脳腫瘍を傍らにした元看護婦の心のカルテ

オルゴールがおわるまで 第6回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2019年11月
更新:2020年2月

  

残間昭彦さん(スウェーデンログハウス株式会社代表取締役)

ざんま あきひこ 1962年8月新潟県新潟市生まれ。保険会社勤務の父の転勤に伴い転居を繰り返す幼年期を過ごし、11歳以降は埼玉の地にて少年期から青年期を過ごす。1981年埼玉県立大宮武蔵野高等学校普通科を卒業 。1983年東京デザイナー学院インテリアデザイン科を卒業後、室内装飾及び建築業関連の職につく。1987年、独立起業して一般建設請負業の会社を設立。1994年、スウェーデン産ログハウスの輸入及び国内販売を手がける。2001年、信州安曇野へ移住。著書に『白夜の風に漂う―ビジネスマンが歩いたスウェーデン―』『八月の交響曲―忘れてはいけないことを忘れるために―』がある
「オルゴールがおわるまで」
待望の書籍化決定
2020年7月発売 <幻冬舎刊>
題名:ありがとうをもういちど
副題:〜 去りゆく母の心象風景 〜
● 残間昭彦 著
● 単行本(四六版 / 300頁)
● 1,200円(税抜)

https://www.sweden-loghouse.com/event/5110.html

母の目頭から一粒の涙が落ちた

2016年7月22日(金)晴 夕方、高瀬医師から話があった。

「私の見解では、そろそろ終末期に入ってきたと思うんですが、だけど非常に穏やかな入り方です。 脳腫瘍の患者さんの末期が、これほど穏やかであることに正直驚いています。

もっとも私の専門は内科ですから、転移性の脳腫瘍は沢山診てきているけれど、初めから脳腫瘍という人を看取る経験はあまり多くないんです。

が、それにしても、こんなにも苦しまず、穏やかで落ちている末期の患者さんは、経験上ほとんど知りません。腫瘍はこんなに肥大しているのに、頭痛も発熱も嘔吐もなく、それに、肝不全・腎不全・心臓への影響もなければ肺炎も起こさない……。

どうしてそうなのか不思議なくらいですが、お母さんにとっては大変幸せな事です。この状況だと、もうしばらくは大丈夫だと思いますけど、お盆を過ぎたころには……。

まぁ、このまま、静かにいってくれるといいんですけどね」

7月26日(火)雨・曇 母の入浴に立ち会うのは初めてのことだ……。ストレッチャーに移った母が、何やら言いたげな顔で私を見上げ、タオルケットからそっと手を出した。握るその手に、かつてのような力はない。

廊下を移動しながらもじっと目を逸らさず、次第に眉間にシワがより小さく口が動いた。

「まるで大手術にでも向かうみたいな深刻な顔するなよ……」と、冗談を言うと、ついに母の目頭から一粒の涙が落ちた。

浴場で、初めて母の裸体を見て愕然とした。マッサージをしていると、腰骨がやけに尖っているもので想像はしていたし、2カ月も食事を摂ってないのだから当然と言えば当然なのであるが、目の当たりにするとやはり……。思わず袖に目を拭った。

(体重:43㎏、先月より4㎏減、入院前より17㎏減)

急速にその日は近づいている

左脳の腫瘍が脳梁を越えて右脳に浸潤したMRI画像

8月6日(土)晴 今日は穂高駅前で盆踊り……。病院からは目と鼻の先だ。

それで、どうしても母をつれて行ってあげたいと思い、1週間前から外出願いを頼んでおいた。ところが、今日になり外出許可が取り消され、母との約束は反故になった。

移動に際する振動で痙攣を起こす可能性など、理屈をいろいろ言っていたが、つまりは、目のとどかない院外に出るということ自体が問題なのだ。

無論、予期しえぬ身体トラブルへの懸念はもっともであり、ありがたい気づかいだとは思う。けれど、母にとっての祭りや盆踊りがどういうものであるのか……、最後になるやもしれぬこのチャンスがどれほど大事なものであるか……。

とは言え、病院にとっての無事優先と医療責任という言葉の前には手も足も出せず、いずれにせよ、ドクターの許可がなければ車椅子も貸し出せないと言うのであれば仕方がない。諦めて、またビデオで我慢してもらうよりない。

いつかしら おぼえず杖を
放り投げ
踊りに興ずる 母を見た夏

71年前の今日、広島に原爆が落とされた。その忌日(きび)が私の誕生日である。

「誕生日というものは自分が生まれた日を祝うのではなく、命がけで産んでくれた母親に感謝をする日である……」そう、誰かが言っていた。

まして母は、私たち2人を帝王切開で産んだのだから、文字通り命がけだった事は言うまでもない……。

阿鼻(あび)の忌(き)に 腹を破りて
命受く
この身の成せる 使命(さだめ)しりたや

9月5日(月)晴 高瀬医師「前回のMRIから約4カ月経過したわけですが……、とうとう脳梁(のうりょう)を越えて、左脳の腫瘍が対側(右脳)へ浸潤してきています……。

このように、脳幹部を圧迫しはじめると、血圧・脈拍・呼吸の安定を失い、頭痛や嘔吐などの症状が頻繁に起きてきます。ですが、あまり辛そうであれば麻薬を使いますので痛みはなくなります。

