震災に負けない特集・宮城県立がんセンターの地震発生72時間を追う

巨大地震発生!そのときがん患者は、看護師は、医師は

取材協力:片倉隆一 宮城県立がんセンター副院長
松田芳美 宮城県立がんセンター地域相談支援センター・がん看護専門看護師
発行:2011年6月
更新:2013年9月

  

未曾有の大災害。地震、津波、原発の三重苦に苦しめられている人もいる。これら被災者の方々にどう声をかけ、何をすればいいのか、戸惑ってしまう。「がんばれ」「がんばろう」の言葉が広がっているが、被災者たちの、家族を失い、家を失い、町や村を失った境遇に思いをはせれば、そうストレートに言えるものではない。落胆しているところへ鞭を打つ形になるからだ。そうではなく、がんばるのは、被災しなかった、あるいは被災の軽かった私たちだ。私たちこそがんばって彼らにサポートの手をさしのべればいいのだ。それを考える意味で、今回、震災特集を組んだ。被災者の方々、被災されたがん患者さんたち、どうか、震災に負けないでほしいと願って。負けなければ、希望が見えてくる。そしてその先には復興がある。

写真:宮城県立がんセンター

2011年3月11日午後2時46分、東北地方を中心に激震が襲った。 東北唯一のがんセンター・宮城県立がんセンターもその被害にあった1つだ。 震災当時、がん患者さんは、どのような状況にあり、がん医療に携わる医療者たちは、どのように対応していたのか。

意見を述べようとしたそのとき!

その日の午後、宮城県名取市にある宮城県立がんセンター2階の会議室では、月に1度の定例教育委員会議が行われていた。出席者は各診療科のベテラン看護師14名。1階の玄関わきに設置された相談支援センターに所属する「何でも相談」担当のがん看護専門看護師の松田芳美さんは、その会議で来年度の看護師の研修計画についての意見を提出する予定になっていた。

異変が起こったのは松田さんが意見を述べようとしたときのことだった。

写真:松田芳美さん

「患者さんを守らなければ」の一心で震災直後の対応に尽力したがん看護専門看護師の松田芳美さん

ドーンという衝撃が建物全体を揺さぶる。次いで前後、左右に激しい横揺れが続いた。松田さんは机の中に隠れ、目の前にある机と椅子の足を体に引き寄せるようにつかんでいた。

「揺れは激烈で10分近くも続いたように感じました。でも会議室には崩落するようなものはなく、机や椅子に気をつけていれば危険はないと確信できました。それよりも病棟や外来の患者さんのことが気がかりでした。なんとしても患者さんたちを守らなくてはと、激しい揺れに耐えながらそのことばかりを考えていました」

松田さんはそのときのことを述解する。

しばらくして、激しい揺れがようやくひと段落すると、会議の参加者は一様に茫然自失の表情で互いの顔を見合わせた。しかし、すぐに気を取り直し全員が自らの持ち場に直行する。松田さんも外来患者の安全を確保するために1階ロビーへと向かっていった。

――日本人の誰もが忘れ得ない2011年3月11日午後2時46分。東北・関東地方全域に未曾有の被害をもたらした東日本大 震災が発生した。東北地方で唯一、がんセンターの名称を冠され、383床の規模を持つこの地方のがん医療の拠点である宮城県立がんセンターも、もちろん被災を免れなかった。

被災後すぐに避難者が殺到した

地震発生と同時に病院は混乱 に陥っていた。

地震発生と同時に水、電力の供給がストップしたために、病棟ではすべての診療、検査業務が停止、食堂などの関連施設が設置されている7階は損傷が激しく、閉鎖を余儀なくされた。1階ロビーに向かった松田さんを待ち受けていたのは不安と困惑に満ちた外来の患者さんや避難者の表情だった。

「自宅には帰れるのか」「診療はどうなるのか」「患者はどうすればいいのか」

情報を持たない外来患者さんが矢継ぎ早に質問を浴びせかける。

高齢の女性患者の中には、先行きの不安のために卒倒しかけた者もいた。午後4時近くになると、外来患者さんに混じって、近隣地域からの避難者が多く訪れ始めた。それから数日の間に同センターに助けを求めた避難者は107名にのぼる。

後でわかったことだが、そのときには過去に例のない大津波が押し寄せ、仙台東部道路を隔てて同センターとは目と鼻の先にある同じ名取市の閖上地区を壊滅させていた。同センターからほんの数キロ、海岸に近いところでは、人々の暮らしは津波に押しつぶされていた。

宮城県立がんセンターでは、大規模災害発生時には、全職員がセンターに集まることになっており、そのときには自宅にいた職員も姿を現わし始めていた。しかし混乱する患者さんや避難者に十分には対応しきれていない。テレビで被災情報を知った松田さんは、外来ロビーに次々に現れる避難者を前に、同じ相談支援センタースタッフと話し合い、緊急受付を開設する。

「病院玄関にはすでに避難施設ではないことが告示されていました。でも避難者のなかには、糖尿病や高血圧などの慢性疾患などで治療が必要な人もいるし、地震や津波で自宅が壊され、着の身着のままで同センターを訪ねてきた人もいる。そこで緊急受付を設けて、帰れる人とそうでない人をトリアージ(選別)することにしたのです」

