限られた生を、いつもと同じありふれた日常の中で過ごしたい 家族のあたたかな「気配」のそばで――在宅緩和ケアを訪ねる

監修●井尾和雄 立川在宅ケアクリニック院長
取材・文●常蔭純一
発行:2010年5月
更新:2020年1月

  
井尾和雄さん 立川在宅ケアクリニック院長の
井尾和雄さん

残された日々を病院で過ごす患者さんがほとんどだ。その中にあって、在宅で最期を過ごすことを決めた患者さんがいる。これまで1,300人からの患者さんを在宅で看取ってきた立川在宅ケアクリニック院長の井尾和雄さんに同行取材した。そこには、家で過ごす患者さんと家族との間に生まれるさまざまな人生ドラマがあった。

最期までとっておきたい「ゼロ戦づくり」

東京、立川市でリフォーム事務所を営む谷川進さん(72歳)の自宅兼オフィスの一角には10機ものミニチュア戦闘機が飾られている。そして、その傍らには2年の製作期間を要する16分の1サイズの「ゼロ戦」のキットが幾箱も手つかずの状態で並べられている。

「ゼロ戦は子どもの頃からのあこがれだった。1度はきちっとしたものを自分の手で作りたいと思っていたのです」

このキットは09年9月、同じ年の2月に再発したがんの症状が悪化の兆しを見せ始めた頃に購入されたものだ。谷川さんにとっては、この「ゼロ戦づくり」こそ最期の最期までとっておきたい楽しみであり、イベントである。

谷川さんが初めてがんに見舞われたのは03年、夏のことだった。何度もの検査を繰り返した結果、小腸と十二指腸の間にGIST(消化管間質細胞がん)と呼ばれるがんが発見された。進行の早い、たちのよくない種類のがんだ。直ちに入院して腫瘍を切除した。しかし6年後の09年2月に腹膜などに何カ所もの再発が見つかり、グリベック(一般名イマチニブ)を用いた通院抗がん剤治療とともに在宅緩和ケアの利用を開始。そのグリベックの効果が09年秋に消失したこともあって、現在、谷川さんは週に1度、国立がん研究センターに通い、スーテント(一般名スニチニブ)による治療に取り組みながら、在宅緩和ケアを受け続けている。

在宅緩和ケアでは毎週、医師と、看護師が1度ずつ訪問。容態変化をきめ細かにチェックしながら鎮痛剤、利尿剤、持病の糖尿病をコントロールするための治療薬など10種類前後の薬剤投与を中心としたケアが行われている。抗がん剤と鎮痛剤の効果によるものだろう。現在はがんは悪化の兆しがなく、痛みなどの症状も抑えられており、再発前と変わらない暮らしが続けられているという。

「後で妻の話を聞くと、再発時に前の病院で余命6カ月程度といわれていたらしい。そのときに医師の勧めに従って、在宅緩和ケアを利用することにしました。病院にいようが自宅にいようが死ぬときは死ぬ。それなら最期まで自分らしく暮らしたい。その点で在宅ケアは私の希望にピタリと合致しています」

人の手助けを続けたい

写真:谷川さん

「痛みなどの症状もないし、おかげでゼロ戦づくりも先延ばしにできています」と語る谷川さん

谷川さんは大学進学のために郷里の山口県から上京後、いくつもの職を転々とした後に、30歳の若さで立川市にリフォーム事務所を開業。それから現在に至るまで谷川さんは、住宅建設を中心に自ら「1人ゼネコン」と称する多様な仕事をこなしながら、地元の人たちの不動産にかかわるさまざまな相談に乗ってきた。ときには何の補償もなく立ち退きを要求された女性を救援するような「人助け」も何度となくあった。

そうした生き方が手伝っているのだろう。地元では「建物のことはあの人でなくては」という「谷川ファン」も少なくない。がんが見つかった後も谷川さんが仕事を続けているのも、そんなファンたちからの要望に応えてのことである。

「毎朝、5時半に起き出して、介護ボランティアに携わっている妻といっしょに朝食をとった後、仕事を始めます。その合間に趣味の株の相場をチェックし、気が向けば絵筆も握る。今、手がけているのは近所の病院の玄関の改装と住宅改築にともなう表具づくり。人の役に立てるのは生きていることの手ごたえを感じることができて有難い。今は痛みなどの症状もないし、容態が変化した場合も在宅医がついていてくれるので安心できる。おかげでゼロ戦づくりも先延ばしにできています」

こう語る谷川さんの目には、70歳を越え、GISTという難治がんと闘っているとはとても思えない力が宿っている。あるいはそのことも在宅緩和ケアならではの恩恵かもしれない。

日本では数少ない在宅ケアクリニック

最近になって、がん専門病院などを中心に緩和ケアが広がり続けている。しかし、在宅で緩和ケアを受診している人たちはまだそう多くはない。と、いうより在宅緩和ケアの存在そのものが、まだ一般の人たちには認知されていないというほうが当たっているかもしれない。

「日本では病院やホスピスなどでの終末期医療が当たり前のこととして受け止められており、在宅での緩和ケアを選択する人はそう多くない。しかし、在宅での緩和ケアには病院などでのケアとは違って、自分の暮らしを続けられる特長がある。これからは在宅での緩和ケアが広がっていく可能性も大いにあるでしょうね」

と、語るのは10年前の2000年2月に立川市で井尾クリニック(現・立川在宅ケアクリニック)を立ち上げた、在宅緩和ケアのパイオニアの1人でもある井尾和雄さんである。

「やはり医師だった父親が病院で何本ものチューブにつながれながら無残に死んでいった。もっと人間的な死に方をさせてやれなかったのか。そう考えたことが在宅緩和ケアを始めた原点になっています」

日本で在宅緩和ケアを実施している診療所で、年間40人以上の患者を看取っているのはわずか60数カ所。井尾さんが主宰する立川在宅ケアクリニックは、そのなかで有数の規模と実績を持つ。この10年間で同クリニックが看取った患者数は約1,300人。そのうちの約85パーセントががん患者だ。

現在は4人の医師、2人の専従看護師、さらに外部の訪問看護ステーションの力も借りて120人あまりのケアを手がけている。その約6割ががん患者だ。

それらの患者は大きく3つのタイプに分かれていると井尾さんはいう。

「もっとも多いのが、病院での治療の術がなくなり、終末期医療として在宅治療を選択しているケース。末期がんなどで自ら治療を拒否しているケース。それに他の病院で抗がん剤などによる治療を行いながら、在宅で私たちの緩和ケアを受けている人たちもいます」

立川在宅ケアクリニックに限らず、在宅緩和ケアでは基本的にがん患者に対してがんに関する治療は行われない。しかしモルヒネなどの医療用麻薬などの鎮痛剤を使った緩和ケアに併行して、たとえば糖尿病など、その人のQОL(生活の質)向上を実現するための治療は行われる。いってみれば「限られた生」をより充実させるための医療と考えればいいだろう。

そこで実際にどんなケアが行われ、患者はそれをどう受け止めているのか。09年11月から10年2月にかけて、何度となく井尾さんに同行取材をお願いした。冒頭で紹介した谷川さんもそうして知り合ったがん患者の1人である。

[立川在宅ケアクリニックの在宅・施設で看取った患者数]

図:立川在宅ケアクリニックの在宅・施設で看取った患者数

(2010年2月28日現在)

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