乳がん長期生存の秘密
なぜ彼女たちは転移・再発してもがんに負けないのか、その原因を探る

取材・文:常蔭純一
発行:2009年6月
更新:2013年8月

  

再発7年
「オンリーワンでいいじゃないか」 発想の転換で始めた猛リハビリが「奇跡」を呼んだ

田村祥子さん
田村祥子さん

田村祥子さん(73歳)
94年3月に左乳房にがんが見つかり、全摘手術を受ける。01年秋頃から背中の痛みを感じ始め、02年1月に再発、骨転移で下半身全まひに。放射線、ホルモン療法の後、猛烈なリハビリに取り組む

「下半身がなくなってしまった」

それは文字通り、「青天の霹靂」でした。

7年前の1月のある朝、いつもと同じように目覚め、トイレに起き上がろうとすると下半身がなくなっている感覚に気づきました。もちろん、お腹も足もちゃんとついています。でも、それはもう私の体ではなくなっていたのです。

数カ月前から左の肩甲骨周辺に鈍痛が現われ、それが激しい痛みに変わったため、そろそろ精密検査を、と思ってはいました。

しかし、前夜はテニス仲間と新年会で祝杯をあげたほどで、いつもと変わらぬ時間を過ごしました。それが翌朝、下半身全体がまひしていたのです。自分の体に何が起こったのかわからず混乱する頭に「再発」という嫌な言葉が去来します。

救急車を呼び、医師として義理の兄が勤める病院に直行すると、嫌な予感が的中していたことがわかりました。

乳がんの骨転移にともなう第7胸椎の圧迫骨折による下半身の全まひ――。医師の説明を受けても、私は自らが置かれている状態を把握することができず、「なぜ私だけが……」とわが身の不運を嘆くばかりでした。

そうして、ただ呆然とするなかで私の再発乳がんとの闘いが始まりました。

死ぬことばかり考えていた

私の体に、初めてがんが見つかったのは、94年3月のことでした。手指の切り傷の治療に病院を訪ねると、「乳腺外来」という掛け札が目に入りました。そこで念のために、と軽い気持ちで検査を受けると、左の乳房に直径1センチにも満たない小さながんが見つかりました。病院では温存手術を勧められましたが、私は悪いところはすべて除こうと全摘手術を選択します。

左乳房を切除し、リンパ節を郭清した後も私の体にはほとんど何の変化もありません。2カ月後には、再びテニスに興じていたほどで、すぐに以前と同じ暮らしを取り戻すことができました。そうして長い歳月が経過し、担当医から「年に1度の検査も必要ない」と告げられた矢先に思ってもみない形で再びがんが姿を現わしたのです。

再発による骨転移が明らかになったあと、放射線治療とホルモン治療が行われました。それに加えて、ロープの上に座っているような不安定な状態を克服するためのリハビリ治療が始まりました。しかし、もちろんそのことで損傷した神経が回復するわけもありません。

日がなベッドに横たわって天井を眺めながら、私は絶望し、ひたすら死ぬことを考え続けていました。もっとも階段から転落するにも、窓から飛び降りることも自力ではできません。そうして、死ぬこともままならぬわが身を呪い続けることしか私にはできなかったのです。

「世界に一つだけの花」

写真:退院後2日目に、毎年の恒例行事となっている岩手県での自然保護イベントに参加

退院後2日目に、毎年の恒例行事となっている岩手県での自然保護イベントに参加

写真:02年、朗読会の舞台での田村さん
02年、朗読会の舞台での田村さん

そんな暗い毎日に転機が訪れたのは入院後、2カ月ほどたったある日のことでした。

たまたま目にした新聞で、興味深い展覧会が開かれていることを知った私は、心の中でそこに行くために「1度でいいから足を返してください」と神様にお願いしたのです。

私の心が開けたのはそのときでした。足があっても目が見えなければ展覧会を楽しめないことに気づきます。すると自分には目や耳や口が健在であることが再確認できたのです。それは絶望状態に陥っていた私にとってまさに「コロンブスの卵」というべき発想の転換でした。

「自分はまだまだ人生を楽しめる」――。目の前が開けたように感じている私をさらに励ましてくれたのが、ベッドの傍らに置かれたラジオから流れる、スマップのヒット曲「世界に一つだけの花」でした。

「オンリーワン」でいればいいんだ、というその歌詞にどれだけ私が勇気づけられ、希望を膨らませたことでしょうか。

しばらくして、そんな私にささやかな異変が起こります。

入院中、私はリハビリとともに頭の中で全身を動かすイメージトレーニングに励んでいましたが、そのさなかに足の親指がピクリと動いたのです。もちろん損傷した神経が回復するはずもありません。しかし、そのとき私には自らの体の中で、何かが伝わった感触がありました。そして、私はさらに回復の自信を強めることができました。