病院の反射神経というべき対応

写真:宮城県名取市の閖上地区1
写真:宮城県名取市の閖上地区2

東日本大震災で被害が甚大だった宮城県名取市の閖上地区。宮城県立がんセンターは同市にある

それは災害訓練では行われたことのない、病院の反射神経ともいうべき対応だった。松田さんたちは1人ひとりの避難者の状況を聞き取り、医師と相談しながら、入院が必要な人、避難者として受け入れる人、別の避難所を紹介する人に振り分けて、混乱を収束させていく。そうした対応でやっかいなのは慢性疾患の患者さんへの薬剤の選別だった。

「高齢の患者さんの中には、自分が使っている薬がわからない人も少なくない。そこで薬剤師に協力してもらって、何種類もの薬をカウンターに並べて、患者さんと話し合いながら薬剤を特定しなければなりませんでした。そうして従来の処方の3分の1の10日分の薬をお出ししたのです」

さらに時間が経過して、災害時の提携が決まっていた、隣接する仙台高専の学生に協力してもらい、リレー方式で乾パン、缶詰などの非常食による夕食が各階の病棟に運搬された。

とはいえ治療再開の目途は立たず、外部との連絡が途絶えたまま。エレベーターも使えない。懐中電灯を手にトイレで用を足した後は、水は流せるものの、紙類は自分で処理しなければならなかった。病室を照らす非常灯の頼りなげな明るさは、そうした入院患者の不安を象徴しているようでもあった。

地域医療サポートに全力を

写真:片倉隆一さん

「地域医療の復興が被災者、そしてがん患者さんの利益につながることを実感」と話す副院長の片倉隆一さん

地震が発生したとき、同センターの副院長で脳外科の医師、さらに名取市医師会の副会長でもある片倉隆一さんは、2階医局で執務中だった。

激震が収束すると、片倉さんは守衛室に直行し、各病棟の情報を収集、患者の安全を確認する。そして、その夜から同センター理事長を議長として、片倉さんも含めて診療、検査、ライフライン管理などのトップが集まる災害対策会議が招集された。初回の会議のテーマは、震災の中での同センターのあり方の確認だった。

「会議では2点の活動目標が確認されました。1点はできるだけ早期にがんセンターの病院としての機能を回復させ、他病院の患者さんの受け入れも含めて、被災地域全域のがん患者さんを守っていこうということ。テレビやネットなどの情報で、他地域ではもっと深刻な被害を受け、長期間にわたって治療が困難になる病院も出てくると予想されましたからね。もう1点はがん以外の患者さんも含めて、地域の医療活動をいかに支援していくかということでした」

この2つの活動目標は、背反しているようで実は通底していると片倉さんはいう。

「私たちががん患者さんを守っていくためには、地域の他の医療機関に一刻も早く本来の機能を取り戻してもらわなくてはならない。そこで、それまでの間は、私たちも積極的にがん以外の患者さんにも対応していくことを決定したのです」

そのとき片倉さんの脳裏には何年か前に聞いた、震災時の神戸での医療活動についての講演内容がよみがえっていた。それは通常の医療体制の復旧が結局、患者さんにとって最大の利益につながるというものだった。

こうした目標を実現するために、同センターではまず検査、手術待ちなどで入院している患者さんには帰宅してもらった。病院にいても当面は治療や検査は受けられない。それなら、より入院を必要とする人のためにベッドを空けて病院自体を身軽にしておこうという判断だ。と同時に24時間体制で、応急処置が必要ながん以外の患者さんに対応することも決定した。

もっとも、その時点では医療活動はもちろん、病院での生活にも不可欠な水は2、3日分のストックしかなく、電力は自家発電に切り換えていたものの発電機を稼動させるための重油の補給が途絶えており、先行きは まったく不透明な状態だった。そんななかで片倉さんは、名取市医師会と協議の末、名取市内の薬品流通企業敷地内に、市から委託され名取市医師会が運営している休日夜間急患センターに、県立がんセンターの医師3名、看護師4名、薬剤師1名による医療支援部隊の派遣を決定する。

「急患センターは病院で診察が受けられない土、日曜に限って開設されていた。それ以外の平日の診察を私たちが実施することにしたのです。もっともガソリンが欠乏しており、避難所の患者さんには急患センターに出向く足がない。そこで名取市医師会長が市長にかけ合い『なとりん号』と名づけられた市バスを利用し、各避難所や同センター、急患センターを回ってもらうようにしたのです」

こうして臨時に開設された急患センターでは、慢性疾患患者を中心に、最大で1日120人もの人たちが受診した。さらに片倉さんは、それとは別に体調不良などで移動が困難な避難所の患者さんのために、近隣の宮城社会保険病院の協力を得て、担当する避難所を割り振りし、各医療チームによる巡回診療を開始した。

そうして宮城県立がんセンター対策本部は、開業医を中心とした地域医療がダメージから立ち直るまで、同センターの医療者を積極的に被災者の救援に関与させた。それが結果的に地域医療のそして被災者の自立につながっていくとの判断からだ。

そうした活動が功を奏したのだろう。数日後、政府から医療支援の打診があったときには他地域を支援して欲しいと、名取市はその申し出を辞退したほどだった。


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