妻と共にがんと闘った追憶の日々
君を夏の日にたとえようか 第20回
架矢 恭一郎さん(歯科医師)
顕と昂へ
君を夏の日にたとえようか。
いや、君の方がずっと美しく、おだやかだ。
――ウィリアム・シェイクスピア
若い頃の米国での生活が思い出される
2016年5月7日、半ドンの土曜日。天気もいいので、庭にイスとテーブルを準備して2人でお茶を楽しんでいた。気持ちがいい。外に出ると庭先だって本当に幸せな気分になれる。ああ、生きているんだ、と感謝したくなる。しかし、恭子は野山を歩くことはできない。近所を散歩することだってままならない。脳外科の医者の中には、それで手術は大成功だから贅沢をいってはいけないみたいに言う先生もいた。自分の奥様が近所もろくに歩けない、もう、生きている間ずっと、ちゃんとは歩けないとしたら……?
つと、恭子が立ち上がって、庭の草引きを始めた。私はあわてて止めるようにいうのだけれど、悪戯っぽく笑いながら恭子は草を引いている。「もうやめて、恭子。やめてよ」と言えばいうほど、恭子はいたずらっ子のように声をたてて笑いながら草をむしっている。私にたしなめられ心配されるのをまるで喜んでいるかのように……。
昨年の春から初夏にかけては恭子の容態も安定していて、よく山のほうに2人でドライブに出かけた。家から小1時間くねくねした山道を走ると、渓流沿いに工夫を凝らした食事のできる店が点在している。私たちのお気に入りは、バターパンが美味しくて地元の葉物野菜も販売しているアーリーアメリカン風の店。ランチのボリュームがあるので1つ頼んで、コーヒーを追加して2人で分けて食べた。
ほとんどの客が店内で飲食していたが、私たちは天気がよい日にしかその店を訪れないので、外の板張りのデッキで食事をすることに決めていた。風が香しい。渓流の音がなんとも心地よい。陽の暖かいこと。
家からほど近いこの山中の店での昼食は、私たちの闘病生活の中で、本当にホッとして、幸せの実感できる思い出のうちの1つである。
森にいると若いころの米国での生活が思い出される。私と恭子は結婚してすぐに、私の留学先だった米国のニューヨーク州北部にある山岳地帯アディロンダックで新婚生活を始めた。小さな細胞生物学研究所で研究をしていたころが思い出される。湖が点在して、深い森、透明な水を湛えた沼地が懐かしい。2人でカヌーを漕いで湖沼巡りをしたものだ。
その日、初め私はその渓流沿いの店を目指していた。ドライブに行くんだねと、恭子も弾んでいた。だが、恭子の様子をチラチラと横目で見ていると、どうにもしんどそうだった。倦怠感が漂い、頭がぼんやりしている風なのだ。私は途中で諦めた、私が無理に恭子を外に連れ出したかったのだから。道半ばの和風ドライブインでお茶を濁すことにした。車から降りると、恭子は庭がきれいだねと気丈に明るく振る舞ってくれた。私のほうが気落ちして、食欲もなかった。うどんを美味しいと食べながら、「パパ元気がないんだね、食欲がないの」と気遣ってくれる。情けない夫だ。
帰り道、入り慣れないスーパーマーケットで買い物をしたが、恭子は何を買っていいか考えがまとまらない。買いたいという意欲が減退している。思考が混乱している。そういえば、恭子は最近、集中力が低下して、面倒くさいとたびたび口にする。高次脳機能が侵されてきているのだと、私は思った。一層、落ち込んだ。
「パパは損な役回りだと思います。ママの最大の理解者でありながら必要悪でもあるからです。近すぎる関係だから、ときに煙たがられることもあるでしょう。パパのママに対する細々とした心配を、おくびにも出してはいけません。ママが不安になるだけだからです」と長男からのLINE。