本来なら、ずっと前の段階でそういう症状が出ていなければおかしかったと言えるくらいですから、お母さまは運が良いと思います。もっとも、私もこんなに大きくなった脳腫瘍は見た事ないですが……」

私は呆然とモニターを見つめ、問う言葉もなく、ただ座っているだけだった。要するにそういうこと……。徐々に、否、急速にその日は近づいているということだ。

「どこへも行かないよ……」

9月8日(木)雨 秋の秋霖(しゅうりん)……いつの間にやら暑い夏は過ぎ、もうこんな季節になってしまった。 シトシトと降る雨の音が、私の気鬱(うつ)をいっそう強くさせる。けれど、こうして母の顔を眺めている時だけは、しばし気分の落ち着く刹那である。

思考能力の有無は既に疑問……と、言われた母が、今こうして歌っている。

左足で拍子をとり、心の中で懸命に歌っている 母のお気に入りは、森繁、美空、古賀、小鳩……と、数ある中、反応が顕著なのはやはり倍賞千恵子が一番のようだ。

こんな母を見ていると、終末期という引導(いんどう)を渡されたのも忘れてしまいそうだ。高瀬医師の予見は、幸いにして当たる気配を見せない。

9月28日(水)小雨 夜になり兄が来た。「お母さん俺だよ、和雄だよ、おいわかるか……」。10秒ほどして、「あー、あー」と、目を閉じたまま返事をした。

それからさらに数分、僅かに薄目を開け、兄の姿を認めた。

「和雄だよ、わかるかい……」、兄の問いかけに瞬きで答え、すぐにまた目を閉じた。たった数秒の対面ながら母は喜んでいるに違いない。

10月4日(火)晴 おそらく20年は昔のものであろうか、カラオケ喫茶で母が歌ったテープをかけると、そこには破天荒なまでに陽気にはしゃぐ母がいた。すると、母の息はしだいに荒くなり、昔を思い出して興奮しているようだ。

そして、「歌いたいよー」と言うかのように、顎を動かし「あー」と何度も声をあげた。音量が気になり、廊下のドアを閉めに行こうとした時、「行っちゃだめ」と、握る手を強めて拒んだ。「大丈夫だよ、ずっとここに居るから。どこへも行かないよ……」

母は開かぬ目蓋を瞬きさせた。

微塵の苦悶もなく自然と息を閉じた

10月5日(水)晴-雨 28年前、昭和最後の年……。曲がりなりにも29年連れ添った母と父が離婚した。おそらく、これはその秋の事。新潟で1人暮らしをしていた祖母を久しぶりに母が訪ね、その時の様子を母はカセットレコーダーに録音している。

きっと、母自身でさえとうに忘れていたであろうそのテープを、母に聴かせるべく勇み持ってきた。実家の居間で2人〝 ちゃぶ台 〟をはさみ、食事をしながら実にたわいない話をしているだけのものを、いったいどうして母が記録に残そうと考えたのかは想像に叶わないけれど、どうしてか今日は、それを聴くための万端の準備が出来ている。

先刻から母は、近ごろでは珍しいほどしっかりとした顔つきで、なぜだか大きく開いた目を輝かせて何かを待ちわびているようでさえある。戦中戦後の古い話から別れた父への愚痴、それから私たち子供の心配等々。

そして、それに一つ一つ親身に応える祖母の声。母は、祖母の写真を見つめながら一心に傾聴している。その集中は10数分つづき、しばらく目を閉じたかと思えば再び目を開けるのを繰り返した。

何もかもが不思議でしかない。母がこれを残し、私が見つけたこと。それが今であったということ。昨日までは目さえ開けられなかった母が、今日はこんなにもキラキラする瞳を見せていること。そして、母が言いそびれていた言葉がここにあるということ。

10月6日(木)風台風 雨はほどでもないが、風ばかりがひどく強い。けれど私の心は、逆に凪(なぎ)模様で穏やかである。ここしばらくの気鬱が嘘のように晴れているのが不思議だった。

以心伝心……。その気持ちは母にもわかるのか、今日もまずまずご機嫌の様子で私を見る。その顔に「いい夢でも見たのかい」と、問えば、「ぁー」と、小さく答え、私の手を強く握った。今日は、何より平和な日である。

10月7日(金)快晴 親の生が永遠でなきは必然、子より先に逝くも道理、愛別離苦(あいべつりく)が免れ難きも必定。そう納得はするものの、未練おびただしき也。

今に思えば、昨日までのあの数日は燃え尽きる前の蝋燭(ろうそく)の炎のようであった……。昨日の台風のおかげで、雲一つなくなった秋空へ母は静かに昇っていった。その顔は、本当に眠っているように穏やかで、微塵の苦悶もなく自然と息を閉じた。

野辺送りの装束は大好きだった看護婦の白衣を着せてあげ、死化粧はなれぬ私の手でした。そして、最後の瞬間を看取ってくれた赤木師長が、ナースキャップを母の頭へつけてくれた。午後1時40分……、高瀬医師が私の手をとり、そっと母の手へいざなった。

忘れまじ 昨夜 掴みし
手の温み
されど今日(いま)の其(そ) なぜに冷たや

母は、死への恐怖を覚えず、生への無用な執着も捨て、ひたすら静かに終焉を迎えた。(つづく)

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