仕事をしながら療養する 59

印刷会社職人の罹患 業務上疾患と労災補償

取材・文●菊池憲一(社会保険労務士)
発行:2014年1月
更新:2014年7月

  

本田真吾さん

本田真吾さん(32歳)は、オフセット印刷をする校正印刷室で働いていた。洗浄用の塩素系有機溶剤にばく露。肝機能異状のため、退職。その6年後の夏、胆管がんの告知を受けた。31歳のときだ。

手術を受け、抗がん薬治療を続ける。2013年3月、厚労省の調査で、有機溶剤による職業性胆管がんと認定された。本田さんは、労災補償給付を受けながら、次の仕事に向け充電中である。

先輩の下、印刷職人として

本田さんは、2000年4月、大阪市内の印刷会社SANYO-CYPに就職した。当時の社員は40名ほど。24時間フル稼働が売りで、短期間での納品が評判となり会社は急成長。

91年に社屋を建設。地下1階の校正印刷室には、7台の印刷機を設置。品質管理のために、湿度と温度を一定に保つ空調システムを導入。外気と触れないようにした。職人気質の先輩を見習いながら、本田さんは仕事を覚えた。

オフセット印刷は、刷版についたインキを、ブランケットと呼ばれる樹脂やゴム製の転写ローラーにいったん移し、そのブランケットから紙に転写される。インキは赤、青、黒、黄の4色で、色を変える度にローラーの洗浄を行う。ブランケットの洗浄剤として、有機溶剤の1,2-ジクロロプロパン、ジクロロメタンを用いた。

本田さんは、9~18時または18~6時まで、校正印刷室で働いた。洗浄時には、片手にプラスチックの手袋をして、有機溶剤を付けた布でブランケットのインキ落としなどをした。洗浄回数は1日に300~800回に及んだ。

校正印刷室は、20~30代が中心。換気の悪い部屋で、高濃度の有機溶剤を吸い続けながらの洗浄作業が続いた。有機溶剤が有害なものだとは聞かされていなかった。

1,2-ジクロロプロパン=有機塩素化合物。可燃性のある無色の液体で、クロロホルムのような臭いを放つ。2013年に特定化学物質に指定 ジクロロメタン(塩化メチレン)=有機溶媒の一種。常温では無色で、強く甘い芳香をもつ液体。難燃性の有機化合物のため、広範囲で溶媒や溶剤として利用されている。環境負荷と人への毒性の懸念から、PRTR法(特定化学物質の環境への排出量の把握等及び管理の改善の促進に関する法律)により利用と廃棄が監視される物質

同僚の死と、罹患への恐怖

入社して3~4年した頃、校正印刷室の社員の体に異状が起きた。03年と04年に、在職中の27歳と30代の先輩ががんを発症。96年、97年には在職中の社員、99年には退職していた元社員が発症していた。社員の間では「有機溶剤のせいではないか」と不安が広がった。

06年の夏、本田さんは会社の健康診断を受けた。肝臓の3つの検査値が上昇していた。とくに、薬物性肝障害の指標となるγ-GPTが高かった。通常は80以下だが、700だった。エコーやCT、MRIなどの精密検査を受けたが、わからなかった。最高値で1200~1300になった。通常なら黄おうだ疸んが出てもよい数値だったが、幸いにも出なかった。

担当医は「職場がおかしい。現場を離れて、経過観察しましょう」と提案した。会社に伝えて異動した。異動して数週間後、数値が下がった。肝臓異常の原因は、地下1階の校正印刷室だとわかった。

「今度は僕かも知れない……。怖くなった。それに、新しい部署でのパソコン仕事は好きになれなかった」と本田さん。

10月に退職。雇用保険の失業手当の支給を受けながら、仕事探しと病院通いを続けた。

08年1月。自宅近くの総合病院に介護士として就職。勤務時間は、朝8時、9時、10時からの3パターン。夜勤は月4回。週休2日。印刷会社に比べると楽だった。健康チェックもマメにした。印刷会社での悪夢を忘れかけていた。

ところが、10年2月に訃報が届いた。一緒に働いたA先輩が胆管がんで亡くなった。A先輩の遺族らの依頼で、関西労働者安全センターの片岡明彦事務局次長らが労災請求などの支援活動を始めた。産業医科大学産業保健学部の熊谷信二准教授による調査も始まった。

「これは、職業性疾患に間違いない。すぐに、そう思いました」と片岡さん。TVや新聞の報道も行われた。A先輩を含め、10数名もの元社員や現社員が胆管がんになったことを知った。「自分もなるのではないか……」全身が震えた。

関西労働者安全センター
〒540-0026 大阪市中央区内本町1-2-11ウタカビル201
TEL.06-6943-1527 FAX.06-6942-0278 E-mail:koshc2000@yahoo.co.jp

告知と療養補償給付

12年3月、A先輩の遺族ら3名が遺族補償給付の請求をした。肝臓疾患で退職した本田さんも、療養補償給付の請求をした。8月には、大阪市立大学医学部附属病院に「胆管がん特別外来」が設置された。洗浄用の有機溶剤を大量に使用し、胆管がんを発症した患者さんを集中的に診察し、よりよい治療の開発に取り組み始めた。

本田さんは、すぐに「特別外来」で精密検査を受けた。担当医師に「肝臓と胆管がつながっている場所に腫瘍があります。放っておくと、悪性になる可能性があります。手術をしたほうがよいでしょう」と言われた。事実上のがん告知、31歳だっだ。

10月、13時間に及ぶ手術を受けた。腫瘍はきれいに切除できた。術後は、再発予防のために点滴による抗がん薬治療を受けた。12月末に退院。入院費は、労災保険の認定を見込んで、労災保険の療養補償費扱いにしてもらった。「労災保険だと治療費の自己負担なしです。精神的に、とても楽でした」

退院後は、再発予防のため抗がん薬のTS-1を服用中。幸い、大きな副作用はない。仕事は休んでいる。病院加入の協会けんぽから支給される傷病手当金で生活を支える。

13年3月、大阪中央労働基準監督署に請求した労災補償給付の支給が決定した。16名の元・現社員の労災補償給付の支給が決まった。本田さんは、協会けんぽの傷病手当金を、労災保険の休業補償給付に切り替える手続きも始めた。

「労災保険の恩恵を受けながら、しばらくは抗がん薬治療に専念します。今、クレヨン絵に興味を持っていてコンクールにも入選しました。元気になったら、アート関係の仕事も視野に入れて、仕事探しを始めます」

TS-1=一般名テガフール・ギメラシル・オテラシルカリウム

キーワード 労災保険の療養補償給付

労働者が業務上の負傷や疾病にかかって、療養を必要とされるとき、療養補償給付が支給されます。治療費は全額無料。労災指定病院で、療養するときは、その医療機関を経由して、所轄の労働基準監督署に請求します。13年10月1日、厚労省は「1,2-ジクロロプロパン、ジクロロメタンにさらされる業務による胆管がん」を、労災補償の対象にしました。SANYO-CYPの17件を含め25件が労災認定(2013年10月末)

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