない』『あきらめない』(共に集英社)がベストセラーに。近著に『がんに負けない、あきらめないコツ』『幸せさがし』(共に朝日新聞社)『鎌田實のしあわせ介護』(中央法規出版)『超ホスピタリティ』(PHP研究所)『旅、あきらめない』(講談社)等多数

「最期は家で」と妻が望み希望をかなえてあげた

鎌田 国立がん研究センターの元総長の垣添さんが、在宅ケアでがんの奥さまを看取られたということに、私はとても感動しました。患者さんが元総長のご家族であれば、がんセンターが最後まで総力を挙げて治療・看護に尽くす、というのが普通ではないかと思います。やはり、在宅にこだわったということですか。

垣添 妻は自分の運命を読みとっていましたから、最期は家でということを強く望んだのです。その希望をかなえてあげたということです。

鎌田 垣添さんの希望というより、奥さまの希望だった。

垣添 ただ、私も最期を家で迎えるというのはいいことだと思っていました。考え方は完全に一致していましたね。あの年(2007年~2008年)の正月休みは長かったものですから、一応、1月6日まで在宅で過ごすのに必要な医療器具を病院から借りて、12月28日に家に向かいました。しかし、妻はその在宅期間中に自分は死ぬだろうと考えていましたし、私もそう読んでいました。

鎌田 奥さまも垣添さんも覚悟されていたんですね。

垣添 在宅ケアと称していましたが、妻も私も、自分の家で死ぬために帰るのだと考えていました。

鎌田 そして実際に外泊中に亡くなられた……。

垣添 大晦日の夕方でした……。

肺がん、甲状腺がん治癒。新たに肺小細胞がんに

鎌田 奥さまは甲状腺がんと肺がんをやられてますが、どちらが先でしたか。

垣添 肺がんが先です。10年ほど前でしたが、小さな腺がんでしたから、手術で治りました。そのあと甲状腺がんの手術を2度受け、これも治りました。しかし、その後、転移の心配もあるため、定期的にCT(コンピュータ断層撮影)を撮ったりして経過観察をしていたところ、右肺に小さな影が写ったのです。

鎌田 それが小細胞がんですか。

垣添 いえ、あまりにも小さいため診断がつかなかったのです。ですから3カ月後、そのまた2カ月後と、2回ほど再検査をしました。その間に影が若干大きくなってきて、がんに間違いないということになったのです。ただ、いくら影が小さいといっても、右肺の真ん中にありましたから、手術で取るということになると、右肺下葉を全部取らなくてはならず、かなり呼吸機能に影響が出ることが予想されました。それに妻は長い間、膠原病でステロイドをのんでいましたから、肺の組織がかなりもろくなってもいました。
それで外科的な治療はやめて、国立がん研究センター東病院で陽子線治療を受けたのです。その治療で右肺の影はきれいに消えたのですが、その半年後に右肺門部にリンパ節転移が1個、見つかりました。そのときに、1度完全消失したあの小さな病巣が再発してきたとすれば、肺の小細胞がんが最も疑わしいということで、針生検をやったところ、やはり小細胞がんであることが判明したのです。

鎌田 それで化学療法をやられたわけですね。効きましたか。

垣添 最初の1回は効きましたね。

鎌田 よくありますよね、最初の1回は劇的に効く。

垣添 妻の場合はそんなに劇的というほどではなかったのですが、マーカーが下がり、とても喜びました。しかし、2回目からは効果がなく、副作用ばかりが出てきました。クスリを代えてみたのですが、今度は口内炎、食道炎がひどく、食べるのもつらそうで、かわいそうでしたね。

「あなたのためよ」と抗がん剤治療を受けた

鎌田 本を読むと、とにかく垣添さんの奥さまに対する愛情の深さがあふれている。垣添さんとしては、やはり大好きなパートナーに少しでも長く生きてほしいと願っていらっしゃったんですよね。

垣添 それはそうですが、肺の小病巣に対して、化学療法をやり、その後さらに放射線治療を追加して、5カ月間におよぶ治療を終えたときには、転移は1個だし、治ると信じて治療を受けていました。しかし、その後に多発性転移が起きてからは、もうこれはダメだと、半ば観念しました。妻には可能なかぎり生きてほしいと思いましたが、限られたいのちであることは明白でした。あと3カ月のいのちだと思いました。私は一言も言っていませんが、それは妻も感じていたはずです。

鎌田 本に書かれていますが、最後の3カ月間の抗がん剤治療のとき、奥さまは、本当はイヤだったけれども、垣添さんのお立場に配慮して受けられた、ということですか。

垣添 1度だけ、「こんなつらい治療を受けるのはあなたのためよ」と言いましたね。妻は、抗がん剤の効果をあまり期待していなかったのだと思います。とくに、自分の追い込まれた病状をよく理解していましたからね。それでも、あえて副作用に耐えながら抗がん剤治療を受けたのは、「あなたのためよ」ということだったと思います。以前は治ると信じて前向きな気持ちで抗がん剤治療を受けていました。医師も転移したリンパ節1個は治せると思っていたはずで、非常に前向きに治療していました。しかし、最後は敗戦処理のような感じにもなりましたね。

鎌田 最後の3カ月を覚悟した場合、緩和ケア病棟に入る、専門病院で最高レベルの治療を受ける、在宅ケアをするという、3つの選択肢がありますが、どういう判断をして治療を選ばれたのですか。

垣添 抗がん剤の効果を本当は信じていなくても、とにかく前向きに闘いたいという気持ちですね。迷うことなく再入院して治療を受ける選択をしました。

鎌田 緩和ケアを受けることは?

垣添 あまり考えませんでした。妻からも緩和ケアという言葉は一言も出なかったですね。もちろん緩和ケアという選択肢があることは知っていたと思います。

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