そんな半年間の入院を終え、自宅に帰った私を待っていたのは、子どもたちや友人たちのいささか手荒いけれど、心暖まる出迎えでした。

子どもたちは退院して2日目に、かっさらうように私を毎年の恒例行事となっている岩手県での自然保護イベントに連れ出し、ずっと以前から続けている文学作品の朗読仲間は車椅子の私をホールの壇上に上げ、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を朗読させました。こうして私は子どもたちや友人たちの励ましの中で、自宅でのリハビリ生活を送ることができたのです。

トイレだけは自力で済ませたい

写真:03年、家族の後押しで行ったハワイ旅行
03年、家族の後押しで行ったハワイ旅行

とはいえ、決してリハビリ生活が順風満帆だったわけではありません。

自宅に帰った私は、何としてもトイレでの用足しと下着の交換だけは自力で済ませたい、と願っていました。そのため退院後、すぐにリハビリ専門の病院を訪ねることにしたのです。するとその病院の担当医は、私の画像データを横目に「これだけ骨転移が進んでいてそれ以上何を望むのか」というのです。トイレはポータブル便器で、下着はオムツでいいじゃないかとも……。ドクターハラスメント(※1)、ここにきわまれりです。

しかし、それが結果的には幸いしました。医師の言葉に強く反発した私は何としても見返そうと自分に誓い、怒りをモチベーションに、さらにリハビリに打ち込むことができたのです。

その病院の院長は私の抗議の手紙に、深い陳謝を表し、自宅訪問でリハビリ治療に取り組んでいる専門医と理学療法士を紹介してくれました。その2人がとても素晴らしい人たちでした。リハビリの専門医は何より、意識を体に集中させることの大切さを教えてくれ、ほめることで私のやる気をさらに引き出してくれました。そうして私は自宅の廊下をはい回り、腕の筋力を高めるために壁に向かってゴムボールを投げ続けていたのです。

トイレに向かうときは、必死の思いで便座にすがりつき、腰掛けた後も動かないお尻の位置を四苦八苦して整えました。実際、ヘルパーとして私を支えてくれた友人は、便座が爪で傷だらけだったことにショックを受けたと後で話してくれました。

そうしてリハビリを続けるなかで私の意識も変わっていきました。退院したばかりの頃は、自分の姿を見られるのが嫌で屋外での歩行訓練は避けていました。しかし、いつしかありのままの自分を見られることが苦にならなくなりました。

また、子どもたちに連れられて出かけたハワイ旅行も忘れられません。ホテルでプールに入ると泳ぐことができ、何と水の中を歩くこともできたのです。このことはリハビリを進めるうえで、何よりの自信につながっていきました。

最初はフラフープがついたような大型の歩行器を使っていたのが、小型の歩行器になり、それがさらに4本の足のついた杖に変わりました。そして、何年もの後に私は普通の杖だけで自在に歩けるようになったのです。

※1 ドクターハラスメント=医師が言葉や態度の暴力で患者を傷つける

家族、友とともに人生を楽しむ

もっとも、リハビリで成果があがったからといって、転移したがんが消えてくれるわけではありません。

再発後2年が経過した03年には、がんが腰椎に再転移したために再び放射線治療を受けています。また、時間経過とともに治療の選択肢が少しずつ狭められているのも事実です。

再発直後にはアリミデックス(一般名アナストロゾール)というホルモン治療薬を用いていたのが、ゼローダ(一般名カペシタビン)という抗がん剤とアロマシン(一般名エキセメスタン)というホルモン治療薬の併用に変わり、さらに08年にはタキソール(一般名パクリタキセル)の治療も受けました。現在は別のホルモン治療とともに、半年に1度、メタストロン注(一般名塩化ストロンチウム)を体内に注入する放射線治療も継続しています。また骨の治療薬もアレディア(一般名パミドロン酸ニナトリウム)からゾメタ(一般名ゾレドロン酸水和物)に変わり、最近では全身の痛みが強くなってきたためにオピオイド(麻薬系鎮痛薬)のパッチも使っています。

そうして治療の変化を考えると、漠然とした不安があるのは事実です。しかし、それ以上に私は日々を楽しむことを大切に思っています。07年には中国、08年にはニューヨーク、ハワイに遊びに行き、さらに09年4月には香川県で金毘羅歌舞伎を楽しみました。

幸いにして私の周囲では子どもたちや友人たち、そして06年に入会した乳がんの患者会イデアフォーで知り合った仲間たちがしっかりと私を支え続けてくれています。彼らとともにこれからも精一杯、人生を楽しみたいと願っています。

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