大がかりで困難といわれる食道がん手術に、胸腔鏡が登場!
開胸よりも厳密な手術を――食道がんの胸腔鏡下食道切除術
大阪市立大学第2外科・
心臓血管外科准教授の
大杉治司さん
食道がんの手術は、がん手術の中で最も大がかりな手術の1つ。
体への負担が大きいことでも知られています。
ここに胸腔鏡を導入したのが、大阪市立大学第2外科・心臓血管外科准教授の大杉治司さん。
合併症が少ないだけではなく、手術成績の向上にもつながる胸腔鏡下食道切除術とは。
高い治療成績と体への負担
食道がんもごく早期ならば、内視鏡による摘出が可能です。T1b(食道壁の粘膜下層にとどまるがん)からT3(食道壁の外膜に及ぶがん)になると、抗がん剤と放射線治療を併用した化学放射線療法という選択枝もありますが、基本的には手術が標準治療とされています。
しかし、食道がんの手術はかなり大がかりなことで知られています。食道がんは広範囲のリンパ節に転移しやすく、日本では1980年代後半に「3領域郭清」という方法が確立されました。これは、首、胸、腹と3つの部位を開き、がんができた食道を切除すると同時に、各部のリンパ節を丁寧にかきとる方法で、これによって食道がんの治療成績は向上してきたのです。
リンパ節転移の有無は、外からはわかりません。実際に大杉さんは7000個あまりのリンパ節で大きさを測定し、転移診断ができないかどうかを調べたことがあるそうですが、やはりこれではわからない、というのが結果でした。直径3ミリのリンパ節で転移があるものもあれば、1センチでも転移がないものもあります。したがって、「進行期に応じて、決まったリンパ節を画一的にきちんと郭清することが重要」だといいます。これを実現したのが、3領域郭清だったのです。
その結果、「日本の食道がん手術は、欧米よりはるかに精度が高く、治癒率も倍ぐらい高いのです」と大杉さんは語ります。欧米では、日本のように系統的にリンパ節を切除することに対して、あまり積極的ではなく、腹部だけを開いて食道を切除する方法が中心とのこと。それが、こうした治療成績の差につながっているともいわれています。
しかし一方で、日本では3つの領域から手術を行うため、食道がんの手術は体にも大きな負担となります。「日本胸部外科学会が2万件以上の食道がん手術を調査したところ、在院死(退院できずに死亡すること)も含めて手術死は4.3パーセントに上っています」と大杉さん。手術で亡くなるだけではなく、手術後の肺炎や縫合不全などの合併症も多いのです。それでも、以前に比べると在院死はかなり減少しており、日本ほど大がかりなリンパ節切除を行わない欧米の手術に比べても半分なのだそうです。
このように、日本の食道がん手術は精度的にも治癒率からみても、世界のトップレベルにあります。しかし、手術が大がかりなので、国内で行われる胃がんなど他のがん手術に比べると手術死や合併症が多いというのも、また事実なのです。化学放射線療法が期待される理由の1つも、こうしたところにあります。
これに対して、大杉さんらが導入したのが、胸腔鏡。3領域郭清のうち、胸部を開胸するかわりに胸腔鏡を導入したのです。
「最初は、せめて傷を小さくしたいと思って始めたのですが、今では、より手術の精度を高め、治療成績の向上につながることがわかってきました」と大杉さんは話します。
触覚を上回る胸腔鏡の視覚
大杉さんが、食道がんの手術に本格的に胸腔鏡を導入するようになったのは、1996年のことです。それまで、胸腔鏡による食道の手術は経験がなかったので、技術を習得するための準備が大変だったそうです。「手術に勇気は不要、なにより大事なのは安全で確実に行うこと」が大杉さんのモットーだからです。
しかし、胸腔鏡で手術を行うようになって、以前とは全く異なる世界が開けてきたといいます。「胸腔鏡は、手で手術部位に触れることはできませんが、カメラで内部を拡大してみることができるのが、最大のメリットです。開胸手術では、目は術野の外にありますが、胸腔鏡の場合、体の中に目をいれたのと同じように、好きな部位を拡大してみることができるのです」と大杉さん。
