患者を支えるということ6
言語聴覚士:訓練の意味を理解することが重要 飲み込み障害はリハビリでカバーする
がんの手術によって、言葉や聴覚などのコミュニケーション手段を失ったり、飲み込みがうまくできなくなる人もいる。慶應義塾大学病院リハビリテーション科の安藤牧子さんは、言語聴覚士としてこうしたかけがえのない機能を取り戻すために、患者と一緒に頑張っている。
高まるリハビリのニーズ
今では、がんを克服して元気に社会復帰を果たしている人も珍しくなくなった。しかしその一方で、治る病気になったからこそ、がんや治療で失われた機能をどう回復するか、という問題も大きくなっている。
とくに、話す聞くといったコミュニケーション手段や飲み込みという、人としての基本的な機能に障害を抱えた場合、患者さんの苦痛は極めて大きい。安藤さんは、言語聴覚士としてこうしたがん患者さんのリハビリテーションに、積極的に取り組んでいる。
言語聴覚士は、理学療法士や作業療法士と同じリハビリの専門家。失語症や、構音障害、言語発達遅滞によって、話す、人の話を理解する、書く、読むなどの言語機能に障害を抱えた人、難聴など聞きとりの障害、飲み込みの障害のリハビリを担当する。大まかにいえば、コミュニケーション手段と飲み込みの障害のリハビリが中心といえる。
安藤さんによると、「言葉を話すときにも、ものを飲み込むときにも口を使うので、言語障害と嚥下障害を両方抱える人も少なくありません。また、脳の高次脳機能障害による失語症や記憶障害、認知面の障害も言語聴覚士によるリハビリの対象」なのだそうだ。
頭頸部がんに多い嚥下障害
がんの場合、言語聴覚領域の障害が起こるのは、脳腫瘍や咽頭、喉頭、舌など頭頸部のがんに多いという。
「脳腫瘍では、部位によって失語症や記憶障害、嚥下障害などが起こることがあります。頭頸部がんは直接嚥下に働く器官を手術することが多いので、嚥下障害は非常に多く起こります。食道がんでも嚥下障害が起こることがありますし、肺がんでも術後体力が著しく低下して嚥下しにくくなる人もいます」と安藤さんは話している。
リハビリを始めるのは、「術後の経過にもよりますが、ここでは術後1週間から2週間目までには始めている」そうだ。
また、起こりうる障害の程度は、手術の方法でおよその推測はつくという。
「必ずしもその通りではありませんが、切除範囲や再建の有無、首のリンパ節郭清は片側だけか両側行ったのか、気管切開の有無などで、おおよその見当はつきます」と安藤さん。
たとえば、頭頸部がんで頸部のリンパ節郭清を行った場合には、初めは口も開かないし、首も動かせない。パンパンにれて感覚すらないそうだ。こういう場合、傷の状態がよければ頬など遠い部位から動かしていく。
「舌がんで舌を全摘した場合でも、奥の筋肉は生きているので、それを動かす訓練をします。飲み込みの障害があれば口を動かして唾を飲み、まず飲み込む感覚を取り戻してもらう」のだそうだ。
こうした訓練で、安藤さんが非常に大切というのは「飲み込みならば、嚥下のしくみを理解してもらい、なぜ今こういう訓練が必要なのか、わかってもらうこと」だという。
飲み込みのしくみの理解から
人との会話も飲み込みも、健康なときにはほとんど無意識に行っている行為だ。どういうしくみで飲んだり、食べたりしているかは、ほとんどの人が知らない。だから、患者さんの多くは「まさか、お茶を飲むのにこんなに苦労するなんて」と驚く。
そういう人に、仰向けに寝て首を持ち上げる訓練をしましょう、といってもその意味がわからない。嚥下のしくみと訓練の意味を理解してもらうことが、リハビリへの意欲を高めるにはどうしても必要なのである。
だから、できるだけ情報を提供する。たとえば、嚥下障害の人に行われる検査に、嚥下造影検査がある。これは造影剤を使ってものが飲み込まれる様子を撮影する検査だ。この映像を患者さんにみてもらって「ホラ、ここの食道の入り口に食べたものが残っているでしょう」といえば、患者さんは「すごく納得してくれる」のだそうだ。
それがわかれば、たとえば「息こらえ嚥下訓練」の効果も理解しやすい。これは、「ん」と息を止めてその間に唾や食べものを飲み込み、最後に口から息を吐いたり、咳払いをする方法だ。安藤さんによると、食道がんなどで声帯がうまく閉じない人に効果があるそうだ。
口から胃に飲食物を運ぶ管と鼻から肺に空気を送る管は、首の部分で交差している。ものを飲み込むときには、喉頭蓋という弁がパタンと閉じ、さらに声帯が閉じることで気管のほうに食べものが入らないしくみになっている。もし、このしくみがうまく働かないと「誤嚥」が起こってむせる。これをくり返していると誤嚥性肺炎を起こしやすくなる。
ここで、「ん」と息を止めると声帯が閉じて、誤嚥しにくくなるのだそうだ。
さらに、飲み込んだ後で息を吐いたり、咳払いをして声帯の上にたまったものを吹き飛ばすのである。
