脳腫瘍を傍らにした元看護婦の心のカルテ

オルゴールがおわるまで 第4回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2019年9月
更新:2019年10月

  

残間昭彦さん(スウェーデンログハウス株式会社代表取締役)

ざんま あきひこ 1962年8月新潟県新潟市生まれ。保険会社勤務の父の転勤に伴い転居を繰り返す幼年期を過ごし、11歳以降は埼玉の地にて少年期から青年期を過ごす。1981年埼玉県立大宮武蔵野高等学校普通科を卒業 。1983年東京デザイナー学院インテリアデザイン科を卒業後、室内装飾及び建築業関連の職につく。1987年、独立起業して一般建設請負業の会社を設立。1994年、スウェーデン産ログハウスの輸入及び国内販売を手がける。2001年、信州安曇野へ移住。著書に『白夜の風に漂う―ビジネスマンが歩いたスウェーデン―』『八月の交響曲―忘れてはいけないことを忘れるために―』がある
元看護師の母が命というテーマに対峙した脳腫瘍闘病記「ありがとうをもういちど」を刊行して、がん専門病院・施設に届けることを目標に、クラウドファンディングを行なっています。詳しくは、下記URLをご覧ください。残間昭彦
https://camp-fire.jp/projects/view/182377

いつか本当の最後が来てしまうのか

2016年3月29日(火)晴 夜、母のアパートで風呂をつかった後、棚の上のカセットケースを何げなく手に取り開けてみた……。 やっと見つけた……、ずっと探していた40年以上前のあのテープがこんな所に隠れていた。

それは、まだ若い母が私たちのために歌い残した童謡・唱歌の歌集であり、「子や孫に聞かせるための歌」と、メモがはさんである。

けれど、録音後、それを聴いたことはなく、目にすることさえなかった。4本のテープには3百曲もの歌が入っており、更にその最後に母のメッセージが録音されていた事に私は驚いた。

「お前が大きくなった時、この厳しい世の中を生きて行くには色んなことがあるのよ……」といった呼びかけから始まり、「人に紛動されず、真面目に生きていってちょうだい……」と、約6分にわたり語られている。

これはまるで遺言ではないか……。まだ40歳にもならない母が言う言葉にしてはあまりに妙だ。

もしや、いつかのように、また家出でも考えていたのだろうか。あるいは、まるで晩年の自分が声を無くしてしまう事を知っていて残したかのようではないか……。そんな想いが胸に込み上げ、私は涙に咽(むせ)んだ。大した母であり、大した愛情である。

3月30日(水)晴 ともかくも、母に早く聴かせてあげたい、そして話がしたい……。私は珍しく、昼前の病院へ駆ける思いで急いだ。

母は、ちょうど食堂へ移動するべく、車椅子に座ったところであった。私はすぐにでも伝えたい衝動を抑え、その背を押した。 食事の膳が用意されるまでには少し時間がある。

「やっと見つけたよ……。40年前にお母さんが歌ったテープ。まず聴いてみようか……」

看護師たちも、「わぁー、素敵な声。これ、ザンマさんが歌っているの……」

「そうそう、大昔にお袋が私ら子供のために歌ったものですよ……」

母は時々、昔の自分の声に合わせて歌おうとするが節にならず、代わりに左手で拍子をとって歌っているつもりになる……。

それでも母は充分に楽しそうで、顔の表情も急にしっかりとし、昨日までの消沈が嘘のようだ。 まさか、40年も前の自分の歌声に励まされるとは、何とも不思議な光景である。ガシャンと、テープの片面が終わった時、「アキ……、ありがとう」と、目を潤ませ母は言った。

4月2日(土)曇 あいにくの曇天であるが、待ちに待った日帰り外出の日がやって来た。花見をかね、祖母の墓参へと出かけるのだ。母は、遠足の朝を向かえた子供のようなソワソワ顔で待っていた。

下部の温泉街を横目に見て、くねった山道を少し登ればすぐに当家菩提寺に到着だ。墓碑は山斜面の2段目にあり、当然、母の足で直に参る事は叶わない。

けれど、車中からも認められ、私たちが参る姿を母も見ていられるので安心だ。側には樹齢200年を超える見事な桜の木が鎮座し、草葉の祖母と共に「ヨシ子、久しぶりだね……」と、迎える。

本堂へご挨拶に上がると、住職尊師は奥の庫裏(くり)から出て見えられ、墓誌(ぼし)脇に塔婆(とうば)を立て読経の後、車中の母へもしばしお話を下さった。

「病気というものは肉体に現れる1つの現象ではありますけれど、実は、目に見える病気は本当の病いではないんです。真に重い病いと言えるのは、仏に不信や誹謗を持ち、親や師に讐(あだ)を為すような人のことであって、心を病んだ状態を言います」。母は、尊師の眼差しを凝視し、もの言わず深く頷いた。