通常、胸腔鏡でとらえた内部の状況を20インチのモニターに拡大してみるので、実物の5~10倍の大きさに見えるわけです。たとえば、首には「反回神経」という直径1ミリほどの細い神経が走っています。これは声帯の動きを支配する神経で、この神経を傷つけると声が枯れたり、誤嚥の原因になることが知られています。この細い神経が、まるで2~3センチもある太いロープのように見えるのです。もちろん、反回神経から枝分かれするさらに細い神経もはっきりとみることができます。
「私は、解剖学の専門家ではありませんが、胸腔鏡で胸の術野をみていると、学生時代に解剖学で教わったこととは、かなりズレがあるのですよ」と大杉さん。こうして胸腔鏡でわかった解剖学は、学会などで機会があるごとに発表しているといいます。つまり、胸腔鏡で拡大して胸の中の状態を観察することで、新しい解剖図まで見えてきたのです。
これは、手術の考え方にも大きな影響を与えました。たとえば、リンパ節は神経や血管の周囲にからみつくように存在し、周囲には脂肪がまとわりついています。この時、神経を剥離すると血管が傷ついて血液不足で神経が障害されるといわれていました。ところが、「これは間違いです。神経には血管が入っていないのです」と大杉さん。胸腔鏡で観察すると、神経を束ねる膜(上膜)の中を走る血管まで見えるそうです。つまり、神経ギリギリのところで精密に剥離すれば、血管を傷つけることもなく「1滴も出血はしないはずなのです。アバウトに神経を剥離するから出血するのです」と大杉さんは説明しています。
外科医にとって、術野に触れることができないというのは、これまで大きなデメリットでした。開胸手術ならば、どこかで出血すればすぐに手で抑えて、応急的に止血することができます。処置しやすいように、手で臓器などを牽引することもできます。「そもそも、手術の指導そのものが、触覚を基本にしたものでした」と大杉さんは指摘します。しかし、今や胸腔鏡の優れた視覚は、触覚のデメリットを補って余りあるものになっているのです。
厳密になったリンパ節郭清
小開胸創の位置と術者の立ち位置]
「胸の傷を小さくするという当初の目的は、今ではおまけのようなもの。厳密にリンパ節をとり、正確に手術をすることのほうが、今では胸腔鏡手術の大きな目的になっています」と、大杉さんは話します。
胸腔鏡など内視鏡を使った手術というと、「傷が小さく、体への負担も軽い手術」というイメージを持つ人が多いでしょう。しかし、それだけではないのです。食道がんの胸腔鏡手術の場合、確かに傷は小さくなります。右の図のように、胸腔鏡と手術器具を挿入するための小さな切開を4カ所、それに圧迫用のヘラ(気管鈎)を入れるために5センチほどの小切開を入れるだけですから、大きく開胸する手術に比べて傷が小さいのは確かです。しかし、手術そのものは、前述のように厳密に行われるわけで、決して簡単な手術になったわけではないのです。
「リンバ節郭清の範囲が広くなったわけではありませんが、概念的に深くなったとはいえると思います。そして、不要なことはしないのです」と大杉さん。リンパ節をとる範囲は開胸手術と同じです。しかし、胸腔鏡ではその視野を生かして、「神経の1本1本、神経の束を包む神経上膜まで確認しながら」リンパ節をとっていくのです。
「我々は、脂肪組織も一切残さないので、欧米の人が見たら解剖図かと思うほど精巧だと思います」
そういう意味で、リンパ節郭清が「深く」なっているというのです。したがって、手術時間もそれほど短縮されるわけではありません。大杉さんによると「開胸手術は、胸の開け閉めがあるので、その分、胸腔鏡を使ったほうが短縮されるかもしれません。通常、胸腔鏡でも4~6時間ぐらいかかるのですが、我々は2時間半ほどで終えています」。
これだけ、厳密な手術がスムーズに行われるのは、チームとして胸腔鏡手術が研鑽されてきたからです。大杉さんたちは、手術を執刀する術者と助手2人、計3人の医師で胸腔鏡手術を行っています。この中で、胸腔鏡を保持する医師は、10年も胸腔鏡を専門に担当しているといいます。したがって「言葉がなくても、手術の手順がわかるのです。指示をしなくても、必要な部位にカメラがサッと移動します」と大杉さん。こうしたあうんのチーム医療、チームとしての技術力の向上が、胸腔鏡手術には欠かせないのです。
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