その日は、厄日みたいだった。就寝前に、お茶を飲んだ恭子は久しぶりに嘔吐した。連休中に取り繕いを続けて、頑張り過ぎたのも手伝っているのだろう。恭子にしてみれば、取り繕おうなどという気持ちではなくて、自然と振る舞ってしまう明るさなのだ。誰に対しても思いやりと気遣いを怠らないのだから、相当にエネルギーを消耗するに違いない。それが恭子という人間なのだ。
恭子の57歳の誕生日
5月10日。恭子、57回目の誕生日。なんとか57歳まで生き延びてくれた。早く歳をとれ、長生きしろと祈りながら、57歳までこぎ着けた。1つでも年齢を重ねて欲しかった。ありがとう、恭子。57歳までは生きてくれたんだもんね。
おめでとう、恭子! 花束をプレゼントする。
恭子は自分の誕生日のお祝いに、折り畳み式の可愛らしい金属製の杖を買った。渋い紅に小さな白い桜の花が舞い散っている。恭子は歩くつもりだったのだ。杖を頼りに、リハビリに励んで、歩こうとしていたのだ。歩は日々おぼつかなくなっているというのに、恭子は希望を失っていなかった。思い通りに動かない自分の身体を嘆くばかりではなかったのだ。しかし、終ぞ使われることのない、杖となった。
脳外科の三島先生の診察に同行する。帰りの車中で、「薬は効いているみたいだね。頑張るよ!」とけなげに言ってくれる。悲しい……。
5月11日。家の近くの脳外科のリハビリと緩和ケア専門の病院で、脳神経外科医の浅間先生の診察を受ける。浅間先生は、三島先生のいる脳神経外科の部長だったらしい。なんと、この4月から今の病院に赴任されたそうだ。天の巡りあわせだ。心強く感じた。谷本先生はそのことをご存じで、私がこの病院にお世話になろうかと思うと話したら、浅間先生のことを教えて下さった経緯があった。恭子のCTを見ながら小脳テントの下は腫瘍が充満していて、その部の脳圧が亢進して嘔吐につながっているようなことをごまかしながら説明してくださる。
私と浅間先生のやり取りを聞いていた恭子は、「自分はかなり悪いらしい。いまのうちに片づけしないと」と闘病記録に記している。ちゃんと気取りながら、すぐにはそんな風を見せない。こころの強い人だ。普通なら、そう感じたら、嘆いたり、やけを起こしても、私に不満や不安をぶつけたって当たり前なのに……。
「午後合唱団の田代さんと本山さん来る。うれしい! 朝寝たあと少し片づけ。ケーキもお餅もうれしい。なかなか歌えない」(恭子の闘病記録)
5月13日。「父親の誕生日。話せてよかった。1日ごろごろ」(恭子の闘病記録)
恭子は少しずつ腹をくくって覚悟を決めていたのだろうか? 父親の誕生日に話せてよかったと、しみじみいう。自分が長くは生きられないことをわかっているのだ。それなのに、ひどく落ち込んだり、やけを起こしたり、悲嘆にくれたりする素振りを見せないこの人は、いったい何者なのだろうか?
「私、死ぬのは怖くないの。ただ、痛いのはイヤ」と以前に言っていたことを、このごろよく思い出す。
合唱団の仲間やさっちゃんが足しげく尋ねてくれる。さっちゃんが病気のことを詮索したりする興味がなくて、本当に自然体で、ただただ恭子と話しているのが居心地よくて、長話をしてくれるのが有難い。2人は時間を忘れてしゃべくる。
5月14日。恭子は長男のために、行きつけの皮膚科に薬を山ほど処方してもらいに車で出かけた。普段なら何でもないことにいろいろと手間取ったらしい。できにくくなってくる事が増えてきている。
寝る前にお茶を飲んで、トイレでたくさんもどしてしまった。「勿体ない、勿体ない」と言っている。食べることが好きな人だから、嘔吐の苦しさよりは、せっかく食べたものをもどしてしまうことが、勿体なくて歯がゆいのだ。
恭子は嘔吐しやすくなって、傾眠傾向もある。