客殿へ赴くと参拝者の数も増えてきた。車椅子の移動で裾の乱れた母に、「あんまり、はだけた足を見せていると、参詣のお爺ちゃんたちが、色めき立っちゃうから気をつけてね……」と、裾の着付けを直しながら冗談を言うと、母は腹をかかえるようにして大笑いした。

そしてそれは、母が声を出して笑う最後になる事を、この時の私は知らなかった。こうして、母の最後が1つ2つと増えていく……。

きっと、母が最後に歌う日、最後に子の名を呼ぶ日、最後の食を口にする日 ……。そうしていつか、本当の最後が来てしまうのか。

ともあれ、これが母の冥土(めいど)の土産となったわけであり、翌日、「とにかく……、とにかく、楽しかったー」と、しみじみ母が言ってくれたのは何よりであり、行って良かった、行けて本当に良かった……。そう、つくづく思えた 最後の旅である。

思いっきり涙を流したいだろうに……

車中から桜を見るヨシ子さん

4月16日(土)晴 今日は絶好の花見日和……。

「桜の季節まで生きられたとしても、その頃にはベッドから離れられないようになっているでしょう……」と、田上医師に言われた母を車で連れ出した。なのに、母の顔は冴えない。喜んでいるのかどうかもよくわからず表情が薄い。でも、これが最後の花見になるのか……というような悲愴感はない。それほどに気持ちの良い青空と桜花であることに感謝。

有明神社、早春賦碑、穂高公園、そして我が家の前の借景桜……と、界隈の桜花名所をぐるりとめぐり終えてふと思い出した……。去年の春、散歩先の母から、「南小学校の桜がものすごいよ、お前も見においで……」と、電話を受け、行った事がある。確かにそれは見事であり、いつも車で通り過ぎるだけの私には気づくことのない小さな感動だった。

「あの桜を見てから帰ろうか……」と、言うと、どうしてだか母は必死でイヤイヤをする。もう疲れたのだろうか……。残念だが仕方ない。

来る年も 蘇(かえ)ると約す
爛漫を
見おさめる母 如何に観るらん

4月20日(水)晴 立つはおろか、座っている力さえ今はもうない。いったい、人間がこんなにもなってしまうものだろうか。まるで人形のように、支えがなければ1秒ともたずにクタっと倒れてしまう。でも良い、それでも良い。かつて、母がその母に「母ちゃんがダルマみたいなったって、ヨシ子が面倒見てやるからね……」と言ったように、私も同じ事を言ってあげた。

4月22日(金)晴 夕食後、部屋へ戻るなり母が何か言いたそうにした。喋ろうとする母の気持ちが折れぬように、ベッドに戻すのも電灯をつけるのも後回しにして、私はしゃがんで母の口元へ耳を近づけた。

「お母さん、仕事あまりしてないよ……」と、母は悲しそうに顔を歪め、ようよう言葉を発した。 何ら生産性のない日々を送り、ただ他人の世話になるより仕方のない自分を不甲斐なく思っているのか、「やだよー」と、悲痛に首を垂れ、泣きじゃくった。

「お母さんは、もう充分に働いたよ。むしろ、若い時に働き過ぎたから疲れちゃったんだよ。16(歳)のころから看護婦やって、休みの日もろくに休まず、俺たちを育てるために配膳会や化粧品のセールス、土方紛いの仕事までしていたじゃないか。だから、もういいんだよ。大威張りで、ゆっくり休んでいれば……」

事実そうである……。長年の苦労とストレスは祟(たた)り、平成4年、55歳で初めての脳梗塞を発症。看護婦を辞めるきっかけとなった。

「仕事いっぱいさせてごめんよ……。悪かったね……。だから、もう何も遠慮することなんてないんだよ。今のお母さんの仕事は、音楽を聴いて楽しい気分になる事と、ちゃんとご飯を食べて美味しいって思う事。楽しい、美味しいっていう実感が生きている実感になるんだから ……」

涙は心を浄化する……。けれど、母の病気は、その機能までをも損なってしまった。

母は「ありがとう、ありがとう……」と繰り返し、顔をクシャクシャにして泣いているが、涙は少ししか出ない。もっと大声をあげて、ボロボロと思いっきり涙を流したいだろうに……。

「近頃は、頭に雲がかかったように、夢をみているような時があるでしょ。これから、そんな気分になる時間が多くなっても不安に思っちゃいけないよ。それは、お母さんが苦しまないで済むように麻酔をかけてくれているんだから。

そういうのを〝天の配剤〟って言うんだよ。この身におきる全ての事を空の上で誰かが見ていて、必要な事を必要な時に起こすんだ……」

少し複雑な話を、母は頷きながら真剣に聞いている。

脳腫瘍の患者は、先ず人の話が理解できにくくなるらしい。母もその症状はとうに出ていることだろうに、くどくどとした話に飽きる様子も見せず、一所懸命に解ろうとして耳を傾けている。

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