食事は栄養のためだけではない! がんと闘う自信や希望をも生む
がん医療の現場で見直される「口から食べる」大切さ

監修:中川原章 千葉県がんセンター センター長
取材・文:常蔭純一
発行:2011年2月
更新:2019年7月

  

中川原章さん 千葉県がんセンター センター長の
中川原章さん

もし口からものが食べられなくなったら……。なんて味気ない、なんて楽しみのない人生だろうか。
これはがん患者さんにとっても同じだということが、今がん医療の現場で再認識されだしている。
食べられない患者さんにも、食べられるように食材や調理法に工夫を凝らす努力が行われ出したのだ。

「食べる」ことから始まるがんとの闘い

人は食べることで生命を、健やかな暮らしを維持することができる――この当たり前だが、ともすれば見過ごされがちなことが今、がん医療の現場で見直され始めている。

「がんと闘うのは患者さん自身で、外科手術、抗がん剤、放射線などによる治療はあくまでも、がんとの闘いをサポートする手段に過ぎません。がんを抑え、がんと共存するには何より、その人が体力を保ち続けなければなりません。そのためには食べるということが基本的かつ不可欠の条件です。そして、さらに食べることはその人の自信や希望にもつながっていくのです」

と、「食」の重要性を指摘するのは千葉県がんセンターセンター長の中川原章さんだ。同センターが推進する「食と栄養のトータルケア」プロジェクトの発案者でもある。

がん患者さんの中には「食べる」という人間のもっとも基本的な機能が損なわれている人が少なくない。

たとえば食道、胃、大腸などの消化器系がんが進行すると通過障害、嚥下(飲み込み)障害のために食事が困難になることが多い。また、それ以外のがんでも転移が起こるなど、症状が重篤化すると悪液質と呼ばれる体液のバランスが悪化する状態に陥って、心身ともに衰弱し、食欲が極端に低下する。さらに放射線や抗がん剤治療の副作用で口内炎や味覚障害が発生し、食べたくても食べられない状況に陥ることも少なくない。

[千葉県がんセンターが推進するプロジェクト「食と栄養のトータルケア」]
図:千葉県がんセンターが推進するプロジェクト「食と栄養のトータルケア」

がんの臨床研究と患者さんの心と体のサポートと同様に、患者さんの食と栄養をケアする

口から食べることの意義

最近では大学病院やがん専門病院を中心にNST(栄養サポートチーム)によって、そうした患者さんに適切な食事指導が行われ始めている。だが多くの病院では、食べられないがん患者さんに対して、静脈注射による栄養投与などで済まされているのが実情だ。

しかし、そうした従来の対応では、患者さんの体調が快方に向かわないばかりか、治療にも悪影響が現れることも多いと中川原さんはいう。

「食べるということは全身の機能に重要な影響をもたらします。食事は生命の維持のためだけではありません。食事には、『栄養をつける』『満足する』という2つの意味があります。この『満足』は口から食べ、喉を通らないと得られません。栄養を摂ることだけを考えるならば、胃に穴を開けて直接栄養を流し込む、胃ろうなどの方法で、外部から人工的に栄養を摂ることはできます。しかし、それでは食べることの満足感を得ることはできません。だから口から食べて満足を得るということがとても大事なんです」

また、中川原さんは食べることで維持される体の機能について次のように語る。

「口からものを食べることで全身の機能は働き、活性化します。口やあごを動かさないと、嚥下や咀嚼のための筋肉が衰え、さらには体の機能が低下してしまいます。また身体機能だけでなく、生きる意欲も落ちてしまいます。食べられないことは、心身両面で苦しく、患者さんにとっては屈辱です。だから口から食べることを重要視してサポートする必要があるんです。口から食べて体力と気力を養うことで、厳しい治療に耐えることもできるのです」

より重要な在宅での食事

ここ数年のがん治療は大きく変化した。それを背景に、中川原さんが重要性を訴えるのは、在宅での「食」だ。

「現在は2人に1人ががんに罹患する時代です。一方、がん治療も進化して、少し前まではがん患者の5年生存率は約50パーセントに過ぎなかったのが今は約70パーセントに向上しています。さらに付け加えると現行の医療制度でのがん患者さんの入院期間は平均で2週間となっています。つまり今は自宅で暮らしながら、がん治療を続けることが当たり前になっています。病院にいる間はNSTのサポートもあり何とか食べることができても、自宅ではそれがままならない人も少なくない。自宅で療養を続ける患者さんにQОL(生活の質)を維持してもらうには、自宅でいかに上手に食べてもらうかを考える必要があるのです」

同センターでは、そうしたがん患者さんを巡る環境変化に対応するために、10年6月に「心と体総合支援センター」を発足させた。これは地域を主体にした取り組みで、「食と栄養のトータルケア」プロジェクトはその中核事業の1つとして位置づけられている。

中川原さんは食べる機能を維持するケアはがんが見つかった時点から行うのが理想だという。当然のこととして、すでに治療が進行している患者さんへのケアは不可欠だ。

がん患者さんのための食事4つの条件

食べることが困難ながん患者さんが心身ともに満足できる食生活を実現するには4つの条件が求められると中川原さんはいう。

「まず第1に体力を維持するために栄養が十分に含まれていること。とくに転移が発生するなど症状が進行している場合は、血中のアルブミンというたんぱく質や電解質のバランスがいびつになっていることも多いので、その面での配慮も必要です。

第2のポイントは味覚面での配慮です。がん患者さんの中には、抗がん剤などの影響で味覚障害に陥っている人は少なくない。そうした人はおいしさの基準が健常な人とはまったく違ったものになっている。その人にとってどんな食事がおいしく感じるのかを慎重に確認する必要があるのです。また嚥下障害、通過障害の人でも容易に喉を通す食物の柔らかさ、さらに見た目の自然さ、美しさも重要なポイントです」

進み出した味覚障害の研究

少し前までは抗がん剤治療のもっとも一般的な副作用として、おう吐があったが、最近では制吐剤の進歩により、吐き気を催す患者が少なくなっている。代わりに浮上してきたのが味覚障害の問題だ。

「味覚は舌の味蕾()の神経細胞の働きによって決まっています。しかし、抗がん剤治療によって味蕾の遺伝子が損傷されて味覚障害に陥る患者さんが少なくありません。この障害は人によって現れ方や程度がまったく違います。そこで個別の抗がん剤で、味蕾のどんな遺伝子が損傷されるかを調べ始めています」

この研究は、食品メーカーで以前から味覚についての研究に取り組んでいたキッコーマン社との共同で進められている。

中川原さんは、将来的には、遺伝子の状態を調べて患者さんの味覚変化をチェックすることも可能になるのではないか、という。

そうなれば患者さんがおいしいと感じる味が割り出せるようになり、味覚障害に苦しむがん患者さんには大きな朗報といえるだろう。

中川原さんは40数年前、小学生のときに父親を胃がんで亡くしている。そのとき、食事ができなくなった父親が、最期に口にしたスイカに感激したことが今も忘れられないという。

「食べられなくなった人は、あと1回でいいから自分で食べたいと必ず口にする。食べることは誰にとっても根源的な欲求です。その痛切な欲求を多くの人に果たしてもらえればと願っているのです」

自らの体験を原点に、中川原さんの夢は膨らむ。

味蕾=舌の表面の小さな突起の中にある、味覚の受容器。ここで味覚信号を受け、その信号が脳に伝わり味を感じることができる。味蕾で味覚細胞が作られている

写真
食事が摂りにくい人のための食品も次々と開発されてきている

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