科学的根拠のある嚥下訓練運動
一方、嚥下訓練にはまだ科学的根拠が乏しいが、唯一立証されているのが「頭部挙上訓練」。これは、仰向けに寝て頭を1分持ち上げ、1分休むという動作を3回くり返し、頭部の上げ下げを30回連続してくり返す。これを1セットとして1日に3回、6週間続ける。それがなぜ、嚥下の訓練になるのだろうか。
安藤さんによると、ものを飲み込むときには、のどぼとけ(喉頭)が斜め上に持ち上がり、それによって喉頭蓋がパタンと閉じ、飲食物が流れ込みやすいように 食道が広がるのだそうだ。つまり、喉頭が持ち上がることが大事なのだが、この喉頭挙上に大事な働きをしている筋肉が3つある。頭部挙上訓練は、この筋肉を 鍛えて嚥下障害を改善するのである。
この運動は、健康な人にとってもかなりハードな訓練。首を持ち上げる運動の意味がわからないと、とても1日に何度もできないのである。
食道がんなどで、声帯がうまく閉じない人に効果がある訓練方法。「ん」と息を止めると、声帯が閉じて、誤嚥しにくくなる
手術前からリハビリを開始
そして、安藤さんが「常に気をつけています」と話すのが、心の問題だ。リハビリを開始する術後1週間目あたりは精神的にもかなりつらい時期。
「頭頸部のがんは、手術によって外見的にも影響がありますし、その上で話しにくい、飲み込みづらいという障害があるのですから、かなりつらいと思います」と安藤さんは言う。
手術後機能が落ちてからではなく、手術前にも会って話をするのも、少しでも精神的な負担を少なくしたいからだ。
「最近は、がんのリハビリが知られるようになってきて、手術前から失声のリハビリ(食道発声)などが始められるようになりました。術前からリハビリを始めることで、心理的な負担を少しでも軽くできたらと思っています」と安藤さんは考えている。
リハビリのゴールは?
リハビリのゴールは、「一般的に、こういう手術を受けた人はこのぐらいまで回復するという予測はありますが、実際には予想以上によくなる人も、うまくいかない人もいます。初めからきっちりしたゴールを設定するというよりは、その時々の病状に合わせて、患者さんの希望をお聞ききしつつ、目標に近づけるようにお手伝いするのが私たちの仕事です」と安藤さんは語る。
実際には、仕事に戻りたい、子供の世話をしたいなど、社会復帰をゴールにおく人がほとんどだそうだ。
たとえば、Aさん(63歳)は舌がんで、亜全摘*という大きな手術を受けた。腹直筋で舌を再建し、頸部リンパ節も郭清。飲み込みも言葉もかなり低下した。
普通リハビリには、1カ月以上かかる。ところが、毎月従業員に給料を手渡ししていたAさんは、給料日である21日目には退院したいと強く希望していた。
とても食事をとれる状態ではなかったが、自分で食道に口から管を入れて経管栄養をとり、終わったら抜く、という方法をマスターして退院。外来でリハビリを続け、結局2カ月ちょっとで食べられるようになった。
本人の希望をかなえるためにこういう形でリハビリをすることもあるのだ。
*亜全摘=一部を残して大部分を切除すること
言語障害には絵と漢字を用いて
QOL(生活の質)の向上を目指すならば、リハビリはがん医療に欠かせない科目のはずだ。ところが、大学病院にはリハビリ科があるが、全国のがんセンターではまだチラホラある程度。昨年4月にがんのリハビリにもやっと診療報酬が認められ、これからが期待されている。
安藤さんによると、以前は「食べられないけど胃ろう(胃に直接流動食を入れる穴)を作って帰しましょう」「コミュニケーションはとれないけど、がんは治ったのだから退院」ということが多かったのではという。
しかし「脳腫瘍では高次脳機能障害で言語障害が起こることがあります。これもがんが治ったからいいではなく、言語聴覚士がきちんと評価して説明をすれば、もっとコミュニケーションがとりやすくなるのではと思うのです」と安藤さんはいう。
たとえば、言語障害があると一般にはひらがなのボードを指さしてコミュニケーションをとろうとするが、安藤さんたちは絵と漢字を使ったコミュニケーションノートを使う。
「脳にとっては、漢字よりひらがなのほうが処理に手間がかかる」からだ。
専門的な知識があれば、患者さんの負担もずいぶん違ってくるのである。
「経験を積んで、がんの患者さんにできることがいろいろあるとわかってきました。そのことを、医師や看護師だけではなく、言語聴覚士にも伝えていきたい」と安藤さんは頑張っている。
リハビリは、脳卒中や難病からスタートしているので、がん患者さんへの訓練経験が少ない言語聴覚士もまだ多い。がん患者さんに対するリハビリを確立すると同時に、どこでも治療の一環として受けられるようになってほしいものだ。
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