第一回 闘病記大賞 深見賞 受賞作品

「今日を生きる」(2)

渡辺禎子 主婦●北海道札幌市
発行:2014年1月
更新:2019年7月

  

現在70歳の渡辺禎子さん

30代で胃がんと腸閉塞、50代で肺がんと甲状腺異常、60代で乳がんを経験し、現在も乳がんの再々発を生きる

札幌に戻った或る日、食事のとき沢山食べて満足していたら、少し間を置いて、腹部に激痛が走り、苦しくて身を捩りながら冷汗が出てきた。意識が朦朧となり、このまま死んでしまうのかしら……と思い、一時は救急車まで考えたが、大分時間を経て落着いてきた。

後日、K札幌病院のH先生にそのときの状況を告げると、「食べ物が納まる場所が無いのに」と呆れられた。

私には胃がないという、自分の状態を理解していない行動が原因だったのですね。私はそのとき「普通」ではない身体だと気づきました。

がんばる姿を子どもに示す

住んでいる地域では、誰も私の病気を知りません。敢えて自分からは病気のことを語らなかったが、息子の小学校の役員を引受けたことに端を発し、いろいろな役員を要求されるので、止むを得ず「病気もしているので」と説明をしても、健常者は聴く耳など無かった。

数年後、夫の転勤が決まった。私は皆で生活したいと希望したが、夫は受け入れてくれず単身赴任した。子供たちは大学・高校・中学生と成長しており、私は土日のパート仕事を始めた。

仕事先でも誰も私の病気を知らないので気楽でした。しかし、残業もあり身体的には苦しい時期でもありました。でも子供たちは、脇目もふらず働く私を案じてよく協力してくれました。

その後、長女は就職。帰宅途中に私を地下鉄で見かけ「後ろ姿が疲れているようで猫背になって、お母さんらしくないわよ」と後ろから背を叩かれたこともありました。また、長女が残業での帰路、家までストーカーにつけられたことがあり、それからは傘を手にバス停まで毎日迎えに行った。

どんなに疲れていても手を抜かずに手作りで食事をしっかり作れば、子供たちの成長にも役立つ。とくに思春期で高校生の息子には、単身赴任中で夫はいないので、気を抜かず自分が頑張ればその姿勢を見て悪いことはしないでしょう。それが教育だと思いました。

或る日、仕事から帰宅して急いで夕食を作っている後方で、息子が逆立ちをしていました。

そのとき、ガチャン!と、音がして振返ると、台所と洗面室との仕切りドアの上側の厚手のガラスに、すっぽりと足が……。床には血とガラスが散乱。映画のワンシーンを見る思いでした。急いで足の周りの、小さいガラス破片から徐々に取り除き、息子も私も無言のままタクシーで救急病院へ行った。子供が大きければ大きいほど、思いもよらないことが起きます。

次女は大学受験をむかえ、国立と私立の両方に合格しましたが、娘は家計のことを考え、地元の国立に行く決心をした。友人には東京の私大に行きたかったと話していたようで、そのことを友人の親から聞かされ、夫の反対を押して娘に東京の大学を勧めました。

長女も結婚しました。そして息子も遠くの大学へ行き、一時ですが家族はバラバラの生活になりました。

「子供たちは自由に大空に飛び立ってほしい」の願いも込めて天井に描いた

今、私の手の第一関節は使い過ぎて変形しています。リウマチを心配して病院に行きましたが、検査結果は使い過ぎとの結論でした。

胃がんの手術後、どれほど料理で手を使ったことか、それは生きる基本の「食べなければ生きられない」に発しています。そして家の中で皆が和むように、常に動きのある飾り付けを考えたり、それが私の家族に対して出来ることでした。

また、夫の単身生活は、私が週一で訪問して冷蔵庫に作り置きをしながら、無事に終わりました。

本当に実によく動きました。

健診で今度は肺がんが

夫の定年も近い平成12年、家族健診(人間ドック)が北海道J病院であり、今度は、肺がんが発見されました。

再検査をK札幌病院で行い、手術をすることになりました。ちょうどその頃、娘の出産を非常に楽しみに待ち望んでいたので、決まっていた手術日を勝手にキャンセルした。

H院長から直々に電話を頂き「命の保証が出来ないよ」と言われてしまい、予定通り手術を受けることにしました。

肺の部分切除で、過去の胃がんのときの手術と違って医療も進んでいて、入院期間は1カ月位と短かった。

ほっとして、手術が終わった喜びをかみ締めていたら、3、4日過ぎた頃、O先生から耳鼻科で診察を受けるように云われたが、私は肺と首がどうして繋がっているのだろうと怪訝に思いました。

耳鼻科で診たら、甲状腺に腫瘍がありがんではなかったが、全摘出することに。ちょうど年末で、年が明けてすぐ手術の予定になりました。長い結婚生活の中で、初めて静かな年末年始の台所を経験して、こんな中でも僅かに安らぎました。

そんな年末。入院の待機をしていた私の元に、娘婿の留学で海外へ行っていた娘が手術のため、突然に帰国したのです。今は元気ですが、人生はドラマよりも凄いと思いました。

また、手術前に息子の結婚式が遠く離れた関西で行われ、私も披露宴では詩吟を披露して、親としての役割を少し果たしました。

これからの自分を支えるために

様々な事柄が無事に終わり、昔デザイン画を学んだ経験もあり、自己流に自分を和ませる絵を家の天井に、飛びたい私の心を表わすように、三匹の鳥が各々を追うように飛んでいる絵を描きました。長女にも「私を心配せずにね、好きなことをしているのよ」のメッセージのつもりで、庭のバラの花等も描いたりしています。

これからの自分を自分が支えるため、カウンセリング教室にも通い学びました。受講終了後のボランティアはとても私にはハードルが高く出来ませんでしたが、全ての事柄の基本は『気づき』の学びでした。

その中には障害者の方もおりました。その方と受講終了の懇親会の後、廊下の自動販売機の前で、「何か取りましょうか?」と尋ねると、「車イスから上のほうは取れないので、上のほうをお願いします」と話され、不自由が別の形である事を知りました。

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